第84話:してき

 親指だけを突き出して、宣言する祥子ちゃん。自信に満ちあふれていて、知らない人なら全て任せてしまいそうだ。

 けれども少なからず知っている身として、宿題はやってきたのかという問いに「カンペキだよ」と答える時のそれと同じに見える。


「祥子ちゃん。任せろと言われても、こればかりは無理だと思うんだよ」

「どうして? だってみんなの言ってることは、なにもぶつかってないんだよ」

「ぶつかってない?」


 親切心とやる気に水を差すまいと、お兄ちゃんも言葉を選んでいるようだった。それでもはっきり、無理だろうと言ったのに、祥子ちゃんは怯まない。


「だってさ。コトちゃんは、お兄ちゃんに仕事を続けてほしい。お兄ちゃんも、仕事を続けたい。そうでしょ?」


 祥子ちゃんは、私とお兄ちゃんと、順に顔を見て確かめる。

 うまく言葉の出ない私も頷くことくらいは出来たし、お兄ちゃんも「そりゃまあ──」と曖昧に答えた。


「お婆ちゃんは、仕事をなくしたお兄ちゃんのところに、コトちゃんを置いとけない。そうだったよね?」

「──ああ、そうだよ」


 なにを言い出すのだろうと、怪訝に思っているのだと思う。お婆ちゃんは眉をひそめ気味に、けれどもたしかに頷いた。


「じゃあ解決だよ。これ見て」


 ウサギの耳の付いたスマホ。外見も画面もピンクの目立つ愛用の品が、お兄ちゃんの目の前に突きつけられた。

 目の前すぎて見えなかったに違いないお兄ちゃんは、背を反らして目を向ける。


「これは……どういうことだい」

「どうもこうも、書いてあるままだよ」


 祥子ちゃんは、スマホを私にも見せてくれた。表示されているのは、メールの文章らしい。メールチャットではなく、私の携帯電話でも使えるメール。


『須能出版で執筆中の綴葉氏が、活動場所を探しているとの件。ご連絡をありがとうございます。

 家族や友人の絆に関する氏の文章は、古めかしくもあり新しくもあり、注目しておりました。

 先方の権利問題等、諸々に支障がなければ、是非にも前向きに検討させていただきたく。氏へのご連絡をお願い申し上げます』


 差出人は『お父さん』となっている。メールのタイトルに『Re』と付いているから、誰かからのメールを祥子ちゃんのお父さんが転送したということだと思う。


「うちのお父さん、印刷機とかも作ってる会社に勤めててさ。聞いてみたら、知ってる人が居るって言うから。頼んでたんだよー」


 お兄ちゃんや私はもちろん、純水ちゃんにさえ言っていなかったらしい。彼女が最初に言っていた「奥の手」とは、きっとこのことだ。


「ええ、すごいね祥子。でもこれ、相手は誰なの?」

「ケイ出版だよ」

「ケイ──出版?」


 お兄ちゃんは目を丸くして、絶句する。

 驚くのも無理はないと思う。ケイ出版と言えば、日本人なら誰でも知っている老舗の出版社だ。

 出ている雑誌の名前でさえ、誰もが必ず知っているかと言えばそこまでではない須能出版とは、規模がまるで違う。


「祥子ちゃん、こんなことまで……」


 ありがとうと言いたかったのに、また声が潰れた。その代わりになるかどうか、今度は私から彼女を抱き締める。よしよしと頭まで撫でてくれる状況に、ふと純水ちゃんに悪かったかなと思った。

