第90話:いっかいやすみ
香奈ちゃんのお母さん。
何度も会っているはずだけれど、全く顔が思い出せない。思い出せたとしても、十年も前だから印象は違うかもしれない。
どんな人だっただろう。話したことだってたくさんあると思うのに、これも思い出せなかった。
縁のあった人ではあるけれど、今の私にはそれくらいしか残っていない。そんな人が、どうしていまさら現れたのか。
互いに行方を知らなかったけれど、おとはでお手伝いしているのを偶然に知った。なんてことなら、普通に声をかけてくれればいいのに。
得体のしれない相手という恐怖は、薄らいだ。けれどもなぜ私を待ち受けるのか、という疑問が増した。
「覚えてないんだけど、事故のあと香奈ちゃんの──樋本さんとはどうなったの?」
「ええと、相手の車から賠償金をもらって……そういえば、そのあとのことは知らないなあ」
私の両親は、香奈ちゃんを車に乗せて走っている時、事故に遭った。そうと聞いた時のことは、覚えていない。
なのに変な言い方にはなるけれど、その時のことを思い出すと胸が苦しくなる。
どんよりと重い雲に包まれたように。その雲が、私の心を食い尽くそうとしているかのように。
「賠償金は支払われていません」
「えっ、そうなんですか」
事後の手続きで言えば、当事者だったお兄ちゃんでさえうろ覚えなのに、関係ないはずの司さんが言った。
「事故があったのは、自動車専用道路上。概ね指定速度で走行していたご両親の車両は、後続の車両に追突されました」
「指定速度?」
「速度制限の標識があるでしょう。あの速度です」
事故の状況は、いま初めて知った。お兄ちゃんは知ってはいたのだろうけれど、「そういえば」という感じ。
考えてみれば、その時のお兄ちゃんはまだ高校を卒業したばかり。今の私と、そこまで違わない。
突然の出来事を、全てきちんと把握するのは難しかったのだろう。
「ええと──走行中なのに、追突ですか?」
「そうです。目撃情報から推測しますと、時速約六十キロで走行していたところに、百四十キロ前後で接触しています」
「そんなスピード──」
バス以外の車には乗ったことのない私にも、それが馬鹿げた話だと分かる。運転していたら基本的には前を見ているものだろうし、避けることも難しそうだ。
しかしそういう事故で、賠償金が支払われないなんてあるものだろうか。
「ひき逃げでした。ご両親の車両は、接触により壁に激突して横転。原因となった車両は、横転を免れて逃走しています」
「そういう事故、だったんですね」
どうして今まで、知りたいと思わなかったのだろう。お兄ちゃんも、話そうとはしなかった。
そうしたところで、お父さんとお母さんは帰ってこない。きっとその当たり前の事実が虚しくて、耐えられそうになかったから。
「賠償の話に戻しますと、最も責任の重い、肝心の相手車両が不明です。しかし香奈さんに関しては、搭乗させていたご両親にも責任が及びます」
法律かなにかで、そういうことも決められているのだろう。そこに異を挟むつもりはない。もちろんいまさら言ったところで、意味もないけれども。
「これをご両親の保険で支払っています」
「そうなんですね。でもよくご存知ですね」
「綴葉さんの代理に手続きなどを行ったのが、私の前任者ですから」
司さんのお母さん。そんなことでもお世話になっていたなんて。もしかしたら、会ってもいるのだろうか。
「あー、あれがお母さんですか。覚えていますよ。と言っても、名刺を失くして名前も忘れてしまってましたけど」
「無理もありません。ご両親を亡くしてすぐに、冷静で居るのは難しいでしょう。樋本さまも、心ここにあらずという感じでした」
そうだろうと思う。お兄ちゃんも、樋本さんも。私なんて記憶を失ってしまったのに、そこまでの衝撃を今も覚えているなんて。
むしろ私のほうが楽だったのか、とさえ思ってしまう。
「でもそれなら、その辺りに話すこともないですよね」
「私もそう思います。示談が成立した後にも揉めることはありますので、ご両親の分の保険金も上乗せしてあります。それでまたとは、なかなか考えにくいかと」
強いて話すなら思い出くらいだけれど、それにしては様子がおかしい。司さんは、そう付け加えた。
「結局のところ、ご本人に聞いてみるしかありません。しかしその前に、お二人がどの程度覚えているか、確認したほうが良いと思いまして」
「僕はそもそも、それまでも接点が少なかったですからね。事故のあとは、無我夢中というか五里霧中というかでしたし」
二人は頷き合って、私を見た。
そんなに見られても、覚えていないことに対してなんとも答えられない。
そのまま答えるのは簡単だったけれど、ふと思った。私は今、樋本さんをどう思っているのか。意図を知りたいのか、知りたくないのか。
こちらから話したいことは、これといってない。それはやはり、覚えていないから。
同じ理由で、思い出話を受けることも出来ない。
でもそれは、私がそうだというだけだ。
もしも樋本さんが、それでも香奈ちゃんのことを話したいと言うなら、聞いてみたいかもしれない。
そこにはきっと、私の両親の話も含まれている。
「私はやっぱりなにも覚えていませんけど──なにか用があるのなら、聞いてみたいかもしれません。示談に文句をつけるとかではないんでしょう?」
「そう思いますが……逆恨みというのもありますしね」
思いが決まりかけたのに、また足踏みをした。
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