第3章 そうして彼女は報告した
ベッドと窓があるだけの閑静な病院の一室。いつもはその静かな部屋のなかで背中まである黒髪の少女が一人、物憂げに窓の外の景色を眺めている。元より、彼女は自身の身体があまり強くないことは自覚していたし、時間を見つけては見舞いに来てくれる家族にも少なからず負担になっていることは十分に理解していた。
だから、彼女はせめてこれ以上は負担になるまいと気丈にふるまい、「寂しい」などと言って周囲を困らせないように努めてきた。
けれども、いくら気丈に振舞っているとしても所詮は齢十二の少女である。一人になれば外で遊んでいる同世代の子供たちの様子を眺めながら、どうして自分だけがこんな所でじっとしていなければならないのかと嘆息するのが常だった。
ただ、今日のキリエは違った。
病床における唯一の友であるはずの本は開いているものの、その細い指は一向にページを捲っているようすはなく、代わりに時折病室の入り口を見遣っては落ち着かないとでもいうようにベッドの上で身体を揺らしている。その表情もいつもの憂いに満ちた表情ではなく、枕元に置かれるプレゼントを楽しみにする子供のようにどことなく明るい。
その原因はほどなくして分かった。
「こんにちは、キリエ」
「こんにちは、メユ。待っていたわ」
コンコンと病室の扉がノックされると、返事を待つよりも早くその扉が開き、金を煮溶かして染め上げたような美しい金色の髪と瑠璃の瞳を持つ球体関節人形が現れた。その命を吹き込まれた不思議な人形の姿を見て、キリエは顔を嬉しそうに綻ばせて彼女を迎え入れた。
「ごめんね、ちょっと準備するのに手間取っちゃって」
「ううん、気にしないで。私は本を読んで待っていただけですもの」
手にした本を軽く掲げて見せると、メユはホッと安堵したように笑った。
それから病室に入ると、ベッドの下から来客用の折り畳み椅子を取り出し、キリエの隣に腰掛けた。
「それで、今日はどうしたの? 私に見せたいものがあるって」
「ふふ、なんだと思う? 当ててみて」
「まぁ、意地悪。素直に教えてくださっても良いじゃない」
問いかけると、メユはほんの少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。キリエも口を尖らせて抗議こそしているものの、その表情はどことなく嬉しそうで、これから二人だけの秘密を共有するのを待ちきれないとでも言うように楽しそうだ。
「もう、キリエったら仕方ないなぁ……」
「うふふ」
仕方ないと言いながら笑顔を浮かべつつもメユは掛けて来た鞄を床に下ろすと、その中から何枚かのラフ絵を取り出すとキリエに見えるように並べた。
そこにはワンピースやドレスエプロンと言った年頃の少女が好みそうな様々な衣装を着ている少女の姿が描かれていた。それらの絵を見たキリエはパッと顔を輝かせる。
「クリエにね、ちょっとお願いして借りて来たんだ」
「素敵な絵ね」
「そうでしょ?」
そう感想を告げると、メユは自慢げに胸を逸らした。
キリエが目を細めながらそれらの絵を見入っていると、不意にラフの描かれた紙を捲っている指の動きが止まった。
「これは私?」
「うん、そうだよ」
キリエの問いにメユは頷く。
そこに描かれていたのは、見覚えのある黒髪の少女…… キリエの姿だった。絵の中の彼女は東洋に浮かぶ島国独特の涼し気な装いで微笑んでいる。
「可愛い服ね……」
「そうでしょ、浴衣っていう服なんだって」
「浴衣?」
「そう、浴衣。日の本の国ではお祭りの時に着る衣装なんだってさ」
「そうなんだ」
そう呟いてキリエは再び視線を手元に落とした。
日の本の国。知識だけでは知っている。そこでは人ならざるものと人とが奇妙な共存関係を築きながら暮らしているという一風変わった国である。そんな不思議な国で行われる祭りとなれば、さぞ珍しいものが並んでいるのだろう。
