第27話:うどんと絵本と好きな気持ち

「ねえ──好きって、どういうことかな」


 突然にこんなことを聞いてしまって、驚かせたと思う。

 でも、なんて聞いたものか、なにを聞いたものか。

 どうしたら私の求めている解答が得られるのか。考えているうちに、いつのまにか口から出ていた。


「好きにも色々あるけど……」


 うどんを食べる手を止めて、言葉を選んでいるのが分かる。

 自分の気持ちも相手の気持ちも、間違いなく伝わる方法があればいいのに、と常々言っている人だけに。


「どうやって分かったの? 書くことが好きだって」

「ああ、そういう話か。僕の場合はそうだなあ──」


 家に帰った私に、お兄ちゃんはお腹が空いたと訴えた。

 今日も出かけると言ったら、また「晩ごはんはどうにかする」と言って、その通りコンビニには行ったものの、おやつのような物しか買わなかったみたいだ。

 でも時刻も遅めだったので、冷蔵庫にあった買い置きのうどん玉で、かけうどんを作ってあげた。

 具はたっぷりのネギと、少しの油揚げだけ。


「そういう話?」

「いや、なんでもない」


 自分のやりたいこと。趣味とか、将来の夢とか、頑張りたいこと。そういうものについて聞きたかった私は、自分の質問が色んな意味に取れることに気付いていなかった。

 そうだね。好きな食べ物の話かもしれないし、好きな有名人の話かもしれないよね。言葉が足りなかったね。


「僕はとにかく、読むことが好きだった」

「それは知ってるけど、そんなに単純なもの?」


 この家にある膨大な量の本は、ほとんどがお兄ちゃんの物だ。私の物もあるけれど、冊数は比較にもならない。


「いや。ずっと好きで、好きで。ある時、嫌いになった」

「そうなの? 本を読むのを嫌ってたことがあるなんて、知らないよ?」


 若気の至り、みたいな話だろうか。お兄ちゃんはちょっと照れくさそうな、苦笑を漏らした。「まあ、あるんだよ」と、下唇を突き出しておどけてみせる。


「なんていうのか。どの本を読んでも、同じに見えてきてね。題材がじゃなくて、一つ同じことを訴えるのに、別の本の別の作者と同じような言葉しか並んでいないって思えたんだ」

「そうなの? 言葉はたくさんあると思うけど――」


 よく分からない。

 例えば白い肌質を表すのに、白魚のようなとか、雪のようなとか、比喩の種類が少ないということかと思ったけれど、きっとそういう単純なことじゃないんだろう。


「うーん。その時感じたことを、言葉で説明するのは難しいね。かといって尖った言葉を使う作者は、尖ってるだけって感じで」


 そう言っているお兄ちゃんが、正に言葉を探していた。お箸を宙に踊らせて、自分の作業をしている時と同じ仕草をしている。


「俺が書いた、俺の考えた話を読め――っていうのを、ちゃんと書ききってる人が居ないと思えた。って言うと伝わるかな?」

「うーん。さっきよりは」


 正直に言うと、ニュアンス的な部分を少し感じたというくらいだった。でもこのお話の先を聞けば、分かるかもしれない。


「それで本屋には通うんだけど、やっぱり持って帰る物なんてないと思って、手ぶらで帰るのを繰り返してたんだ」


 ここ最近、お兄ちゃんが本屋さんや図書館に行く機会は減った。忙しくて行けないということはないはずなので、また同じような気持ちになっているんだろうか。


「しばらくして雑誌をめくってたらさ、雑誌に小説の公募が載ってたんだ。なんだそうか、自分で書けばいいんだって思って、すぐに書き始めたよ」

「え、それはいつのお話? 私が知る限り、お兄ちゃんてずっと字を書いてるイメージなんだけど」

「高校のころだね」


 そんなに前のことだったのか。

 お兄ちゃんが高校生というと、私はまだ小学校にも上がっていない。そういう姿を目にしていても、気付かなくても不思議はない。


「でも書いてみて分かった。こういうのが書きたいって思っても、なかなかその通りにはいかないよ。一つの場面くらいは思い通りにいっても、一つのお話にしたら、なんだこれってなる」

「うん。それはなんとなく分かる」


 お兄ちゃんの真似をして、小説みたいな物を書いたことは何度もある。なかなか形にならなくて、内容の破綻していないお話を書けたのは、つい最近だ。

 破綻していないだけで、面白くないけれど。


「それがプロになったらさ、書いていいことと、いけないことってのもある。商売的にじゃなく、倫理的にね。そういう事情の中でまとまった形になってるのは、すごいことなんだなって実感したよ」

「それでまた好きになったの?」


 一つ言うたびに、ちゅるちゅると食べていたうどんは、とうとうなくなった。お兄ちゃんは流しにどんぶりを洗いに行って、また元の椅子に座る。


「これ」


 キッチンの脇にある棚に積まれていた中から、お兄ちゃんは一冊の本を取っていた。

 それはもう販売されていない、古い絵本。お兄ちゃんの言う倫理的な理由で、店頭に置けなくなった物だった。


「今はもう本屋じゃ買えないけどさ、でもこれを書いた人は、悪意なんてなかったはずだよ。楽しく読んでくれるようにって書いたのに、年月が経って勝手に環境のほうが変わっちゃった」

「うん――」


 あらためてそう言われると、その絵本がすごく貴重な物に思えてきた。

 私も本は好きだけれど、この絵本の表紙は何度も視界の端に見えていたけれど、この絵本に特別の感情を持ったことはない。

 でも今は、書かれた年代の空気が詰まった、タイムカプセルみたいに思えてきた。


「そうだね。持ってる人だけでも、大事に読んでくれるといいね」

「だね。そういう極端な例だけじゃなく、読める本も、書きたいと思った文章も、いつそう出来なくなるか分からない。そう思ったら、読んで、書いてを休む暇なんてなくなっちゃったんだよ」


 冷えた烏龍茶を飲み干して、お兄ちゃんは言い切ったみたいな顔をしていた。でも私の質問の答えそのものは、まだ聞けていない。


「じゃあ、好きで書いてるんじゃないの?」

「え、ああ。そうしていたら楽しい。だから、ずっとやっていられるんだよ」

「結局は――楽しいから、なのね」


 単純なのねと、落胆したわけじゃない。説明してくれた通り、その楽しいという一言を口にするには、たくさんの前提がある。

 でもそういう前提がないと、好きと言ってはいけないのかな――とは頭を過った。


「ちょっと違うな。好きだから居ても立っても居られない理由が見つかって、好きだからそうしているのが楽しいんだよ。その時その時は、苦しくてもね」

「ふうん……」


 分かる――気はした。

 でも根本のところでは、分かっていないと思う。たぶんそれが、お兄ちゃんが自分で書いてみて分かったという部分の、本当の意味なんだろう。


「あ。それからもう一つ」

「なあに?」


 お兄ちゃんは、自分の作業部屋に戻ろうとしていた。引き戸に手をかけて、思い出したように振り向いて言った。


「曲がりなりにもこれでお金をもらって、言乃を養ってきたんだ。そういう誇りも、好きな理由の一つになってるよ」

「――うん。ありがとう」


 きゅきゅっと、滑りの悪いさんが音を立てた。戸が閉められて、私はキッチンのテーブルに取り残される。


「やってみないと好きになれるか分からないし、やっていたら好きになる理由も増えるってことよね」


 ジーっと音を立てる古い蛍光灯を見ながら、私は一人、呟いた。

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