第4章 そうして彼女は粘土を捏ねる
人形作りというのは複雑な作業で特殊な技術を持ったものしかできないように思われている節がある。しかし、その作業を極限まで噛み砕いて突き詰めれば、「粘土を捏ねて形を作る」という所まで辿り着く。
粘土を捏ねて人の形を作るなんてことは、誰もが子供の時に一度はやった事があるように、決して特別な物ではない。故に、技術によって出来不出来はあったとしても、人形作りという行為自体というのは極々ありきたりなものだ。
そう考えているせいか、クリエはメユに手を引かれて工房にやってきたものの、特にメユの手伝いをする訳でもなく自身の人形作りを進めていた。時折、彼女の手元を微笑交じりに眺めるだけで、メユの人形作りに敢えて口を出すことはしなかった。
あくまでも人形を作るのは彼女なのだ。
「むぅ…… なんだか上手く形が作れてない気がする……」
もっともメユの方はと言えば、迷いなく動いているクリエの手元の人形と自分の手元の人形を見比べて、眉間に皺を寄せながら粘土を弄んでいる。
やはり、手を動かさなければ進まないと分かっていても、なかなか手を動かせずにいた。
「ねぇ、クリエ。少しだけで良いんだけどさ。お願い、聞いてくれない?」
「どうしたの? 直接的な手伝い以外なら聞いてあげるよ」
「う……」
メユはいつもより少しだけ甘えた声を出してみるものの、クリエの柔らかな笑顔で釘を刺されてしまい、あえなく撃沈する。多少のお願いなら聞いてくれるクリエではあるが、妙に優し気な表情の時は絶対に手を貸してくれない。
「ケチんぼ……」
「あのね、贈り物はメユが作るから意味があるんだよ」
ささやかな抵抗とばかりにポツリと零すと、クリエは苦笑いを浮かべて答えた。
自分でも理不尽な言動であることは分かってはいるが、それでも口にせずにはいられなかったのだ。
そも、メユは決して不器用な方ではない。どちらかというと手先は器用な方だし、クリエの手伝いをしているお陰で、一から作ったことはないにしても大まかな人形の作り方は知っている。
人形技師としての腕だって見習い以上の腕前はあるだろう。
それでも、本職の人形技師が隣で人形を作っているのを見てしまうと、彼女はどうしても自分の作品が見劣りしてしまう気がするのだ。
もっとも…… 隣に居るのは世界でも最高峰の腕を持つ人形技師である。今回ばかりはどう考えても相手が悪い。
「クリエはさぁ…… 元から手先がすごく器用だったの?」
「まさか。どちらかというと不器用な方だったよ」
メユが自身の人形を指先でつっつきながら問うと、案の定、予想していた通りの答えが返ってきた。当然ではあるが楽な道などあるはずもなく、結局の所は地道に作業する以外に道は無いのだ。
「大丈夫、手を動かせば必ず成果は伴うよ。それが創作の良い所さ」
「……分かったよ。やってみる」
クリエの口から何度も繰り返された言葉に、少しだけ辟易しながらもメユは再び自分の人形と向き合う。
私では何年も人形作りを続けてきたクリエには敵わない。悔しいけれど、それが現実だ。でも、だからと言って人形作りを止める理由にはならないし、キリエに喜んで欲しいという気持ちだけなら、私だってクリエにも負けていない。
迷いながらも手を動かし始めると、視界の端ではクリエが柔らかく微笑んだ。
「そうそう。その調子。上手に作れているよ」
「本当に? お世辞じゃなくて?」
「もちろん。キリエを喜ばせてあげたいって気持ちが伝わってくるよ」
そう言ってもらえると私も嬉しい。そうすると、不思議と動かしている手にも少しずつ迷いがなくなってくる。
「メユ。正面だけじゃなくて、色んな角度から見て御覧。そうすると、どこを直せばよくなるのか自ずと分かってくるから」
「分かった。やってみる」
「イラストから立体にするときには、見えない部分があるからね。そこを補ってやると人形の表情が生き生きとしてくるよ」
クリエの助言を受けて、作っている人形を色んな角度から観察してみる。
イラストでは見えない所を想像し、人形の気持ちになって考える。
この格好なら、どこを見て欲しいか。どこが一番可愛く見えるだろう。その時には手と足はどこに置くのが一番自然だろうか……