日がな一日ベッドの上から窓の外を眺める身上なれど、もしも許されるのであれば是非とも行ってみたい憧れの国だ。
「たしか、キリエは日の本の国が好きだって言っていた気がしたんだけど…… 気に入ってくれたかな?」
「えぇ、とっても。私、一番この絵が気に入ったわ」
「本当? それは良かった」
キリエの言葉にメユはその端正な顔を綻ばせた。
メユはキリエが手にしている以外の絵を再び鞄に仕舞うと、椅子から立ち上がってキリエの隣に座った。
「実を言うとね。今度そのイラストを元に人形を作ろうと思っているんだ」
「あら、人形を?」
「うん、人形。それがあったら、キリエは病院に居ても寂しくないかなって思って」
どうかなとメユが訊ねると、キリエは一瞬だけ驚いたような表情を作ったが、すぐにその表情は明るい物へと変わった。
「私が作るから、クリエの作品みたいに上手く作れないと思うけど…… それでも?」
「もちろん。メユが私を想って心を込めて作ってくれるのなら、なんだって嬉しいわ。それがこんなに素敵な人形だなんて…… ふふっ、考えるだけで幸せだわ」
病弱なのも悪くないかもね、と冗談めかして笑うキリエにメユもまた嬉しそうな笑顔を作った。
「じゃあ、そろそろ行くね?」
「もう行ってしまうの?」
「うん。そうと決まったら人形を作らないと」
キリエは手にしていた浴衣姿の自分の姿のラフ絵を返しながら、少しだけ寂しそうな表情を作った。そんな彼女の表情にメユは椅子を仕舞いながら苦笑いで応える。
「でも、楽しみにしていてね? 絶対、キリエが喜んでくれるようなのを作って見せるから」
「うん、楽しみにしている」
キリエの言葉に後押しされるようにして、メユは病室を後にした。
………
ピノッキオドリームの工房内。乾かすために吊るされた人形に埋もれるようにして、クリエは黙々と作業をしていた。
アルミ線を切り、それらを組み合わせて人の形を作る。作られた形を微調整してポーズをとらせると、接着剤を差して形を固定して台に載せた。できあがったのは、アルミ線でできた簡素な骨組みだ。
クリエは出来上がった骨組みをもう一度確認すると、小さく頷いて粘土の塊を取り出した。その塊から小さく粘土を千切り取ると、それを指先で捏ねながらその人形へと肉付けてゆく。
粘土は骨となり、肉となり人形を形作っていった。
僅かに垂れ目気味でいつもは優しげな光を湛えている瞳は、いつになく真剣だ。
やがて四肢が出来上がったところで、ようやく一息入れるように人形から顔を離した。
「久しぶりにみたけれど、相変わらず大した腕ね」
「はは、ありがとう」
クリエの隣で魔法のように人形が出来上がっていく一部始終を見ていたノーラが、頃合いを見計らったようにひどく感心したような声音で声を掛ける。
しかし、クリエにとってこの程度の造形はちょっとした手遊びのようなものだ。これで誉められてしまうのは少しばかり気恥ずかしい。返答に困ったクリエは、謙遜混じりの苦笑いで礼を言った。
「謙遜は日の本の国の美徳だけど、過ぎた謙遜は嫌味になるわよ?」
「そうだね、気を付ける」
折角誉めているのだから素直に受けとるように、と穏やかにたしなめられると、クリエは素直に頷いた。
「ところで、これはキリエへの贈り物かしら?」
「うん、そうだよ」
ノーラは机の上に置かれた素体をしげしげと眺めながら問いかけると、クリエは手についた粘土を雑巾で拭き取りながら応えた。
素体といっても、今にも動き出しそうなほど精密に作られた少女の人形だ。このままでも十分に贈り物として通用するだろう。
「作業時間を減らすのに速乾性の粘土を使ってみたんだけど上手くいった」
「メユ達に作らせるための下準備かしら」
「ううん。こっちは僕がキリエに贈るための人形。メユ達の人形はあっちだよ」
「あら意外とちゃんとした形になっているのね」
そう言って棚に厳重に保管されている人形の一つを指さすと、ノーラも納得したらしく柔らかく微笑んだ。
