第82話:しってる

「もしかしたら、と思っていたんだけれどねえ。こちらの要求を全て飲む代わりに、仕事を続けられるように頼む、とか。そういう心づもりだったかい?」


 ずばりと言い当てられてしまった。

 自分が嘘の下手な人間だとは知っている。いつものみんなの反応からすると、分かり易すぎるくらいらしい。

 だからって、まだなにも言っていない隠しごとまで見抜かれなくても──。


「そうです。お婆ちゃんは、私になにかさせようと思ってるんでしょう?

 言う通りにします。私に出来ることならなんだって、必ずやります。

 だから、お兄ちゃんに小説を書かせてあげてください。お兄ちゃんは小説が大好きなんです。小説を取ったらなにも残らないくらい。だから──」

「たしかにあの子が本を出せたり、連載を続けてこられたのは、あたしの口添えに依るところが少なくないよ。でも言っただろう。もうあたしには、その権限がない」


 今の連載を続けるのは無理だとしても、なにか方法があるのではと思った。

 私には思いつかなくても、一つの会社を動かしてきたお婆ちゃんなら、どうにか出来るんじゃないかと。

 でもその答えは、一考の余地さえない厳然としたものだった。


「そもそも二人だけでっていうのも、あたしは止めてたんだ。でもあの子は、どういうわけだかあたしの所には来ないと言った。

 理由を聞いても、我がままを言ってすまないと、その一点張りだ。全く、頑固なところは母親そっくりだよ」

「お兄ちゃんのことを、悪く言わないでください。お願いします。なにか方法を考えてもらえないでしょうか。なにか方法がないでしょうか。お願いします。

 どうかお願いします」


 自分でも気付かないうちに、私は椅子を立っていた。それでも、座っているお婆ちゃんが私を見る視線は、見下ろす形になる。


「あれこれ言いはするけれどね、それは強制じゃない。ただ、言乃を引き取るのは、もう決まったことだよ。そこは動かない。

 あの子が小説を書くことに拘るって言うなら、なおさらだ。あの子はしばらく。もしかすると永遠に、収入を得られない。

 そこに言乃を置くっていう選択を、あたしがするもんかね」

「お願いします。私は、なんだってやりますから。東大にでも入れと言うなら、必ずやります。

 お婆ちゃんが思う、理想があるんでしょう? 私がそれをやるから、お兄ちゃんには好きなことをさせてあげて……お願い、お婆ちゃん」


 喉が詰まって、最後は絞り出すみたいになった。おかげで私は咳き込んでしまう。

 純水ちゃんが体を支えてくれて、祥子ちゃんが背中をさすってくれた。その苦しい間も、お婆ちゃんから視線を逸らさない。

 小さな子が突然に始めるおまじないのように、目を逸らしたらこの願いが叶わないと。そう思い込もうとしていた。


 お婆ちゃんの顔には、厳しさが増していった。さっきまではまだ、笑みではないながらも余裕みたいなものがあったのに。


「出来ないものは出来ないんだ。本当に兄妹揃って、文乃あやのそっくりだよ」

「奥さま──」


 硬い口調で言い捨てたお婆ちゃんに、なにか物言いたげな司さん。

 お兄ちゃんとお母さんの悪口を、言わないでほしい。お兄ちゃんにお仕事を続けさせてほしい。


 私はまだなにもしていないのに、願いごとばかりしている。それは誰だって我がままだと思うし、それだけを言っていたら頑固だと言うよね。

 でも私には、代わりになるものなんてない。今まで蓄えてきたものなんてなにもないから、これからの行動で返すしかない。

 それを否定されたら、もうどうにも動けなくなってしまう。


「ちょっとお婆ちゃん、ひどいんじゃないかな」

「──なにがだい、天海さん」

「出来ないことは、誰にだってあるよ。でもだからって、コトちゃんやコトちゃんの家族を馬鹿にすることないじゃない」


 祥子ちゃんの声は、いつも大きい。それから、小柄な体格をいっぱいに使って、身振りも大きい。

 その祥子ちゃんが、直立したまま淡々と、お婆ちゃんを見つめて言う。その目は、さっきまでの睨むようなものでなく、いつもよりもっと大きく開かれた真剣な目だ。


「ねえ、知ってる? コトちゃんてさ、すごく真面目なの。うちなんか宿題とか、怒られないくらいにやっとけーって感じなのに。ちゃんと全部やるんだよ。参考書とかも調べてさ、一問も間違えないようにするんだよ」