人形が人形の気持ちを考えるというのもなんだか奇妙な話だけど、でも、私自身が人形なんだからクリエよりもずっと人形の気持ちに寄り添えるのも事実だ。おかげで順調に作業は進んだ。
「できた!」
既に組みあがっていた素体に衣装を纏わせ終えると、思わず声が漏れた。
どれくらい集中して作業していただろうか。気が付けば日は随分と傾いていたし、同じ姿勢を続けていたお陰で身体は凝り固まっていた。
「お疲れ様。どれどれ、できたやつを見せて?」
どうやら丁度クリエも作業がひと段落したところらしい。手に残った粘土を落としながら興味深そうに訊ねてくる。
はいどうぞ、とできた人形を差し出すとクリエは驚いたような表情を作り、それから目を細めた。
「うん、上手にできている。これならきっとキリエも喜んでくれるね」
「本当? それは良かった」
出来上がったのは日の本の国の伝統的な衣装を着た人形だ。表面の仕上げはまだしていないし色も付けてはいないのだけれど、人形の姿かたちは十分に分かる。
勿論、人形のモチーフはキリエである。
じっくりと出来上がった人形を眺めていたクリエは作品を机のうえに戻し、よく頑張ったねと私の頭に手を乗せた。
クリエに認めて貰えて安堵すると同時に、超一流の人形技師に自分の認めてもらえて嬉しくなる。この年になって頭を撫でられるのは少しだけこそばゆい気がしたけれど、それはそれで悪いものではなかった。
「ねぇ、クリエの作品も見せてよ」
「僕の作品を?」
私だけ作品を見せるのは不公平だ。クリエの作品も見せて貰わないと釣り合いが取れない。ちょっと駄々を捏ねてみると、クリエは少し困ったような表情を作った。どうやら、直前まで隠しておくつもりだったらしい。
「キリエには完成して渡すまでは内緒って約束してくれる?」
「もちろん!」
二つ返事で頷くと、クリエは仕方ないと観念したように人形を形作る部品を組み立て始めた。
………
「こんにちは、キリエ。僕の名前はクリエ。ピノッキオドリームという店でしがない人形技師をやっている」
「ピノッキオドリーム? もしかして、メユの製作者さんかしら」
「あれ? メユのことを知っているのかい?」
ネメシアに教えてもらったクライアントのもとを訪れると、彼女はどうやら自分のことを知っているようだった。話を聞いてみると、どうやら少し前にメユがこの病室を訪れていたようだ。
曰く、メユは弟と一緒にやってきてお喋りを楽しんだらしい。
「それでね、メユったら可笑しいのよ?」
彼女は本当に楽しそうにメユのことを話してくれた。短い間ではあったけれど、キリエがメユとすっかり仲良くなってくれたことが伝わってくる。
正直な所、キリエがメユの友達になってくれたのは商売の話を抜きにしても非常に喜ばしいことだった。
メユは多感な時期である。家族とは別に他人と触れ合う時間というのも必要だ。ましてや、同世代の女の子と触れ合うというのは掛け替えのない貴重な経験だ。それらの経験は、どんなに頑張ってもこちらでは代替してやることができない経験だからだ。
キリエの話に耳を傾けていると、ついつい頬が緩んでしまう。
「あら、いけない。ついつい私ばっかり話をしてしまったわ」
「ううん、気にしないで。キリエの話を聞けてよかった」
「そう? それなら良かったのだけど……」
不意に彼女はお喋りに夢中になっていたことに気付き、恥ずかしそうに目を伏せた。笑いながら首を振ると、彼女ははにかんだような表情で胸を撫でおろした。
「代わりと言ってはなんだけど…… これからも、メユと仲良くしてくれないかな?」
「えぇ、もちろん。こちらからお願いしたいくらいですわ」
「良かった。それならこちらも助かるよ。ありがとう」
そこまで話をしたところで、自分の中で彼女のために作る人形の題材が決まった。メユが彼女の人形を作るのであれば、自分が作るべき人形というのは決まっている。
……
出来上がったのは長い金色の髪を結わえ、キリエとおそろいの浴衣を着た青い目の人形だ。その少女の姿には、もちろん私には見覚えがあった。
「もしかして…… わたし?」
「キリエとは友達なんでしょ?」
見間違いようがない。わざわざ指の関節まで彫り込んである。