今はもうネメシアの所有物になって必要以上に入れ込まないようにはしているようだが、ノーラはメユの話題になると嬉しそうな表情を浮かべる。その変わらない愛情にクリエもなんとなく嬉しくなる。
「さて、またせたね。ノーラのメンテナンスを始めようか」
「お願い」
「それじゃあ、服を脱いで作業台に上ってもらえる?」
クリエに促されるままにその給仕服のボタンを外していく。ノーラは服を脱いで下着だけになると、作業台に上ってその身を横たえた。
蛍光灯の下で文字通りの白磁の肌が無防備に晒される。
一見すれば妙齢の女性と見間違えるほどの美しさ。けれど、要所に埋め込まれた球体の関節が彼女を人間ではないことを強調する。
その有機的な無機質さ。命なき生命。そこには決して交わるはずのない二つが、矛盾することなく見事に調和して存在し、ある種の艶かしさを醸しだしていた。
「目立った損耗はないけれど、少し可動域に磨耗があるね。最近動きにくくなったりはしてない?」
「少し右膝のあたりに違和感が」
「やっぱり」
そんな至高の芸術を前にしてなお、クリエは淡々とした口調で問いかける。ノーラは確かに芸術品ではあったが、同時にクリエにとっては家族も同然。ならば、彼女を前にして臆する理由もない。
ましてやそれが、不調を訴える家族を前にすれば尚更だ。
「外すよ」
「お願いします」
クリエは短く告げると、四肢を繋ぎ止めるためにノーラの内側に張られた皮紐を緩め、慣れた手つきで彼女の右膝の関節から下を取り外した。
人形は粘土や合成樹脂で作られている。しかし、ノーラのように自分から動き出すようになると生体のような柔らかさを帯び、同時に爪や髪の毛など本来なら伸びるはずのないものが伸びるようになる。
理由はわからない。そもそも、動く理由さえ詳しくはわからないのだ。ただ、それでも「どうしてやれば良いのか」だけは手にとるように分かった。
「痛くない?」
「問題ありません」
粘土を少量の水で溶かし、関節の球体部分に塗りつける。それを膝に宛がうと軽く動かして滑らかに動くように微調整すると、余計な粘土を取り除いて再び脚を取り付けた。
「動かしてみて?」
ノーラはクリエに言われた通りに何度か膝を曲げ伸ばしすると満足げに頷いた。
「……えぇ、前よりも大分動かしやすいわ」
その言葉にクリエは安堵したように吐息を漏らす。
「ノーラはあくまでも鑑賞用の人形だからね。そんなに強く作っていないんだ。今度来たときに関節部分は摩耗しにくい樹脂製のものと交換するから、それまでは当面はこれで我慢してほしい」
「ありがとう、クリエ」
「ううん。家族だもの、これくらいやらせてよ」
そうして、そのまま一通り調律をしてもらったノーラはクリエに手渡された服に袖を通しながら作業台から降りると、改めて軽くストレッチをして自分の身体の感触を確かめる。
どうやら彼女も満足するできだったらしく、クリエに向かって柔らかく微笑んだ。
「お疲れさま、ノーラ。紅茶でも飲んで一休みする?」
「良いわね。じゃあ、そこで待っていてもらえるかしら?」
クリエがお茶の準備をしようと腰を浮かせかけると、ノーラはそれを手で制する。キョトンとするクリエにノーラは少し肩を竦めてみせた。
「私だって、たまには貴方を労いたいのです」
彼女の言葉にクリエは「そういうことなら」と再び腰を下ろす。
薬缶に水を汲んで湯を沸かしながらノーラはてきぱきと紅茶の準備をする。
「ところで、メユの様子はどうかしら?」
「どうっていうのは?」
「ネメシアとの関係、ですよ」
………
メユは病室を出た後、ピノッキオドリームへの帰り道を急ぐ。特段帰り道を急ぐ理由などなかったのだが、キリエの「楽しみにしている」という言葉が、自ずとメユの足取りを軽くさせた。
通りをスキップしながら歩いていると、前方に店先で店員と話をしている髪の毛を金色に染めた軽薄そうな人影が目に入った。
