第5話:放課後、頼まれた

 その場で立ち上がって、がばっと頭を下げた。


「ごめんなさい!」


 突然に声を上げた私に、二人は戸惑っただろう。

 祥子ちゃんのことを言えないな。全然説明になっていないもの。


「え、どうして? なんでコトが謝るの」


 確かに昨日、私は泣いた。でも二人が想像しているのとは、全然違う。





 昨日の放課後。カバンに教科書をしまっていると、私の席の前に誰かが立った。


「あのさ。学校の中、案内してくれない?」


 顔を上げるとそれは音羽くんで、彼が言ったのがそのセリフだった。


「ん……?」


 誰に言ってるんだろうと、周りを見た。

 右手は壁なので、もちろん誰も居ない。左手と後ろには──もう誰も居なかった。それどころか、教室内には私と音羽くんの二人だけ。

 私はそれほどのんびりしているつもりはないのだけれど、いつも教室を出るのは最後のほうだ。


「なに見回してんの。織紙おりかみに言ってるんだよ」


 あははと、音羽くんは軽快に笑う。

 織紙。それは私の名字。間違えようもなく、彼は私に話しかけて、校内を案内してほしいと頼んでいる。


 案内なんてそんな、私なんかが僭越じゃないのかな。クラス委員でもないし、やっぱりここは先生に。

 あ、でも。もう一度謝るには、いい機会かも。

 いやいや。それだけのために、きちんと務められるかも分からない責任を負っていいのかな――。


 頭の中で、ぐるぐると音がしているように思えるほど、一瞬であれこれ考えた。もしかすると、本当に目を回していたかもしれない。

 だって音羽くんが、ちょっと驚いたような顔をして、私の顔をじっと見ているから。


「あ、ご、ごめんなさい。変な顔をしてたかな」

「……え? あ、いや――全然! そんなことないって! ええと、あの。そうだよ、なんか用があるのか? それなら悪いからいいよ」


 いい人だあ――。

 私の反応がおかしかったのには何も言わずに、私の都合を気にかけてくれるなんて。


「ううん。なにもないよ」

「お、そっか。じゃあ頼むよ」

「うん、分かった」


 残りの教科書を急いでカバンに入れると、私は急いで席を立って、廊下に出た。


「え、と。こっち」

「うん」


 なぜだか音羽くんはクスッと笑って、その笑みのまま頷いた。

 またなにかおかしかったかな、私。



 各学年で普段使っている教室ばかりの一般棟は、音羽くんも分かると言った。だからすぐに、特別棟に向かった。

 その途中の渡り廊下で「あれ?」と気付く。


 私が校内を案内するなんて恐れ多いと思っていたのに、どうしてこうなったんだろう。

 何気なく音羽くんを見ると、私の真横――より半歩後ろを、にこにこ微笑んで歩いている。


「なに?」

「え、あの。どうして案内を私――」


 私は顔を見ただけなのに、音羽くんは一層にこにこしながら聞き返してくれた。

 それを見ていると、どうして案内を私がしているんだったかなんて、聞けなくなった。

 そんなことを言ったら、案内が嫌でたまらないみたいだ。


「ああ……っと。野々宮ののみや天海あまみはなんだか怖くて、あとは織紙くらいしか知らないし。それにしっかり者で、きっちりしてるから。ちゃんと教えてくれそうだ」

「そんなこと――ないよ」


 音羽くんは、どうして案内人に私を選んだのか、という質問だと受け取ったらしい。戸惑いながら、私を褒める言葉を無理に探して答えてくれた。

 それをそのまま受け取ることは、そもそも聞こうとしたこととは違うのを置いても、耐えがたかった。


 それに純水ちゃんと祥子ちゃんが怖いというのも、違うよって言いたかった。

 だから精一杯、否定した。



 特別棟の教室は、部活で使われているか鍵がかかっているか、どちらかだった。それを強引に入るわけにもいかないので、それぞれの教室の前までの案内になった。


「なあ、そのカバンって軽いの?」


 校舎を出て外の施設を見ることになって、下足室に行ったところでそう聞かれた。

 私たちの高校では、通学用のカバンが男女で違う。言われてみれば、私も入学してすぐのころは、男子用のカバンは重そうだなって思っていたような気がする。


 男子用は一見すると革製にも見える、茶色のナイロン地。女子用はチェック柄の帆布っぽい、濃緑色のナイロン地。

 でもそれは見た目だけで、重さはほとんど変わらないらしい。


「うーん、同じだと思うよ――持ってみる?」

「うん。試しに」


 音羽くんは自分のカバンを左手に持って、私のカバンを右手に受け取った。それから自分の体を天秤のように左右を比べて、重さを確かめているみたいだった。


「ほんとだ。そんなに変わんないな」

「うん、そうみたい」


 用が済んだのだから返してもらおうと手を伸ばすと、


「俺が付きあわせてるのに、持たせたままは悪いから持たせてよ」


と、返してくれなかった。

 そうはっきりきっぱり言われると、ちょうど聞こえないくらいの声で「いいのに……」と漏らすくらいが、私には限界だった。



 一般棟にある下足室から、一番近い場所にあるのは講堂だ。その入り口に立って、私は唇を噛みしめた。


 謝るのなら、ここで謝らなきゃ。うっかりあとにしようなんて、絶対に考えたらダメ。

 自分を戒めようとする私の気持ちを、吹奏楽部の人が音合わせに鳴らしている管楽器が、嘲っているかのように聞こえた。

 もちろんそんなことがあるはずもないのだけれど。


「ああ、こんなだったっけ」


 音羽くんはもう入り口をくぐって、ロビーを見回している。緊張しながらも私が追いつくと、どんどん先に歩いていく。

 三階に上って扉を開けた。演劇部の人たちの練習の声が、わっと耳に飛び込んでくる。


 ここが、彼を突き落としてしまった場所。

 息をしっかり吸い込んで、気持ちを言葉にする。


「あの──ごめんね」

「ん? ここでのこと? 謝る必要ないって言ったじゃん」

「うん、それでも。きっかけだったことには変わらないし。こんなに長く休ませてしまって……」


 最後のほうは、言葉が窄んでしまった。でも謝りたい気持ちは伝わったと思う。


「え? あれ?」


 どうしたんだろう。なんだか音羽くんが戸惑っている。もしかして、私のせいだと今さら気付いたとか……さすがにそれはないか。


「ええ──もしかして、俺まだ言ってなかった? 退院してからは、家の仕事の都合で色々と手伝ってたんだよ」

「そうなの? 聞いてないけど──良かった……」

「うわ──ほんと悪い。織紙は毎日お見舞いに来てくれてたから、言ったつもりになってたよ」


 そう聞いて、ずっと心配していたのは取り越し苦労だと分かって、力が抜けた。

 それと一緒に、重大な後遺症でもあったのかとか。そんなこともないと分かって、心からほっとした。


 そうしたら、膝が崩れて立てなくなった。

 私の呟く声は、小さなものだっただろう。今思えば、めそめそと泣いて鼻をすする音だけが周りに響いていたのかもしれない。


「良かった……良かった……なんともなくて良かったね……」


 私はずっと、それだけを繰り返して泣いていた。

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