第87話:なかなおり
部屋に戻ったお婆ちゃんは、扉から椅子まで歩きながら「さあ」と言った。
司さんがなにか話していたなんて知らないように見えるし、司さんもなにも言わない。あくまでさっきのは彼女の独り言だと、そういうことなのだろう。
「それじゃあ言乃は、うちに来ない。互いに今まで通りってことだね」
「え、それでいいの?」
「なんだい、まだなにかあったかねえ? あたしの謝罪が足りないと言うなら、やぶさかじゃないよ」
私の目には、また一段と小さくなって見える。それでも口調はさっきまでと変わらないお婆ちゃんに、純水ちゃんは「いやそんな」と調子がつかめない。
「そういうんじゃないよ。いっぱい準備してた割に、やけにあっさり引くんだなと思ってさ」
「諫言耳に痛しだねえ」
「いやだから、責めてるんじゃないってば」
背景を聞いて、純水ちゃんは感じていた色々に変化があったみたいだ。ひどくささくれて感じていた声が、今はもういつもに戻っている。
その変化を、お婆ちゃんがどう受け取ったのか。きっと悪いほうではないと思う。歳を感じさせないいたずらっぽい顔で、声を出して笑ったから。
「商売ってのはね、投資を全部取り戻すなんて出来ないんだよ。これは無理だと判断がついたら、さっさと切り上げる。損を切るってやつだね」
切らなければならない、損ってなに?
私のために用意した物は、もうそれ以上に損を出すことがない。そう気付くと、お婆ちゃんの下へ行かないことに罪悪感を覚え始める。
分かっている。それは両立しない話だと。私の大切な人たちと、その環境ごと移動するなんて出来るはずがない。
きっとそれは、お婆ちゃんだって同じ。誰がいちばん大切なのかとか、比較して考えることではないのだから。
「ああ──こういう例えは、また気分を悪くさせるかねえ。そういうつもりはないんだよ」
「うん、分かるよ。お婆ちゃん」
お婆ちゃんと呼んだ、純水ちゃん。それに示し合わせたみたいに、反対隣に居る祥子ちゃん。
二人の手が、それぞれ私の手を握った。
私も両手に、いっぱいの力をこめて握り返す。そうするのに、躊躇とかそんなものは全くなかった。
きっとそれが、私の正直な気持ちなんだろう。
「お婆ちゃん、ありがとう。でも私、お婆ちゃんとこれから仲良くなりたいと思うの。無理かな──?」
「ああ、それがいいんじゃないかね。あたしも暇になったことだし、遊びにでも来てくれると助かるよ。友だちも一緒にね」
これは我がままなんだろうか。自問しながら、息苦しさを感じながら聞いた。
お婆ちゃんはすごく嬉しそうに、いつかの純水ちゃんのような意地っ張りな顔で笑った。
それからしばらく、私たちはお互いの話をした。理解を深めあったと言えると思う。
お婆ちゃんの話は大人っぽすぎて、分かりにくい部分もあった。けれどもそれは、司さんが翻訳してくれる。いいコンビだと思う。
「帰りの時間もあることだし、あたしはそろそろ行くとするよ」
「うん。お婆ちゃん、電話するね」
「年寄りの話は長いからね。覚悟してかけておいで」
部屋の扉が開いて、お茶を持ってきてくれたお姉さんがお婆ちゃんの手を引く。なぜだかそれを、司さんは見送る形だ。
「司、あとを頼むよ」
「かしこまりました。万事抜かりなく」
「あれ? 司さんはまだ用があるの?」
遠慮なく聞いた祥子ちゃん。出口の方へ向かっていたお婆ちゃんは、ちょっと呆れた顔をしてこちらに向き直る。
「なんだい、もう忘れたのかい」
「なにを?」
「店の前に来てたのが誰か、そっちは分からないままだろうよ」
忘れてはいない。少なくとも私は。
お婆ちゃんが仲良くなれそうだと分かった分、余計に怖さが増した気さえする。
「警察に言うのも手だけれどね。今のところ、これってことはしちゃいないんだろう。それなら自分たちで捕まえたほうが早いよ」
「お任せください」
また恐ろしげなことを、二人は当然のように言った。
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