第88話:つぎのマスにすすむ

 タクシーを頼んで待っている間、お婆ちゃんは与謝野先生と話していた。

 集まった中ではお婆ちゃんの次に年長だし、お仕事もずっと続けている。そういうところで、話しやすいのだろうか。

 その間何度か、お婆ちゃんの視線がお兄ちゃんに向けられていたのが気になる。でも当のお兄ちゃんが「気にするな」と言うので、気にしないことにした。


「ハイヤーとかじゃないんだねー」

「必要があればそうするさ。今は移動したいだけだからね」


 じゃあ気を付けるんだよ。と言い残して、お婆ちゃんはタクシーに乗って去っていく。お茶のお姉さんの名前は、とうとう聞かないままだったな。

 去り際に祥子ちゃんが聞いたことについて、私も少し気になった。大きな駅まで行ったみたいだけれど、私ならば最寄りの小さな駅からすぐに電車に乗る。

 お婆ちゃんは足腰がしゃんとしているようだけれど、やはり自分の感覚と同じには考えられないみたい。


 見た目の印象では六十歳と少しくらいに思えたのに、実際には八十近いと聞いた。今日、短い時間のうちに、厳しい顔と寂しそうな顔。楽しそうな顔もたくさん見られた。

 近いうちに、みんなでお婆ちゃんの家に遊びに行けたらいいな。


 それからそのまま、司さんはお兄ちゃんと私の暮らす家にやってきた。滞在していたホテルも、引き払ってあるらしい。

 他のみんなは、来たときと同じに与謝野先生が車で送っていった。


「えっと──荷物はそれだけなんですか?」

「そうですよ。変でしょうか」


 正確には聞いていないけれど、司さんはこちらに何日も居たはずだ。なのに持っているのは、旅行カバンが一つだけ。私が通学に使っている指定のカバンと、大きさが変わらない。むしろ少し小さいかもしれないくらいだ。

 彼女はそのカバンを私の部屋に置いて、「お茶でも淹れましょう」とテキパキ動く。私の部屋もキッチンのことも、なにも案内していないのに。


「先日一度、上げていただきましたから」

「はあ──なるほど」


 その時の記憶だけで、こうまで動けるものだろうか。やはり記憶力とか観察力とか、尋常ではないらしい。

 お兄ちゃんには、司さんの持参したコーヒー。私には同じくカフェオレ。自身は、やはり持参した玉露。


「お婆さまがこれを好むので、私も慣れてしまいました」


 そう聞くと、私も飲んでみたくなる。どうぞと勧められて、司さんのを一口飲むと、少し苦味が強かった。

 甘くも淹れられるけれど、この淹れ方がお婆ちゃんは好きらしい。司さんが居る間に、教えてもらおう。


 お兄ちゃんは早速ケイ出版に連絡──は、しなかった。「いや、折角だからね。連絡はするよ」と言っていたけれど、まだ気持ちの整理がついてはいないらしい。

 こればかりは、私がなにを言っても仕方がない。納得出来る落とし所を、自分で見つけるしかないのだろうから。


 お兄ちゃんの夕飯の支度をしたり、お茶の淹れ方を習ったり。そうこうしていると、すぐに夕方になった。


「では行きましょうか」

「普通に一緒に行くんですか?」

「いえ、あとを追います。言乃さんは気にせず、いつも通り行ってください」


 そう言って、司さんは置いていこうとした自転車の鍵を差し出した。お兄ちゃんは自転車も持っていないから、一台しかないのだけれど。


「大丈夫ですよ」

「はあ──そうなんですか」


 さっきまでスカートだったはずなのに、いつの間にかパンツスタイルになっている。まさか、それで走れるから大丈夫ということ?

 そんな無茶な。


 首を傾げつつ自転車に乗ると、司さんは「いってらっしゃいませ」と手を振った。それをまた聞いたところで、大丈夫としか返ってこないのだろう。気にしない振りで走り出す。

 少し離れても、彼女は位置を変えずに手を振っていた。結局そのまま、建物の陰になって見えなくなるまで。


 私が自転車を漕いでも、それほど速くはない。けれども私が自分の脚で走り続けろと言われれば、絶対に無理だ。

 いつも通りと言われたので、そのままおとはまで走りきった。気を付けて見ていたつもりだけれど、怪しい人影は見当たらない。

 自転車を止めて鍵をかけていると、背後から声をかけられた。いや視界の端に姿も見えていたから、そのことに驚きはしなかったけれども。

 別のことに驚いた。


「今のところ、見当たらないようですね」

「司さん、もう追いついたんですね」

「ええ。言乃さんが走るのはゆっくりなので、全く問題ありません」


 息も切らせていない司さんに、違った意味で問題がありそう。

 お仕事が終わるまで、彼女もお店を手伝ってくれた。あまり人目についてはと、ずっと調理場の中で。逆に迷惑ではなかっただろうかと恐縮するのを、おとはのお父さんたちは強力に否定する。


「とても助かりました。盛り付けなどは参考にさせてもらうほどで」

「お茶がいつもよりおいしいって、評判だったんですよ。淹れ方を教えてくださいね」

「孫の嫁にどうかとも思うんだけど、言乃ちゃんが居るからねえ。残念だねえ」


 ちょっとよく分からない部分もあるけれど、みんな喜んでくれている。自分のことでご迷惑をかけていたので、私も司さんに感謝だ。

 そんな日がそれから二日続いて、水曜日の定休があって。五日目の木曜日。


「捕捉しました。先行します」


 自転車の私に追いつき、あっという間に置き去りにする司さん。おとははもうすぐ見えるけれど、たくさん人の居る商店街になにを見つけたのか。

 私は呆然と見送った。

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