メユが訊ねると、クリエはニッコリと笑って頷いた。どうやら、クリエはメユがキリエの人形を作ると知った時から、メユをモチーフにした人形を作っていたらしい。
「クリエも良いところあるじゃん」
至高の人形技師の粋な計らいに、私はついついクリエの脇腹に軽く肘鉄を食らわせてしまう。そのまま、恥ずかしそうに笑って誤魔化そうとするクリエにじゃれつくと、私はそのまま甘えるように彼に抱き着いた。
クリエは戸惑いながらも飛び込んできた私のことを受け入れてくれた。
腕の中から彼のことを見上げると、優しそうなクリエの瞳と目があった。
「ありがとう、クリエ」
「どういたしまして。 ……でも、人形の彩色は自分でやるんだよ?」
「……チェ。やってくれると思ったのにな」
甘えていたら釘を刺されてしまった。
ちぇっと舌を鳴らしておどけてみせると、「贈り物は自分で作ってこそ価値があるんだから」と諭されてしまった。
もっとも、私が本気ではなく冗談で言っていることにはクリエも分かっていたようで、「困った時は遠慮なく手を貸してあげるから、言うんだよ」と付け加えてくれた。
嬉しくなって、もう一度だけクリエのお腹に顔を埋めてから離れる。
「ねぇ、クリエ。そろそろ晩御飯にしよう? 私、お腹空いちゃった」
「そうだね。じゃあ、店を閉めたらご飯にしようか」
「うん!」
………
「楽しみにしていてね? 絶対、キリエが喜んでくれるようなのを作って見せるから」
目を閉じるとそう言って笑うメユの姿が思い出されて、それだけで自然と頬が緩み胸の奥が温かくなる。
病室の一角に据えられたベッドの上でキリエは身体を横たえながら毛布に顔を埋めて込み上げてくる笑いを堪える。
メユが見せてくれた日の本の国の衣装で着飾った自身の自画像は、何度思い返しても笑みが浮かんでしまうくらい素敵なイラストだった。今は手元にないのが残念だけれど、イラストは彼女の資料なのだから仕方がない。
ニトとメユが自分のために手間暇を掛けて、イラストを今まさに人形として起こしてくれているのだ。これ以上の何かを望んだら、それこそ罰が当たるというものである。
「いつできるのかしら…… ふふ、楽しみだわ……」
あの日にイラストを持ってきてくれて以来、メユとニトは作業の合間を縫っては病室を訪れては人形制作の進捗状況を教えてくれる。その進捗に耳を傾けては、期待に胸を膨らませるのがキリエの日課になっていた。
怖くて不安になるぐらい幸せで、何もできずにただただ吉報を待つ時間を、人々は幸福と呼ぶのだろう。そういう意味では、私は今まさに幸福の渦中に居た。
でも、と思う。
そんな幸福な時間を享受しながら、自身の中で燻ぶるような感情が芽生えているのもまた事実だった。
初めは何かの気の迷いかとも思っていた。あまりにも自分が世間一般で言う幸福とは程遠い生活をしてきた故の違和感のようなものである、そう楽観視していたのだ。
しかし、そんな楽観とは裏腹に、幸せになればなるほど、幸福であることを実感すればするほど、不満の芽が育っていったのである。
これには、流石の私も戸惑いを隠すことができなかった。
親友と弟がわざわざ自分のために人形を作ってくれる。そんな身に余るほどの幸福に、一体何の不満があるというのだ。
「あら、ベッドの上に大きな芋虫が寝っ転がっているわ?」
毛布に顔を埋めてモゾモゾとしていると、唐突に声が掛けられた。思わず小さな悲鳴をあげてしまう。慌てて、顔を上げて病室の扉の方を見遣ると美しい銀色の髪をした給仕服に身を包んだ女性が立っていた。
いや、より正確に言うのであれば人間ではない。関節の各所には人間では絶対にありえないはずの球体が嵌っている。
そう…… メユと同じ球体関節人形だ。
「ノーラさん!」
「お邪魔しているわね、キリエ。身体の調子は如何かしら?」
私が「とってもいいよ」と応えると、ノーラさんは嬉しそうな微笑を浮かべて病室の中に入ってきて、「それは良かった」と優しく頭を撫でてくれた。
人の手とはちょっとだけ違う、固くて生き物の熱を感じない手の平。でも、その手の平は不思議な温もりと安らぎを与えてくれる。私はその手の平が大好きだった。
