第93話:ふりだしにもどる
順に話させてほしいと、樋本さんは言った。それはもちろん、こちらも分かりやすくていい。感情が高ぶったようなので、それが心配なだけ。
「あなたのお婆さんの計らいでね、生活はとても楽になったの。でも娘を亡くしてしまうと、立ち直るのに随分とかかったわ」
事故直後から始まるらしい。お婆ちゃんの計らいとは、保険金のことだろうか。三人分でどれくらいなのか想像もつかないけれど、樋本さん一人が暮らすのには相当な助力になるのだろう。
そのお礼の意味でか、樋本さんは司さんに会釈程度、頭を下げた。司さんも目礼程度に答えている。
「さっき計らってもらったと言ったけど、正直なところはほとんど覚えていないの。渡してもらった名刺とか説明資料をあとで確認して、誰がなにを話していったのか理解したような感じだった」
「私がお察しするなんて、到底出来ないくらいにつらかったと思います」
「気遣ってくれてありがとう。でもそれを分かってほしいというんじゃないの。大人の私がそうなったのに、学生と五歳のあなたたちはどうだったんだろうって」
どうもこうも、私も樋本さんと同じに覚えていない。昨日話した様子だと、お兄ちゃんも怪しい部分が多い。
みんながその時間を、呆然と過ごしたということだ。
「思い立って見に行ったら、あなたたちは引っ越したあとだった。ずっと香奈を見てもらっていたのに、私はなにもしていないと悔やんだわ」
「──やっぱり、それだけつらかったということだと思います。大人だって、悲しいものは悲しい、ですよね」
樋本さんの目が潤む。
だから気分を害したわけではないと思う。けれども困ったような顔がなにを意味するのか、図りかねる。
「言乃ちゃんは変わらないわね──」
「え、と。どうしてですか?」
「あなたは、小さいときもそうだった。お母さんや私が疲れたって言うと、『しんどいのに頑張ってますね』って。自分がお姉さんみたいに頭を撫でてくれたの」
そんなことをしていたのか。年上も年上。文字通りに親世代の人に、そんなことを言っていたとは。
時すでに遅すぎる恐縮とともに「すみません」と呻く。
「すまなくないわ。私はそれで、すごく楽な気持ちになれた。文乃さんだって、我が子にそんなことを言われたら、どんな疲れも吹っ飛んだはずよ」
「それならいいんですけど……」
そう言ってもらったから、そんな答えを返しはした。でも心中では、恥ずかしくてたまらない。昔の私、なんて恐れ知らずなことをと。
「文乃さんとは、病院で知り合ったの。あなたと香奈が、産まれる時の話」
「同じ病院だったんですね」
「ええ、そうよ。それどころか、あなたたちは同じ日に産まれたの」
知らなかった。いや、覚えていないだけかもしれないけれど。
「同じ誕生日──?」
「そう。同じ日に産まれて、同じ日に退院して、同じアパートに帰ったの。聞いていた予定日も同じだったから、そんなこともあるのねって仲良くなったのよ」
それが最初の縁になって、シングルマザーだった樋本さんは、香奈ちゃんを預けることになったらしい。
「私は学がなかったし、少し借金もあったから苦しくて。でも文乃さんのおかげで、たくさん働くことが出来た。あの日だって、プレゼントを買いに行くのを任せてしまった」
それは私の誕生日。つまり香奈ちゃんの誕生日でもある。
買い物を任せなければ、そんなこともなかったのにと。そんな風に考えているのだろうか。
「香奈を預けなかったら。プレゼントくらい、自分で買いに行っていれば。そう考えると、あなたたちには謝っても謝りきれない」
「……それは、誰のせいでもないと思います。お母さんは香奈ちゃんを預かるのが嫌だとか、そんなことは一度も言いませんでした。悪いのは、ひき逃げをした人だけです。それ以外には居ません」
お母さんがどう思っていたか。それももちろん覚えていない。でも言われたように、樋本さんがしたなにかが原因だとは思わない。
誰かを頼って、善意で引き受けて、その結果がこれとは残酷すぎる。
それにしても芝居が過ぎただろうか。樋本さんは「言乃ちゃん」と驚いて、黙ってしまった。
頭が真っ白という風ではなく、必死になにか言葉を紡ごうとはしているみたい。なんどか口を開きかけて、挫けているのが分かる。
「あの。香奈ちゃんは、私のことをどんな風に思っていたんですか?」
もう謝ってもらう必要はない。だから少しでも違う話をと思った。
しかし突飛だっただろうか。「香奈が、言乃ちゃんを?」と、また考え込ませてしまった。
「……香奈はそれほど、言いたいことを言う子じゃなかったから。間違ってるかもしれない。でもきっと、言乃ちゃんのことを姉のように考えていたと思う」
言いたいことを言わない。それはそうだ。態度で示して、察してもらっていたから。
瞬間的にそう思って、それは違うと自分を戒める。
私が知っているのは、香奈ちゃんのほんの一部。僅かな記憶だけのことで、それさえ誤っているかも。
「なにか、そんなことを?」
