第28話:音羽優人の指向事情(第二部 終)

 おとはという、老舗のうどん屋が好きだ。

 それは俺の家の家業だ。

 ついこの間までは爺ちゃんが腕を揮っていて、俺にも「いい料理人になれ」と、色んなことを教えてくれた。


 でも、爺ちゃんは死んでしまった。

 料理なんてわけの分からない小さなころから、無理やりにでも教えてくれていたのを面倒だなと思うこともあった。


 でも嫌だと思ったことがないのも本当で、俺は爺ちゃんが大好きだった。

 だから、しばらく店を手伝えと言われて当然だと思ったし、言われた以上に頑張ったつもりだ。

 まだ店のあちこちへ、爺ちゃんが気配を残しているうちに「どうだい、安心して任せられるだろ?」って、見てもらってるつもりだった。


 でも俺は、爺ちゃんに謝らないといけないのかもしれない。

 爺ちゃんが死んだことで、悩んでいたことから解放された。

 ほっとしたなんて言うと喜んでいるみたいになるけど、その悩みのことだけを言うなら、それが一番近い気持ちだ。




 音羽という、自分の名字が好きだ。

 音に羽が生えていて、人を感動させる音楽を表しているみたいだからだ。


 ミュージカルなんてわけの分からない小さなころに「料理人は感性が重要だ」って、爺ちゃんが連れて行ってくれた。

 なんという題名だったか、覚えてない。もちろん話の筋なんて、全然分からなかった。いい大人が派手な衣装を着て、ドタバタとなにをやってるのか、みたいに思った気もする。


 でも、たぶんクライマックスだったんだろう。背景が変わって、登場人物の衣装もボロボロな物に替わった。

 照明が、濃いオレンジだか赤だったか、というのも覚えてる。

 それまでのセリフなんて一つも意味が分からなかったのに、勇壮な音楽と一緒に歌われた内容だけは、俺の心に滑り込んできた。


 この戦争を生き残った自分たちは、今日から自由だ。

 要はそういう歌詞だった。

 難しい言葉、自由を喜ぶ笑顔、どうしてそこで踊るのか。どれも子どもには理解しづらいものなのに、音楽が結びつけた途端、俺は感動して泣いてしまった。


 音楽って、なんだかすごい……。

 その日から俺にとっての音楽は、魔法とか超能力みたいに、とんでもない可能性を秘めたものになった。

 しかも勉強すれば、本当に身につけられる!