「それで…… どうして芋虫になんかなっていたの? 悩みでもあるの?」
ノーラは椅子に腰を掛けながら問いかけてきて、私は少しだけ考えてしまう。これ以上心配は掛けたくないけれど、だからと言って私自身もこの悩みをいつまでも抱えて居たくはなかった。
チラリとノーラの方を盗み見ると、銀糸の合間から心配そうな琥珀色の瞳が覗いていた。やっぱり彼女には隠せそうもない。もう既に心配されているのなら、と私は勇気を出して口に出してみる。
「実はね……」
そう初めの一言を切り出してみると、胸の内に秘めていた言葉は次々と口を継いで出てきた。メユとニトが日の本の国の衣装に身を包んだ自分の絵を持ってきてくれて嬉しかったこと。その絵を元に人形を作ってくれると約束してくれてとても楽しみなこと。でも、どういうわけだか幸せだと思っているはずなのに自分は不満を感じていること。
たどたどしい説明にもノーラは時折相槌を打ちながら、微笑みながら静かに私の話を聞いてくれた。
その時間はとても心地よくて、ついついしゃべり過ぎてしまうくらいだった、
「そう…… だから、キリエはモヤモヤしたものが溜まっているのね?」
「……うん」
「ふふ、良かった。キリエに不満があるなんて言うから、心配しちゃった」
一通り喋り終わると、ノーラは確かめるように告げた。その言葉に頷くと、彼女はクスリと安堵したような笑みを漏らして「それなら力になれそうね」と言ってくれた。
こちらとしては困っているので笑われることはちょっぴり不満だったけれど、でも、ノーラが悩みを解決するのに力になってくれるというのは心強かった。
「それで…… ノーラは、私の不満の原因が分かるの?」
「もちろん。キリエの悩みはとても自然で健全なものだから心配しなくても良い物です」
本当に、と視線で問うとノーラは力強く頷いてくれた。
「その悩みはね、キリエがメユ達にお礼を返したいって気持ちが育っているからですよ」
「あっ……」
そうだ。確かに私は二人にお礼がしたいのだ。
言葉にしてみればひどく明瞭で、単純な問題だった。
ノーラが告げると、私の中で胸につかえていた物がストンと落ちた気がして、目の前がパッと明るくなった気がした。
ノーラの方を見遣ると私のそんな表情を見てクスクスと楽しそうに笑っていた。
「ねぇ、ノーラ。どうすれば、メユとニトは喜んでくれるかしら?」
「心配しなくてもキリエが喜んでくれれば、それだけで二人とも喜んでくれると思いますよ。彼女達はキリエに喜んで欲しくて作っているのですから。お礼の心配なんかしなくても、キリエの喜ぶ姿を見せてもらうのが二人にとって最大の報酬です」
「そうかなぁ……」
確かに、ノーラの言う通りかもしれない。彼女達は一度たりともお礼を求めてなんかいなかった。ただ私に喜んで欲しいという思いだけで二人はここまでしてくれているのだ。なら、何かしようと思う方が野暮というものだ。
「……でも」
「それでも、キリエは二人にお礼がしたいんですよね」
「……っ!」
やっぱりお礼がしたい、と言おうと思ったところでノーラに悪戯っぽい笑みで先回りされてしまう。ノーラはなんでもお見通しで私の心の中まで覗かれているようだ。なんだか頬が熱くなる気がした。
「どうすれば、二人は喜んでくれるかしら?」
一日の大半をベッドの上に居る私には、できることは限られている。恥ずかしい事に返せる物が何もないのだ。
それでも彼女達に何かを返したい。
無理を承知で頼んでみると、ノーラは微笑みながら頷いてくれた。
「そうね、キリエにできること…… 二人で少し考えてみようかしら?」
「ありがとう、ノーラ」
……
もう人形の完成は目の前で、色を付けたらキリエに贈ることができる。その事実は、メユ病院へ向かう足取りを軽くさせ、いつもの公園の噴水の前でニトを待つ時間を心地よいものにしてくれた。
近くのベンチに座って噴水で水浴びを楽しむ小鳥たちを眺めてニトのことを待っていると、待ち合わせの時間のほんのちょっと前にニトが走ってやってきた。
「ごめんね、待った?」
「ううん。私も今来たところだから、全然待ってないよ」
謝るニトに首を振ると、安堵したかのようにニトは胸を撫でおろした。でも、いつもは時間に余裕を持ってやってくる彼が、時間ギリギリにやってくるのはちょっぴり珍しい。
