第89話:かこにもどる
私がおとはに着いた時、もうどこを向いても司さんの姿は見えなかった。
なにか。おそらくは件の怪しい人を見つけて追いかけたのだと思うけれど、どこへ行ったものか。
そうなっても着いてくる必要はないと言われていたので、心配しつつもおとはの勝手に回る。
「おはようございます」
「お、来たな言乃ちゃん」
先日のお婆ちゃんが来た日以来、おとはのみんなが一層に優しくなった。特にお父さんが、以前の怖い雰囲気はどこへやらという感じに。
「おはよう、言乃ちゃん。あら、司さんは?」
「たぶん先日の方を見つけたんだと思うんですが──」
「先日のって。えっ、まさか追いかけていったの?」
自宅側に居たお母さん。すぐに状況を察して、司さんの身を案じた。
相手も女性だし、司さんのほうが若いみたいだし、無茶なこともしないとは思うけれど、心配しないでいい決め手とはならない。
私も同感だ。
「なにか変な仲間とか居ることだってねえ」
「そういう可能性も、あるかもしれませんね──」
「だって追いかけたってことは、気付かれてるわけでしょう?」
「あ……」
お母さんの話では、いたって普通の人だったらしい。そんな人が変な仲間を連れて、待ち受けるみたいなことをするものだろうか。
これも今の世の中、絶対にないとは言いきれないか。
そうしていてもなにも進展はないので、いつも通りにお手伝いをする。
六時二十分。
六時三十五分。
六時四十三分。
六時四十七分。
何度も時計を見ているうちに、針の進みがどんどん遅くなっていく気がする。
あの人ならそんな無茶はしないよと、音羽くんも言ってくれるけれど、不安を拭うことは出来ない。
七時過ぎになって、ようやく司さんが戻ってきた。
彼女のくぐる勝手の向こうは、もうすっかり日が落ちているようだ。黒いスーツ姿もあって、仕事を終えた殺し屋みたいなのを連想してしまう。
いやいや。服装に乱れも全然ないし、そんなことがあるはずもないのだけれど。
「遅かったですね……」
「手際が悪く、申しわけありません」
「あっ、いえ。そういう意味じゃなくて!」
責める理由も気持ちもないのに謝られてしまって、慌てて否定した。
「ふふっ、大丈夫ですよ。途中でまかれた振りをして、住処を調べていただけです」
からかわれた?
という疑問も、薄く笑った司さんの言葉の意味に気付くと、すぐに忘れる。
「住処って、家まで着いていったんですか?」
「そうです、住所と名が分かりました。しかしまあ──そのお話は後ほどとしましょう」
客席のほうを覗きながら、司さんは言った。たしかにもう、かなりの席が埋まっていて、ゆっくり話している段ではない。
でもなんだか、話すのを遅らせているような気がしてならなかった。
無理に聞き出すほどの理由もなくて、すぐに嵐のような忙しさに遭った。その間はそんな話をしたことも忘れていて、すぐに二時間ほどが過ぎる。
「それで、どうだったんですか?」
新しいお客さんも途切れて、帰っていいと言われた。いつも通り脱衣所を借りて、服を着替えながら聞いてみる。
「少々込み入っているようです。帰宅してからとしましょう。綴葉さんにも聞いていただいたほうが良いでしょうし」
今度ははっきり、あとにしようと言われた。しかもお兄ちゃんを交えてと。
もちろん聞いてもらうつもりだったけれど、それはむしろ当たり前で、わざわざ口にしたのはなんだったのか。
帰りがけにお母さんが「なにか分かったの?」と聞いたのも、説明は後日にさせてほしいと断っている。
その対応は、時間稼ぎではなかった。証拠に家に帰ると、すぐにお兄ちゃんを部屋から引っ張り出した。
区切りが悪いと渋るお兄ちゃんも、例の怪しい人の話だと言ったら、すぐに来てくれたけれども。
「かの人物の名は、
テーブルに着くとすぐ、司さんはメモも見ずにすらすら言った。
名前に聞き覚えはない。住所は、おとはから近いと言えば近い。バスやタクシーを使うには大げさだけれど、ちょっと面倒な距離だ。
「聞き覚えがありますか?」
「樋本? でもその住所……」
お兄ちゃんには、なにか心当たりがあるようだった。名前はともかく、住所に反応している。
「ああ! 樋本さんって、あの人か!」
「お兄ちゃん、知ってるの?」
かなりの検索時間があって、ようやく記憶に辿り着いたらしいお兄ちゃん。思い出せたことを満足そうに、うんうん頷いている。
なんだか分からない私としては、納得していないで早く教えてほしい。
「知ってるもなにも、言乃も知ってる人だよ」
「ええ?」
「言乃が小さいころ、仲の良かった子。覚えてるだろう?」
仲が良かったと言われると、胸の内では「うーん」と少しばかり抵抗したくなってしまう。
香奈ちゃん。私の両親と一緒に、事故で亡くなった幼馴染。
「そう、その香奈ちゃんだ。真奈さんは、お母さんだよ」
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