「よぅ、メユ」
脇道に逸れてやり過ごそうかとも思ったが、男はそれよりも僅かにはやくこちらの存在に気付き片手を挙げた。あんなに親しそうに挨拶をされてしまっては無視するわけにもいかない。私も渋々ながら手を挙げて応える。
「元気にしていたか?」
「ネメシアが声を掛けてくるまではね」
「お、ってことは今まで元気だったんだな。上々、上々」
「……はぁ」
「どうした?」
「なんでもない」
嫌味を言ったはずなのに、ネメシアはそれだけ元気なら上出来だと嬉しそうな表情を浮かべる。それが上面の言葉なら私も難癖つけてやることもできるのだけれど、心の底からそう思っているので、嫌うに嫌えない。
正直に言うと、ネメシアがもっと嫌な奴だったら良かったと思うことがままある。そうすれば、私は心置きなくノーラを買った彼のことを恨むことができるのに。
そんな思いを込めてため息を吐くと、ネメシアは心配そうな表情で私の顔を覗き込んだ。
「ところで、メユは甘い物は好きか?」
「突然なに?」
「ちょっと甘味の開拓でもしようかと思ってね」
どうやら男一人で甘味処に入るのは少し気が引けるので、どうやら私に一緒に来て欲しいということらしい。
甘味は好きだ。クッキーは好きだし、キャンディーも好き。チョコレートも大好きだ。一緒に行くのがネメシアということに思う所がないわけではないけれど、お菓子に罪はないし、甘未を御馳走してもらえるというのなら断る理由はない。
「仕方ないから付き合ってあげる」
「それは助かる」
甘味を御馳走してもらったら、すぐに帰ってキリエのための人形を作り始めよう。そう胸中で心に決めつつ、ネメシアの後ろをくっついていく。
「ここ?」
「男が一人で食うには、ちょっとばっかり、勇気が要るものでね」
「ふーん」
人通りの激しい石畳の中央通りを歩くこと数分。やってきたのは、最近は若い女の子の間で有名になっているという近くのクレープ屋だった。確かに男の人が一人で食べにくるには少しばかり勇気が要る店だろう。
「好きなものを選んでくれ」
「なんでも良いの?」
「もちろん、なんでも」
「焦がしイチゴ・ミックスベリーバニラアイスチーズケーキブリュレください!」
「迷わず一番高いのを選びやがったな、こいつ」
迷わず店員に注文すると、隣で「少しは遠慮しろよ」という怨嗟の声が聞こえた気がした。
でも、直前で「なんでも良い?」ときちんと確認したし、御馳走してくれると言ったのはネメシアの方だ。私は何も悪くない。
「じゃあ、俺はチョコクレープを」
ネメシアが財布を取り出しながら自分の分を注文すると、店員は愛想よく注文を復唱してテキパキと用意し始める。やがて、クレープが出来上がると、代金と引き換えにそれを受け取った。
受け取ったクレープはずっしりと重く、トッピングに添えられた焦がしたイチゴからは香ばしくて甘い香りがして食欲をそそる。
店先に備え付けられた椅子に座り、口を大きく開けてクレープにかぶりつく。
チョコレートの濃厚な甘みとベリーの適度な酸味がほどよく混ざり合い、それをアイスが包み込み絶妙なハーモニーを作り出している。
クリエはお菓子を買ってきてくれることはあるけれど、どうにも買ってくるお菓子に偏りがあるのだ。世情に疎いからお菓子を食べに行こうなんて言ってくれることはないし、こんなに凝ったお菓子なんて頂き物でもらった時くらいしか口にしない。
だから、とっても新鮮でおいしい。
「お気に召したようでなにより」
「ん」
舌鼓を打っていると、ネメシアは笑いながらそう言った。
「……んぐ」
「良かったら、こっちも食うか? 口付けてねぇから」
「ううん、要らない」
「あ、そう? あんまり美味しそうに食べるんで、遠慮しなくても良いんだぜ?」
ノーラみたいに親しい人がくれたらちょっと考えるけれど。流石に私も人のクレープを貰ってまで食べるほど卑しん坊ではない。