 ここまでのあれこれは、誰にも話したことがない。

 ──いや。爺ちゃんが好きだくらいは、言ったことがあると思うけど。




 中学を卒業してから高校に入るまで、宿題もない連続した休みを、普通は存分に楽しむと思う。

 俺は店を手伝う毎日だったけど、それに不満はなかった。

 爺ちゃんが死んで、五日目くらいだったか。店を閉めて、後片付けをしている時に親父が言った。


「お前、高校へ無理に行かなくてもいいんだぞ。料理人になるんだろ? 毎日、実地で修行したほうが早い」


 爺ちゃんは「大学までとは言わないが、高校くらいは行っとけ」と言っていた。一見ムダに見えても、やっとかないと他のことも出来ないなんてことはたくさんある、と。


 親父も知ってるはずなのに、どうしてそんなことを言うのか。俺には他に、やりたいことだってあるのに。

 後ろのほうは親父は知らないんだから、言ってもどうなんだって話ではある。でもその時の俺は、これ以上ないくらいに腹が立った。

 働き手を確保したいからと、勝手なことを言うなって決めつけた。

 それをそのまま、親父にも言った。


 親父は、はっと口をつぐんだ。それからちょっと間を空けて「好きにしろ」と言って終わった。




 俺は、自由の女神に出会った。

 親父に悪いことを言ったと思って、俺も大好きなうどん屋なんだから、手伝いくらいするのが当たり前だと思って、毎日手伝っていた。

 仕込みの手伝いはもちろん、それとは別に調理の修行もやった。


 このままうどん屋で働いて、あとを継ぐとは考えてない。

 でもムダに思えても、やって損になる経験なんてないと爺ちゃんは言っていた。料理人の気持ちを知っていたほうがいい舞台だってあるだろう。


 それを毎日続けていたら、寝不足になった。

 高校に行って、その初日に女神に出会った。それは女神にとって嫌な経験だっただろうし、そのあとも色々まずかった。

 でもそれには一旦、目を瞑らせてもらえば、俺にとってはやっぱりいい出会いだった。


 女神と一緒に、海に行った。

 余計ななにかも一緒だった気がするが、二人きりでも困ってしまったかもしれない。ちょうど良かったんだろう。

 水着姿に、鼻の下を伸ばしていたかもしれない。大丈夫だっただろうか。

 でもその前に、駅で白い服を着ている姿を見て、見蕩れてしまった。きれいとか可愛いとか、褒め言葉を全部詰め込んでもまだ足りないと思った。


 なんだその麦わらと、かごみたいなカバンは。

 女流作家のエッセイの挿絵みたいで、本当にそんな格好をして、それがこんなに似合う人が居るんだと思った。

 肩を出した白い服も、なんなんだ。そんなに肩を出すな。他の人に見られるじゃないか。

 俺は女神にとって、なんでもない。ただの友人だ。だからそんなことを言う権利もない。


 でも女の子らしい白い服と、そこから伸びる白い肌の腕と、それがすごく魅力的で、抱きしめたいくらいだった。

 ――いや、やましい意味はない。

 子どものころに、大人からもらったたくさんのおやつを、山で見つけたたくさんのどんぐりを、両手で抱えて出来るだけたくさん持っていたいと考えた。

 自分のテリトリーに収めておきたいと感じた。

 それとたぶん同じ気持ちだ。


 それから今日は、映画に行った。

 俺が見たいと思ったのを誘ったら、快く承諾してくれた。

 最初は何人も連れ立って行く前提だったらしい。でも二人で行こうと言ったら、女神は「私も同じ気持ちだ」と言った。


 同じ気持ちって、俺と同じ気持ちってことか。

 ということは、そういうことなのか?

 喜んではしゃいでしまったけれど、今日は引き締めて行った――のに、なんだそのフリフリの付いた服は。


 可愛いじゃないか!

 ……今日は、そういうのじゃないんだ。

 案内でカップルと間違えられて嬉しかったとか、そういうことも本意じゃない。

 いや、本意じゃなくはない。むしろ本望だ。今日の主旨とは違う、と言い換えよう。


 女神が――。

 織紙がなにを好きなのか、俺の考えていることを夢物語だと笑ったりしないか。そんなことを確認したかった。

 そのためにこの映画を選んだわけじゃないけれど、聞くのにいいきっかけだとは思った。


 どう本題を聞こうかと試行していた。コーヒーの話から行くのは、さすがに無理があった。でもそうしていたら、織紙のほうから自分の夢を話してくれた。

 小説家、脚本家。それはなんとも、奇妙な一致だった。

 演出家が演出するには、シナリオが要る。まさか俺の夢を知っていて、合わせているのかと疑いたくなるレベルだ。


 でも織紙はきっと、そういう小細工をする人じゃない。やってもなにか得があるわけでもない。

 そんなに上手くことが運ぶもんかとは思うけれど、二人三脚で興行する舞台を想像しないでは居られなかった。


 自分の考えていることを知ってもらいたい、と思った人は初めてで、その相手も俺と似たようなことを考えていた。

 単なる偶然に過ぎなくても、そんな偶然さえ起きないのが普通と考えたら、すごいことなんじゃないか?

 しかも相手は、俺と同じ気持ちだと言ってくれたし。


 上手くいきすぎる時ってのはな、気ぃつけたほうがいい。大抵はろくでもないことが待ってるからな。

 でも気ぃつけてりゃ、どうにかなるんだよ。


 爺ちゃんが、よく言っていた。

 履いてないふんどしを引き締め直して、この出会いは大切にしようと思った。

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