第81話:かわる

 扉を開けたりしていた人なのだろう。司さんと同じような黒いスーツの女性が、お茶を持ってきてくれた。

 司さんよりも少し若くて、髪も長い。優しいお姉さんという雰囲気。

 けれどその声を聞く機会はほとんどなくて、部屋を出ていく時に「失礼しました」と言っただけだ。


「急いてはことを仕損じる──」

「なにそれ。またバカにしてるの?」

「おい、野々宮。ちょっと落ち着け」

「なによあんたまで。この人、あたしたち全員をバカにしてるんだよ。それは全部、コトに向かうんだよ。あんたはそれでいいの⁉」


 そう、なるのかな。分からないや。

 みんなすごいな。今なにが起こっているのか、ちゃんと分かっている。

 怒るべきところを怒れる純水ちゃん。それは行き過ぎだと言える音羽くん。

 祥子ちゃんはどう思っているのだろう。私と同じで、状況に戸惑っているのかな。

 ──そうやって仲間を作ろうとするのが、また卑しい。


「そんなことないけど、落ち着け。そんなんじゃ、話し合いにならない。ちょっと来い」


 少し時間をくださいと断って、二人は部屋を出た。頭を冷やしてくるということだろう。


「ちょうどいい。トイレ休憩というやつだね」

「そうですね──頂戴します」


 お婆ちゃんと与謝野先生は、揃ってお茶を飲む。

 お婆ちゃんは最初から、特にこれという表情がない。与謝野先生は、厳しくなっていた表情を緩めた。これも音羽くんが言ったせいだろう。


「思われてるじゃないか、友だちに」

「……あ、はい。私にはもったいない友だちです」


 私に話しかけたのだと気付くのが、少し遅れた。視線はこちらに向いていないし、独り言みたいだった。

 代わりに、祥子ちゃんと与謝野先生の視線が教えてくれたのだ。


「司もあたしに忠実でね。やってきたことは全部、過不足なくあたしの命令だよ。この子のことは、悪く思わないでやってほしい」

「どうして──」

「それはあの二人が、帰ってからにしてやろうじゃないか。聞きたいだろうからさ」


 機先を制された。でも確かにそうで、私は考えがないなとまた落ち込む。

 けれどそうすると、私やお婆ちゃんのことは聞けない。となれば、なにを聞くか。


「司さんは、お婆ちゃんのお仕事の部下だったんですか?」

「──ああ、そうだよ。今もそうだけれどね。秘書であり、家政婦のようなこともやってくれるし。あたしのお守り役だね」

「またそのようなことを」


 そんなにも色々やってくれるんだ。そんなにいつも一緒に居るんだ。

 となるともう、娘みたいなものなのかもしれない。どうでもいいと言い切れるような、もう会うことも叶わない娘とは違う。


「お婆さまは須能出版の社長職を辞されたあと、同社の相談役に就任されております。外部顧問の形ですので、実権としてはほとんどありませんが」

「そうなんですね。だから今もなんですね」


 外部顧問とか実権とか、言葉そのものの意味は分かっても、実際にどういうものか分からなかった。

 でもたぶん同じ会社からお給料をもらう立場で、上下関係は続いているのだと言いたかったのだろう。


 そのまま世間話をするような空気でもなく、誰もが沈黙したままの時間が過ぎた。年長の三人は落ち着いた様子でお茶を飲み、祥子ちゃんと私だけが居心地を悪く感じていたように思う。


 祥子ちゃんは横目でちらちらと私を見て、時になにか言おうと口を開きかけた。

 でも何度かあったどれもが途中で断念されて、なにを言いたいのだか、どうしてためらうのだか不明なままだ。


「すみません。戻りました」

「すみません。頭に血が上って、失礼なことを言いました」


 十分まではかからなかったと思う。二人が戻った。純水ちゃんは表情を落ち着けていて、言葉通りの反省した態度で頭を下げる。


「いやいや、気にしなくていいよ。あなたの言ったことは、いちいちもっともだ。それに悪いと思ったことを、そうやって謝れない大人ばかり相手にしてきたからね。むしろ清々しく思うよ」

「ありがとうございます。でも腹を立てているのは変わりません。説明はしてもらえるんですよね」


 もちろんさ。と、お婆ちゃんは請け負った。お茶でも飲んで落ち着いたら、納得がいくまで話そうじゃないかと。


「さっきそういう話も、ちらとしたんだけどね。あたしは社長を辞めて、相談役という椅子をもらった。でもまあ平たく言って、名前だけのお荷物さ。昔からの知り合いと顔つなぎをするだけで、これといって決まった仕事があるじゃない」

「若輩者が生意気を言いますけれど、とても重要な責務を続けられていると思いますが」


 高校生に。少なくとも私には、お婆ちゃんの言ったことがその通りなのかは、分からなかった。

 聞いて、そうなんだと思ったし、与謝野先生のフォローも、そうなんだと思った。


「ああ、ありがとうね。しかしそこは重要じゃないんだ。言いたいのは、代替わりしたことと、あたしが口出し出来るところはもうほとんどないってところだよ」


 司さんも含めて、誰もなにも言わない。なるほどそれで、と。続きを待っている。


「あの会社は、あたしの夫が大きくした。あたしはそれを引き継いだだけで、難しいことはなにもしちゃあいない。

 幸い、後継者も社内から育ってくれたからね。ようやく重荷を渡すことが出来た。

 順風満帆ってことはないが、赤字でもない。好きなように出来る状態でね」

「現在の須能出版の社長は、言葉の血縁でもなんでもありません。ただ今の説明通り、社員の中で出世した方です」


 なんの説明をしているのだろう。お婆ちゃんが経営していた会社のとは、もちろん分かる。でもそれが、直接に私に関わるのだろうか。

 あ、いや。お兄ちゃんのことか。お兄ちゃんがお仕事を続けられるか、そこに関わるお話だ。


「定期刊行誌を休刊にするのは、その新しい社長が決めたことだよ。言いわけにしか聞こえないかもしれないが、それが事実だ。

 あたしが言乃をどうこうするために、謀ったんじゃないとは理解してもらえるだろうかね」


 お兄ちゃんが連載している雑誌が休刊する。それはまだ、世間のどこにも知られていないニュースだ。きっとお兄ちゃんも知らない。

 それならばお婆ちゃんの言う通り、はかりごととかいう話ではなくなる。


 でもそれなら……お兄ちゃんがお仕事を続けられるよう、頼む当てそのものがなくなったということでもある。

 気持ちを暗くしながらも、見続けていた光。それがフッと消える気がした。光を消した強風が、私の耳に轟々と吹き付けるようにさえ思えた。

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