試しに理由を訊ねてみると、ニトは少しだけ嬉しそうな表情を見せて手に持った荷物を私に差し出した。受け取ってみると、中からは何やら食欲をそそる様な香ばしい香りがする。被せてある布を少しだけずらして中を覗いてみると、中から美味しそうなキツネ色の菓子パンたちが顔を覗かせた。
「どうしたの、これ?」
「来る途中で売っていたんだ。美味しそうだったから買って来た」
皆で一緒に食べよう、とニトは笑みを作る。
それは名案だ、良いところもあるじゃない。
そうニトを肘で押すと、彼もまた気恥ずかしそうに笑いながら肘で押し返してきた。私達は互いにグイグイと押し合ってしばらくじゃれ合う。そうやって暫く戯れた後は、どちらともなく病院への道のりを歩き始めた。
病院への道は通いなれたもので、もう目を瞑って歩いても行けるほどだ。
でも、通りを歩く時の穏やかな陽射しと吹き込む爽やかな春風は肌に心地よくて、路地に咲いた花達は日によって表情を変えるので飽きさせることはない。
私が自分を持ち始めてから色んな街を見た訳ではないけれど、それでも、私はこの街が好きだと自信を持って言える。それはニトも同じだったようで、彼もまたこの街が好きだと言ってくれた。
そんな他愛のない話をしたり、ちょっと季節の花に誘われて道草をくったりしている内に、キリエの居る病院へと辿り着いた。
受付に行くと、すっかり顔馴染みになってしまった看護師さんが私達の受付を済ませてくれた。
「こんにちは、キリエ。来たよ!」
「あ、二人とも来てくれたんだ。いつもありがとうね」
「姉ちゃんも今日は調子が良さそうで何よりだよ」
ノックしてキリエの居る病室の扉を開けると、キリエは丁度何か書き物をしていたらしく起きていてくれた。今日は随分と調子が良いらしく、私達のことを穏やかな笑顔で迎えてくれる。最近は何かと調子が悪い事も多かったので、私も安心しながら椅子に腰を掛ける。
「キリエは身体が弱いんだから、あんまり無理はしないでね?」
「心配してくれてありがとう、メユ。でも、私は大丈夫よ? 最近、ちょっと夜更かししてしまっているだけだから」
「そうなの? それだけなら良いけど……」
キリエは何かと無理をしがちなので、ちょっとだけ心配だ。視線を移すとニトも同じ気持ちだったらしく、その表情はキリエが最近眠れていないのではないかと心配していた。
「本当に大丈夫だから。最近、ちょっと夜に書き物をしていただけなの」
「……うん、分かった」
そこまで言うのなら大丈夫なのだろう。キリエだって自分の身体のことは良く知っているはずだ。
念のために「でも、これ以上は夜更かししないように」とだけ釘を刺しておくと、彼女は苦笑いを浮かべながら頷いてくれた。
「それにしても、キリエは何を書いていたの?」
「私が書いていたもの…… 知りたいのかしら?」
私達が来るまでキリエが何かを一生懸命書きつけていたノートを指さしながら訊ねると、彼女は悪戯っぽく笑いながら問いかけてきた。
いつもはお淑やかなキリエがそんな表情をするのは珍しい。ちょっとだけワクワクしながら頷いて言葉の続きを待つと、彼女はますます嬉しそうな表情を浮かべた。
「ふふ、”今は”教えてあげないわ」
「え⁉ なんでぇ? 教えてよぉ」
てっきり教えてもらえると思っていたので、焦らされるなんて考えもしなかった。
私は思わず彼女の腕を掴んで抗議の声をあげる。キリエは私のそんな抗議を相変わらずの嬉しそうな笑顔で受け止めながら、私に身を任せてきた。
「ごめんなさい、今は教えられないわ。でも、代わりに、一段落着いたら二人には必ず教えてあげる」
「本当? 一段落着いたら教えてくれるって、ちゃんと約束してくれる?」
「本当に、本当よ。メユも楽しみにして待っていてね?」
なんだかズルいような気がして唇を尖らせるけれど、キリエがそういうのなら仕方がない。私は素直に諦めることにする。
「それじゃあさ、そろそろ皆でパンでも食べない?」
「あぁ、なんだかさっきから美味しそうな香りがすると思っていたのだけれど、それだったのね?」
