第97話:あくたがわ

 階段を駆け下りた私は、もう一度彼の名前を呼んだ。するとその返事なのか、痛みで呻いたのか、「うん、いたた……」と声が出た。


 屋上と階段室を繋ぐ階段は、それほど高くない。段数で言えば五つ。それでも打ちどころが悪ければ大怪我になるだろうけれど、音羽くんがさすっているのはお尻の辺り。

 それなら大丈夫だろうと、まずはほっとした。

 けれども本人でさえ、気付いていない可能性もある。なるべくそっと、音羽くんの頭を撫でてみた。傷があったり、こぶがあったりしないか。


 う──頭って意外と重い。

 両手で抱えるように、後頭部も。うん、問題なさそう。


「お、織紙?」

「音羽くん。頭、痛くない? 傷はなさそうなんだけど」

「──いや、痛くない。それより」

「そう、良かった」


 まだしつこく調べている私の前に、早瀬くんがしゃがみこんだ。彼の視線も音羽くんの頭を見て、それから腕や脚を指でつつく。


「平気そうだな。俺は先に戻っとくから」

「うん。ごめんね」

「いや、いいよ。でも、そろそろ苦しそうだ」

「えっ」


 指さされたのは、音羽くんの頭。そこにはもちろん私の手が触れていて──違う、苦しいと言うからには顔のほう。


「あっ、ごめんね! 苦しかったね!」

「い、いや。大丈夫。息は出来たから」


 状況に気付いて、さっと体を離す。

 私は後頭部を見ることに夢中になって、音羽くんの頭を胸に抱え続けていた。すると顔が押し付けられるから、息が出来ない。

 その証拠に、大丈夫と言った音羽くんの息は上がっていて、顔も赤い。


「ごめんね。傷を見ようとばかりしてしまって」

「ほ、ホントに。平気だから、マジで」

「良かったな、音羽。んじゃお先に」


 良かった。本当に、怪我がなくて良かった。また骨折なんてしたら、私はどうすればいいのか。

 振り返りながら去っていく早瀬くんを見送って、息をつくと胸がドキドキし始めた。


「──織紙。本当に本当に大丈夫だから。離してくれたら立てるし」

「ダメだよ。もう少し休んでないと」

「ああ、そっか」


 言った通りに立ち上がりそうだったので、腕を持って止めた。せめて何分かくらいは、様子を見ないと。


「どうしたの? なんだかぼうっとしてたみたいだけど、また寝不足?」

「……織紙って、すごいよな」

「どうしたの、急に」


 踊り場の床に座り込んで、すぐ近くに向かい合う。考えてみると妙な格好で、まじまじと目を見ながら言われた。


「ごめん、なんでもない」

「なんでもないの──?」


 さっと視線が外されて、音羽くんは言う。どう見ても元気がなくて、なんでもないとは信じられない。


「間違ってたらごめんね。でもきっと、なんでもなくないんじゃないかな」


 それが誰であっても、相手を疑うことは嫌い。誰の言葉も信じられて、傷付けることも傷付けられることもないなら、どんなにいいかと思う。

 けれどそうはいかない。残念だけど嘘をつく人は居る。


「さすがに通じないか」

「私は鈍いけど、それくらいは分かるよ」


 でも。同じ嘘であっても、誰かを守るための嘘もある。今の音羽くんは、きっとそうだ。

 誰だろう。私、ではないと思う。気付いていないだけかな……。


「すごいって思ったんだよ。織紙の周りに居ると、みんな頑張りやになる。さっきの野々宮がそうだし、天海だって前とは違う」

「純水ちゃんと祥子ちゃん? 二人とも、元から頑張りやさんだよ。私なんかにも優しくしてくれて、私のほうこそ二人のおかげで頑張れるよ」


 そうだな。と、音羽くんは笑った。

 楽しそうにはとても見えなくて、苦笑というんだろうか。寂しいような目をしている。


「ごめん。やっぱりなんでもない」


 様子を窺う素振りを見せながら、音羽くんは立ち上がる。まだ休んでいたほうがいいと思うけれど、大丈夫かな。

 なんでもないなんて絶対に嘘なのに、どうすればいいのかな。


「あの、えと。音羽くん」

「俺もたまには、いいところを見せないとなって。なにしたらいいか、考えてただけだよ。反対に、すげえ格好悪くなったけどな」


 あははっ、と。笑い声が乾いて聞こえる。

 芝居がかっているとかではなかったのに、すごく嘘っぽい。

 今のは嘘だ。私になにかを隠そうとして、ごまかしたんだ。


 そう思うと、とても悲しくなった。すごく近い。一歩もない現実の距離が、白々しい。

 私に嘘を言わないでなんて、そんなことは勝手だと分かっている。音羽くんにだって、恥ずかしかったりとか、色々な理由で隠したいことはあるに決まっている。


「よし、戻ろう。早瀬にだけ任せとくのも、悪いからな」

「うん……」


 私は、歩くのがゆっくりだ。それでも音羽くんは、いつもそのペースに合わせてくれていた。

 彼はいま、足早に階段を降りて、こちらを見ずに歩いていく。一度も振り返らずに、私たちの教室のほうへと歩いていく。

 音羽くんと私の距離が、すさまじい速度で離れていく。

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