「そうね、ちょうどそれが分かる物があるわ。あなたに渡したくて、持ってきたの」
樋本さんは、大きめのトートバッグを持参していた。特に気に留めていなかったのだけれど、持ってきた物とは、その中に入っているらしい。
「これ。開けてみて」
テーブルに載せられたのは、両手にちょうど乗るくらいの包み。綺麗なラッピングだけれど、古ぼけている。
私が開けていい物なんですかと聞いても、頷くだけで説明はなかった。
しかたなく、ガサガサとした手触りのリボンや布を剥がしていく。
「ぬいぐるみ?」
オレンジ色の、小さな犬のぬいぐるみ。とても可愛いと思うけれど、これで香奈ちゃんの気持ちは分からない。
私の問いは置いて、樋本さんはまたバッグを探った。
「これは香奈の」
「同じですね」
淡いピンク色のぬいぐるみが、もう一つ。取り出した手から離れることはなく、それが香奈ちゃんかのように撫でられる。
「前の晩にね、香奈が言っていたの。おもちゃ屋さんのチラシを見て、この子たちは兄弟なのかって」
「なんて答えたんですか?」
「可愛い色だから、兄弟じゃなくて姉妹じゃないかと言ったわ。そうしたら、香奈はすごく喜んでた」
考えた。その意味を。
それ以上のことは、樋本さんも聞いていないらしい。
でもどうやっても、同じぬいぐるみを持つことで、自分たちと同一視させようとしたとしか思えなかった。
「言乃ちゃんのは、トランクスペースにあったの。香奈のは、ぎゅっと握りしめられてた。もしそれが嫌だったら、返してくれてもいいわ。お寺に奉納しようと思うの」
香奈ちゃんに語りかけるように、樋本さんはぬいぐるみと見つめ合う。亡くなった香奈ちゃんの小さな手にあったのだろう、そのぬいぐるみを。
私のぬいぐるみも、同じ車の中にあった。事故の様子は写真でも見たことがないけれど、ひどく壊れていたとは聞いた。
その中で、ラッピングも破けずに残っていたプレゼント。
お父さんとお母さんからの、最後のプレゼント。香奈ちゃんが選んでくれた、最初の友だちからのプレゼント。
「──いえ、欲しいです。私がもらっていいのなら」
「そうしてくれると、おばさんも嬉しいわ」
樋本さんの用件は、このぬいぐるみを渡すことだったそうだ。受けた恩にも関わらず、十年も経ってどう声をかけたものか、悩んでいたらしい。
「私がいま働いてるところのお客さんがね、ここの常連さんみたいなのよ」
特徴を聞いてみると、たしかに私も知っているお客さんのようだった。名前と年頃が一致して、まさかと思って来たのが最初だと。
「でも良かったわ、本当に。言乃ちゃん、昔と全然変わっていないもの」
「いえ、そんな……」
そろそろ帰ると言う樋本さんに、私は口ごもってしまった。
変わっていないと言われても、なにも覚えていない。そうなんですよとも、そんなことはとも、答えられない。
「気にしないで。おばさんのこと、本当は覚えていないんでしょう?」
「え……」
気付かれていた。なにか、おかしなことを言っただろうか。ここでの会話を振り返るけれど、思い当たらない。
「だから、前と変わっていないから分かったのよ」
「どういうことですか?」
だってねえ。と言った樋本さんの目が、入り口近くの席に居る祥子ちゃんたちに向いた。それからテーブルの調味料を補充していた、音羽くんにも。
「言乃ちゃんになにかしたら、ただじゃおかないぞって。ずっと睨まれていたもの。おばさん、怖かったわ」
純水ちゃんと祥子ちゃんは、所在なさげに肩を寄せあった。音羽くんも驚いた顔をして頭を下げると、調理場に引っ込んでしまう。
いたずらっぽく笑っても、樋本さんの顔は儚げだ。私が笑った時は、どうなのだろう。
自分では見ることが出来ない。
「ええと、すみません……みんな私のために良かれと思って」
「大丈夫よ。言った通り、安心したもの」
「でもそれが変わってないって──」
あらためて聞くと、樋本さんもそこには驚いた。そこまでなにも覚えていないのは、予想外だったらしい。
「言乃ちゃんはね、近所の子みんなのお姉さんだったのよ。誰かが困ってたら、どこにだって駆けつけた」
小さなころの私は、そんなことを?
今の自分からは、想像も出来ない。私はおせじにも要領が良くはなくて、みんなに迷惑をかけてばかりいて──。
そうやって戸惑う私には構わず、樋本さんは続ける。
「だからみんな、言乃ちゃんの味方だった。香奈も、その助手みたいな気分だったんでしょうね。誇らしい、みたいなことをよく言っていたわ」
樋本さんはおとはのみんなにも挨拶をして、帰っていった。今度は焼香でもしにきてほしいと言い残して。
私の人生は、五歳の時にリセットされた。
性格や考え方も含めて、それまでがどうだったかなんて覚えていない。でも幸いにも、不自由なく成長した。
それがまた高校生になって、変わっていないと言われるとは。
喜ぶべきことなのか、ちょっと分からない。
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