第83話:わがまま

 お兄ちゃんは、私が出かける時に見たままの格好だった。

 肩を上下させて息を切らせているのは、きっと走ってきたに違いない。私の家からここまでは、ほんの僅かな距離だ。

 分からないのは、耳に当てられたスマホ。

 なにか慌てて来たみたいなのに、それで走りながら誰と話していたのか。


「納得しているから、ここには来ないと聞いたはずだけれどね」

「……はい、そう言いました。僕もいい歳ですし、僕のことは僕が解決します。言乃をきちんと育ててもらえるなら、文句はありません」

「それならなんの用だい? 決まったことが決まったようにならないのが、あたしは嫌いでね」


 ことさらにきつく言っている、ということでもないらしい。なんの用かと聞くのが、それほど嫌味な感じではなかった。

 本当になにかあるなら、聞く気はありそう。


「用、というかですね。僕は字を書くのが好きで、読むのが好きで。それこそ、三度の飯よりってやつなんです」

「それは知っているよ」

「でも、もっと好きなものがあって。それを犠牲にするくらいなら、僕はいつでも筆を折る」


 息を整えながら、胸に手を当ててお兄ちゃんは言う。額に流れた汗を拭うのに反対の手を使おうとして、ようやくスマホをポケットにしまった。


「僕は妹がなにより可愛くて、大好きです。そりゃあそうでしょう。結婚もしていないのに、我が子が出来たみたいなものだった。

 その子が、自分はどうなってもいいからなんて言うのを、黙ってられるはずがないんですよ」


 どうしてそれを──。

 お婆ちゃんも、同じ疑問を持ったのだと思う。問うような視線をまず司さんに送って、否定が返る。

 すると今度は私たちの顔を一人ずつ、それぞれ眺めていった。


「そう、あたしだよ」


 にやともせずに言ったのは、純水ちゃん。デニムシャツの胸ポケットに入れた、スマホを持ち上げて示す。


「と言っても、あたしの案じゃないけどね」


 今度は純水ちゃんの視線が、壁際に向けられた。そこに居るのは音羽くん。

 してやったという感じもある純水ちゃんに対して、彼は少し申しわけなさそう。


「なるほど、さっきのは芝居かい。あんな風にでもしなきゃ、ありのままの実況は聞けないだろうからね」

「そういうこと。そちらもやってたことだし、構わないでしょ?」

「ああ、構わないよ。驚きはしたけれどね、聞かれて困ることはないからね」


 呆れたように、お婆ちゃんは鼻から大きく息を吐く。それからお兄ちゃんに向かって、「いつまでそこに立ってるんだい」と部屋の空いている隅を示した。


「我が子のようで可愛いとか、また文乃みたいなことを。そんな甘えたことで、世の中は回らないんだよ」

「ダメなの? 家族だったら、お互いが好きに決まってるとは言わないけど。好きだって言ってるのを、否定しなくてもいいじゃん」


 純水ちゃんが声を出す前に、祥子ちゃんは強く聞いた。その話題は、純水ちゃんを感情的にさせる。

 さすがにそんなことまで、お婆ちゃんも察せないだろう。でもなにかは感じ取ったのかもしれない。それ以上には言葉を継がなかった。


「言乃。ここへ来させる前に、ちゃんとその話をしなかったのは僕が悪い。いや他にもあるけど──ともかく、僕は僕でなんとかしてみせる。だから言乃は、自分のいいようにすればいい」

「いいようにって、私はお兄ちゃんが──」

「だから、お婆さんも言ってただろう。それは無理なんだって。休刊の話は僕も初耳だけれど、余計に仕方のないことじゃないか」


 そんなことを言われても。私はお兄ちゃんに育ててもらって、お兄ちゃんの書くお話が大好きで、お兄ちゃんに恩を返さなくちゃいけなくて……。


「コーヒーをがぶがぶ飲みながら、あれこれお話を考えているお兄ちゃんが、私には当たり前なの。

 お兄ちゃんと一緒に居たって、そう出来なくなったお兄ちゃんを見るのはつらいよ……」

「我がままを言わないでくれ。好きなことだけをして生きられるとは、限らないんだよ」

「わが、まま? 私、我がままを言っているの──?」


 お兄ちゃんは、うんとは言わなかった。けれども悩ましげな目が、これ以上なく肯定する。


 私が我がままを言ったくらいで、魔法みたいななにかが起こるはずはない。

 分かってる。そんなこと、私にだって分かる。

 でも苦しい。お腹にも胸にも、いっぱいに水を注がれたみたいに息が詰まる。

 苦しくて、気持ち悪くて、涙までこぼれる。


「コト⁉」

「コトちゃん!」


 吐き気がして、危うく堪えた。前のめりにになった私の両脇から、私の大好きな二人が支えてくれる。

 どうしよう。このままじゃ、お兄ちゃんも、友だちも、なにもかもなくなってしまう。

 どうしよう。

 どうしよう。

 どうしよう。


「テツくん。あなた、ぜんっぜん変わってないわね」

「あ、ええと、はい」

「それにお婆さまも言っていたけれど、織紙さんもあなたにそっくりね」

「はあ……」


 出口のない迷路に落ちた私をよそに、お兄ちゃんも与謝野先生に責められていた。部屋の両脇の距離を、先生の詰問口調が突き通る。


「それだけそっくりなんだから、分かるでしょう? 織紙さんは、このままじゃ答えなんて出せない」

「僕と言乃がそっくり? 言乃は、なんでも良く出来て、僕なんかとは全然」

「ほら。言乃さんも、よくあなたのことを褒めているわ。もうそのままよ」


 私なんかと違って、お兄ちゃんはどんなことだって叶えてくれる。

 お兄ちゃんのことを聞かれれば、最初にそんなことを言っているかもしれない。

 それこそ祥子ちゃん風に言えばテンプレで、ほとんど意識しないで言っているけれど。


「だから。教えたはずよ、覚えてる?」

「……幸せは、譲ることも譲られることも出来ない。ですか」

「そうよ。お互いがお互いを幸せにしたいと思ってるなら、二人とも幸せになるしかないの」


 その言葉には、聞き覚えがある。

 ふとした時に、お兄ちゃんが呟いていた。たぶん、小説の中でも何度か出ている。


「でも先生。それは僕だってこのまま、言乃と暮らせたほうが楽しい。どうやってでも小説を書いていたい。

 けど、出来ることと出来ないことがあるでしょう」


 それは、そうなのだ。

 どれだけ自分が、こうしたいと叫んだところで、環境が許さなければどうにもならない。

 生きることは趣味ではないから。好きだから、やりたいからとそうはならない。

 知っていたはずのことなのに、現実として直面してしまうとどうにもならない。事前に対処も出来はしない。

 痛いくらいに身にしみる。


「え、ちょっと待って──そのセリフ。もしかしてお兄さんて、綴葉てつは?」

「僕? ああ、純水ちゃんには言ってなかったっけね。そうだよ」

「そうだよ、あーちゃん。うちは知ってた」


 そう、お兄ちゃんのペンネームは綴葉。そのまま本名でもある。


「綴葉って、あれじゃない。ね、祥子」

「そうだよ。ね、お兄ちゃん。どうやってでも小説を書いていたいって言ったよね」

「言った、けど──?」

「じゃあ、うちに任せてよ!」

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