 ちらと見ると、良かった、純水ちゃんも笑ってくれている。驚きも交えた顔で、祥子ちゃんと頷き合っていた。


「お婆ちゃんも見る?」

「いや、結構。もうケイ出版から、執筆依頼が来ているとかいう話だろう?」


 お婆ちゃんは平手を向けて断ると、息を吐いて目を閉じた。そのままなにか考えごとでもしているように黙って、他のみんなも急かしたりはしない。


「ふん、良かったじゃないかい。あたしの出る幕はなかったってことだ。要らない手間をかけさせたね」


 もう一度、静かに深く息を吐いたお婆ちゃん。俯き加減の顔が、なんだか寂しそうに見える。


「いや、悪いけど祥子ちゃん。その話は受けられないよ」

「え。ええー⁉ な、なんで⁉」


 祥子ちゃんと純水ちゃんは、驚きの声を揃えた。もちろん私も驚いて、生まれて初めて二度見をしてしまう。

 与謝野先生に司さんまでも、ぽかんと口を開けている。

 それはそうだ、わけが分からない。実の妹である私にだって理解出来ないものを、他の人に分かるはずがない。


「もとを正せば、僕が強がって曲がった話なんだ。最初から素直に、お婆さんの援助を受けていれば、みんなにこんな心配をかけることはなかった。

 実力もない僕なんかが文章を書いて、生活出来ていたこれまでがおかしかったんだ。今が修正する時だよ」

「お兄ちゃん……」


 気持ちが分かる。痛いくらいに。胸が締め付けられて、千切れ飛びそうなほどに。

 実力ではなく、縁故で出版にこぎつけたこと。連載も持って、そういった収入で妹を養っていると言っていたこと。

 そのどれもを、ここに居る人たちに知られたこと。


 恥ずかしい気持ちも、すごく大きいと思う。でもそれ以上に、その現実に慣れてしまって、打開する気持ちさえも失っていたことに気付いたのだと思う。

 私は怠け者だから、同じような気持ちで後悔することがよくある。それとはレベルが違うだろうけれど、お兄ちゃんだもの。

 私には分かる。


「お兄ちゃん、なにを言ってるの? チャンスだよ。実力がないなんてこともないよ。文章がいいって書いてあったじゃん」

「祥子の言う通りだよ。最初は色々あったのかもしれないけどさ、今はちゃんと人気があるんだから。あたしだって、お兄さんの本持ってるよ!」


 懸命に言ってくれる二人の言葉にも、お兄ちゃんは首を横に振った。「どんな気持ちで書けばいいか、想像もつかない」と、二人への反論でさえなく、呟く。


「テツくん。そのお話を受ければ、今まで通りなのよ。それではダメなの?」

「僕が後ろめたい幸せなんて、ダメでしょう。それこそ譲られた幸せなんですよ、先生」

「そう──」


 与謝野先生も、果敢に説得しようとしてくれた。けれどもお兄ちゃんには響かない。そうしなければダメだと、決めてしまったのかもしれない。でなければまた、同じ過ちを繰り返すと自分を縛る鎖をかけてしまったのだろう。


「じゃあ。妹を一人、東京に行かせるんだね」


 厳しい問いは、お婆ちゃんかと思った。

 しかし声が違う。女性でさえない。


「織紙はお兄さんのために、自分の希望なんか全部捨てようとした。お兄さんだって、聞いてたんでしょう?

 それなのに。丸く収まる方法だってあるのに。どうしてそんなことを言うんですか。

 あんた、一体ここへなにしに来たんだ!」


 初めて見る激昂。

 抑えきれずに、思わず言ってしまったらしい。すぐに「すみません」と謝りながらも、音羽くんの表情は厳しいままだ。


「大好きな妹を犠牲に出来ないって言ってましたけど、今言ったのだって同じことですよ」

「──同じ?」


「そうでしょう。お兄さんは自分のしてきたことが恥ずかしくて、その上塗りをするのに耐えられないんだ。それも自分が交渉したんじゃなく、妹の、その友だちが、勝手に進めてくれた。

 受け入れるのが恥ずかしいってだけでしょう。それをうまいこと、責任を取るみたいに言って。それで悲しい思いをするのは誰か、分かって言ってるんですか」


 椅子から立って、音羽くんは少しずつお兄ちゃんに歩み寄った。それほど広くない部屋の、端から端。

 短い時間に、とてもたくさんの感情をお兄ちゃんは浮かべた。


「義を見てせざるは勇なきなり。俺の爺ちゃんが、よく言ってました。

 自分の大事な女が助けを求めてるのに叶えてやらないようじゃ、それが大名だろうが盗賊だろうが、同列に価値がないって。そんなものは男じゃないって」


 みんなが聞き入っていた。

 お爺さんが取り憑いたみたいに、尋常じゃない迫力と熱を持って話す、音羽くんの言葉を。

 もちろん、私も。


「その大事な女が、今困ってるんです。俺はどんなことをしてだって、助けてやりたい。でも今そうするべきなのは、お兄さんじゃないんですか?

 分かります。つらいのは分かります。でも耐えましょうよ。本を出すのに実力は関係なくても、売るのには関係あるでしょう?

 誰も文句を言えないくらい、売ってやりましょうよ。なにかお手伝い出来るなら、俺だってやりますから」


 私はまた泣いていた。自分でも呆れてしまう。

 でも嬉しいんだもの。勝手に流れてしまうんだもの。そんなに思ってくれて、お兄ちゃんを励ましてくれて、ありがとうって。


「お願いします。織紙を、東京に行かせないでください」

「音羽くん……」


 勢い良く下げられた、音羽くんの頭。ぼそっと呟いてから、少しの間お兄ちゃんはそれを眺めていた。

 それから、両手で顔を二度叩く。大きな音をさせて、ほっぺが真っ赤になるほど。


「分かった。僕が甘えていた」


 肩に触れたお兄ちゃんの手を、音羽くんは両手で握りしめる。

 それから何度も「ありがとうございます」と、「すみません」とを繰り返した。

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