「そりゃあ──天海さんも、そうしたがいいねえ」

「そうなのかな。じゃあこれは知ってる? うちたちね、文化祭で名作カフェをやるの。お客さんがお芝居を見ながらお茶出来るんだけど、その台本を全部コトちゃんが書いたんだよ。今週だけで、全部だよ」


 それは私がもらった役目だから、私がやると言ったのだから、きちんとやった。


「ああ、そりゃあすごいね。でも天海さんだって、なにかやってたんだろう?」

「うちなんて、お芝居の稽古した合間に、お菓子食べてただけだよ。コトちゃんは誰かに追い回されて、怖くて眠れなくて、それでもやったんだよ」


 眠れていないというのは、言っていないはず。おそらくはお婆ちゃんのさしがねだろうと分かっても、間違いないとは言えなかった。

 それで特に夜には、ちょっとした物音も怪しんでしまう。それにお兄ちゃんのこともあって、頭の中がぐるぐるぐるぐる。ぐちゃぐちゃになっていた。

 眠そうにもしなかったつもりだけれど、ばれていたらしい。


「先生がさ、誰かやっといてくれーなんて適当なこと言ったら、たいていコトちゃんが一番にやってくれてるんだよ。

 クラスのことって、あーちゃんが仕切ること多いんだけどさ。うっかりしてることも多いの。でもいつの間にか、誰かやってくれてるんだよ、誰だと思う?」


 それもたぶん、私のことを言ってくれているのだろう。なにか気付いたら、一人でやってしまうことが以前は多かった。

 誰かに相談すると、押し付けているような気になってしまうから。


「他にもいっぱいあるよ。コトちゃんはすごく真面目で、みんなのために色々やってくれて、すごくいい子なんだよ。うち、いくらでも教えてあげられるよ。お婆ちゃんて、お婆ちゃんだよね。知ってる?」

「そこまでは、知らないね──」


 どういう意図で話しているのか不明だ。お婆ちゃんの顔には、そう書いてある。かくいう私にも分からない。

 私のことをそんなに知ってくれていたのは嬉しいけれど、それがこの場でなんの意味を持つのか。


「そんなコトちゃんがやるって言ったら、絶対にやるんだよ。サボったりしないよ。必ずなんだよ。そうさせたくはないけど、コトちゃんはやるんだよ。

 それでもお願いを聞きたくないの?」


 ああ……祥子ちゃん、ありがとう。

 張り詰めていた気持ちが、うっかり溶けてしまいそうになる。胸が温かくなって、ガスで膨らまされていたような苦しささえ和らいでいく。

 理解してもらえるって、嬉しいね。後押ししてもらえるのって心強いね。

 純水ちゃんだけじゃなく、祥子ちゃんもこんなにはっきりと庇ってくれる。今度は嬉しさではちきれそう。


「いや、繰り返しになるけれどね」

「出来ないんだね、やりたくないのかもしれないけど。分かったよ、それならうち──」


 お婆ちゃんが話そうとしたのを遮って、祥子ちゃんがなにか言いかけた。

 そこに扉を強く叩く音が二度。なにごとかとびっくりしたけれど、ノックの力加減を間違えたのだと思い至る。


 その証拠に、返事を待たないながらも開いていく扉は、なんとも遠慮がちだ。

 さっきの女性ではないだろう。あの人は、間違っても力加減を誤らない気がする。

 室内の全員が注目する中、そこに現れたのは──。


「お兄ちゃん、どうしたの⁉」

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