第92話:せんとうまですすむ
日付けが変わる前に、司さんは約束を取り付けた。
相談してもお兄ちゃんは、私のしたいようにすればいいと言うだけだった。私の言い分をきいて、じゃあ僕も居ないほうがいいなと。
司さんは万が一の心配はするものの、みんなが考えてくれた案ならばいいだろうと言った。
「ご用があるのでしょうから、お話しましょうとお伝えしました。言乃さんが、お顔と家を覚えていたとも」
戸惑う様子はあったものの、逆に怪しまれたり異論だったりはなかったらしい。
場所は、おとは。日時は土曜日の午後二時。つまり約束した次の日にすぐ。
私は三十分ほど前に着いて、おとはのみなさんに謝った。
私のことで、続けてご迷惑をかけていること。お手伝いも、何度も休んでしまっていること。
お父さんもお母さんもお婆ちゃんも、異口同音に「気にしないで」と言ってくれる。私はこの御恩を、返すことが出来るのだろうか。
お昼の混雑から居たお客さんも帰って、店内はガランとした。もちろん純水ちゃんと祥子ちゃんが、いちばん入り口側の席に居るけれども。
彼女たちは、私よりも早く来ていた。
それから少し待って、おおよそ約束の時間に扉が開く。
痩せた身体に、こけた頬。おせじにも、健康そうには見えない。髪もパサついている感じで、乱暴に括った先が胸に届いている。
その顔を見ても、記憶は蘇らなかった。
「言乃ちゃんなのよね。おばさんのこと、覚えていてくれて嬉しいわ」
「あ、いえ──」
椅子から立って待つ私に、樋本さんは頭を下げた。私も釣られて頭を下げる。
意外と声は、はっきりしっかり。しゃがれてでもいるかと思ったのだけれど。痩せてはいても顔色は良くて、病気とかではなさそうだ。
「お茶をどうぞ」
「すみません。お邪魔しております」
まずは座った私たちに、お母さんがお茶を出してくれた。普段お客さんに出している湯呑みではなくて、蓋も付いているやつだ。
それを一口、二口と、お互いにどう切り出したものか、言葉が出なかった。
そこでまたお店の扉が開いて、司さんが入ってくる。
念のため。というのがなんのためか良く分からないけれど、お店に入る前の様子を見ておくと言っていた。
すぐ続いて入ってくるのも感じが悪いので、このタイミングになったのだろう。
「昨日は突然に、失礼を致しました」
「いえいえ。驚きましたけど、ありがとうございました」
樋本さんが立とうとするのを制して、司さんは二つ先の席に座る。それを見送ってから、「あちらは?」と質問があった。
「私の祖母のお世話をしてくれている人で、いまはこちらに来てくれているんです」
「そうなの。じゃあ、お婆さんのお世話になれているのね。良かったわ、ずっと心配していたの」
もう、顔の作りがそうなっているのだろうか。樋本さんは笑っても、疲れたような雰囲気が消えない。
ずっとと言われても、私はなにも覚えていない。だから早々に話題を変える。
「ずっと心配してくださって、それで最近も様子を見に来てくださっていたんですか?」
「──ううん、違うわ。心配していたのは本当だけど、言乃ちゃんがここに居るって知ったのは、つい最近のことなの」
「居ると知って、様子を見に来てくれたんですか?」
そうだったらいいなと、それが結論になるよう焦っていたのかもしれない。
事実は違っているみたいで、樋本さんは少し困った様子だ。
「そういじめないで。それなら、こそこそしたりしないものね。自分でも分かってるの」
「い、いえ! そんなつもりは全然」
「お兄さんは?」
私の弁解をどう受け取ったのかは、分からなかった。自然な動作で、店内をぐるりと見渡す。
お兄ちゃんは来ていないので、もちろん見つかるはずはない。
「私にご用だと思ったので、来ていません」
「そうなの、残念ね。お兄さんにも謝りたかったのに」
「なにか、謝りに来られたんですか?」
樋本さんは「そうね」と一言を発したあと、まっすぐ私を見たまま動かなくなった。なんだろうと思う私も視線を返して、三十秒ほども見つめ合う。
すると次第に樋本さんの目が潤んで、口元もわなわなと、嗚咽を堪らえようとするように動き始める。
「……う、うう」
「あの、大丈夫ですか」
手を差し伸べようとするものの、樋本さんは首を横に振る。泣くのを堪えながらも、私から目が外れない。
どうしたものか。出しかけた手を引っ込めることが出来なければ、次になんと言えば良いかも分からない。
「ごめんなさいね」
「ええと……」
「あなたたちからご両親を奪ってしまって、ずっと謝りたかったの。本当にごめんなさい」
なにを言っているのだろう。まさかひき逃げをしたのが、樋本さんとでも言うのだろうか。
どういうことか、目で司さんに助けを求める。けれど彼女も、なんのことだかというように身振りで否定した。
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