「うん。途中で美味しそうな菓子パンが売っていたから、御土産に買って来たんだ」
姉ちゃんが喜ぶと思って、とニトが言いながら手に持ったバスケットを差し出すとキリエは手を合わせて喜んだ。
「私から選んで良いのかしら?」
「うん、姉ちゃんのために買ってきたからね。姉ちゃんから選んで」
「そう…… それなら、遠慮なく選ばせてもらうわね? ありがとう、ニト」
心底嬉しそうな表情でバスケットを受け取り、中のパンを覗いてちょっと迷った表情を浮かべるキリエの姿を見て、私もついつい頬が緩んでしまう。さんざん迷ってから、キリエは豆を甘く煮たペースト入りのパンを選んだ。
「ほら、メユも見ていないで早く選んでよ」
「私? 先にニトがパンを選ばなくて良いの?」
「いつも人形作りを手伝ってくれているお礼。こういう時くらいは格好つけさせてよ」
「そういうことなら遠慮なく」
私も遠慮なくパンを選ばせてもらうことにする。
私が選んだのはイチゴのジャムがたっぷり入ったジャムパンで、ニトが選んだのは残ったカリカリもふもふのメロンパン。いつもはクリエと二人でご飯を食べているけれど、三人で食べる間食はいつもと違った味わいで美味しかった。
「あぁ、美味しかった。ごちそうさま」
「病院食はいつも味気ないから、焼き立てのパンは美味しかったわ。ありがとうね」
「どういたしまして。また買ってくるから、楽しみにしていてね?」
パンを一口ずつ交換しながら食べると、あっという間になくなってしまった。少し物足りない気もしたけれど、間食というのは、少し物足りないくらいで丁度良いのだ。
「それで…… あのお人形はどこまで進んだのかしら?」
食後のお茶を淹れていると、キリエは人形制作の進捗をせがんだ。
聞きたい? と視線で問うと、キリエは勿論と頷いた。
「ふふ、どうしようかなぁー……」
「まぁ、どうしてそんな意地悪なことを言うの?」
先ほどはキリエに何を書いているのか教えてもらえなかったので、ついつい私もちょっとだけ悪戯心が芽生えて意地悪を言ってしまう。でも、キュッと手を握りながら「後生だから教えてくださいまし」と真っすぐな瞳でお願いしてくるキリエには勝てそうもない。
私は渋々懐に手を入れて一枚の写真を取り出し、その写真をキリエに手渡した。
「はい、今の進捗だよ」
不思議そうな表情で写真を受け取った彼女は、それを見てすぐに顔を綻ばせた。
そこに映っているのは、大まかな形を作り終え、残るは表面の処理を待つばかりのキリエの為に作った人形だ。
「あと少しで完成なのね?」
本当に嬉しそうな表情でキリエは訊いてくるので、私も釣られて嬉しくなってしまう。
あとは彩色するだけだよ、と告げると、彼女は腕を回してギュッと抱きしめてくれた。細くて華奢な腕だけれど、柔らかくて温かい腕だ。クリエとはちょっと違うけれど、私はこの腕が大好きだ。
「本当に…… ありがとうね、メユ」
彼女は私の首に顔を埋めながら、そう言った。
「ふふ、どういたしまして。でも…… これは私一人だけで作った作品じゃないんだよ? ニトも手伝ってくれたし、クリエにも沢山助言をしてもらったの。だから…… 私だけじゃなくて、皆にお礼を言って?」
「うふふ、分かったわ。 ……ニトも、ありがとうね?」
「うん。どういたしまして。でも、大部分はやっぱりメユのお陰だよ」
「もう、二人とも謙遜ばっかりして…… 本当にありがとう、二人とも大好きよ」
キリエはお礼を言うと、大きく手を広げて私達二人を抱きしめた。
ニトは最初こそ恥ずかしくて抵抗してみせたけれども、そう簡単にキリエが放してくれそうにないので観念したらしく、大人しく抱きしめられていた。
「あら、もう…… 時間なのね」
楽しい時間は早く過ぎる。気が付けば、面会時間ももう終わりだ。
キリエは残念そうに言って、最後に少しだけギュッと抱きしめる腕に力を込めてから私達を解放した。
「また来るからさ…… 姉ちゃんも、それまでは元気でいてよ」
「分かったわ。二人とも、気を付けて帰ってね?」
「うん。キリエもお大事に」
私達はそれだけ言い残して、病室を後にした。
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