最後の一口を口の中に放り込んで残った紙で指先を拭くと、ようやくネメシアがチョコクレープを食べ始めるところだった。
ついついクレープを堪能してしまったけれど…… そもそも、このクレープ屋さんはネメシアが食べたいって言ってきたのではなかっただろうか。
「ん? ……あぁ、そうだっけ?」
「そうだよ…… で、本当は何が目的なの?」
ネメシアは手にしたチョコクレープを齧りながらすっとぼける。
まさか本当にクレープを食べたかっただけ、とは言うまい。世の中にはタダより高いものは無いというし、私だって奢られて「はい、さようなら」というほど、察しは悪くない。
クレープ代くらいは付き合ってあげよう。
「いや、大したことじゃないよ」
「なに?」
「少しお前と二人で話がしたかっただけ」
お前さん、俺の事を嫌っているから話なんかしてくれないだろう? そういってネメシアは小さく笑った。当たり前だ。大事なお姉ちゃんのことを買っていった人間を好きになることなんてできやしない。
私が頷くと、彼もまた乾いた笑い声を漏らした。
もしも、お金に物を言わせて自分勝手なことをする嫌な奴だったら恨むこともできるだろうし、ノーラも嫌々買われたのなら蹴飛ばすこともできるだろう。
でも、違うのだ。
ネメシアは良い物を良い物と認めた上で欲しい物を欲しいと言って正々堂々求めるし、ノーラもそれが分かったから自分から買って欲しいと願い、クリエもそれなら幸せになれると思ったから手放した。
それは分かっている。
なら、私は…… ノーラを姉と慕っていた気持ちはどこに向ければ良いのだろう。
「……ネメシアが嫌な奴だったら良かった」
「それじゃあ、ノーラが不幸になっちまうだろうが」
「止めて、触んないで」
ぐしゃぐしゃとネメシアの手が私の頭を撫でる。
気安く頭を撫でて欲しくない。頭を振って抵抗すると、ネメシアはケラケラと楽しそうに笑いながら、手を引っ込めた。少なくとも、そういうデリカシーのないところは嫌いだ。ノーラにもそういうことをやっていないか不安になる。
まぁ…… あくまでも私のことを子供扱いしているから頭を撫でるのだろうけど。
「………さて、行くか。今日はありがとうな、メユ」
「あ、ちょっと…… ネメシア!」
いつの間にかチョコクレープを食べ終えていたネメシアが立ち上がって帰ろうとする。
あまりに自然な動作だったので思わず彼のことを呼び止める。
クレープのお礼を言おうと思ったけれど、やっぱり私の喉は彼に「ありがとう」という言葉を言うのを拒否してしまい、所在なく周囲を見渡すことしかできなかった。
「どうした?」
足を止めた彼は振り返り、首を傾げる。
「その…… この間、勧めてくれた粘土…… 使いやすかった」
結局、出てきたのはそんな言葉。素直にお礼を言う事ができない私が、今は少しだけ恥ずかしかった。
でも……
「……おう」
ネメシアは嬉しそうに笑って。そんな風に応えてくれた。
………
「ただいまー」
「おかえり、メユ」
「おかえりなさい」
ドアベルを鳴らしてピノッキオドリームへと帰ってくる。相変わらず店内は閑散としていたけれど、丁度クリエとノーラがお茶をしている所だった。どうやら、調律を終えた所らしく、リハビリがてら紅茶を淹れているところだった。
「メユも紅茶を飲みますか?」
「メユの好きなクッキーもあるよ」
「紅茶だけもらおうかな」
そういって椅子を引いてテーブルに座ると、二人はちょっとだけ驚いた表情を作った。
「あれ、どうしたの? 珍しいね、紅茶だけなんて」
クッキーは好きだ。ノーラの焼いたクッキーはサクサクとした食感がたまらないし、甘すぎない上品な甘さが俊逸だ。いつもなら喜んで貰うところだけど、今日は外で甘い物を食べて来たし、これ以上は甘い物の食べ過ぎになりそうなのでここはグッと我慢して遠慮しておく。
「どこかで甘い物を食べて来たんでしょう?」
「うん、まぁね」
察しの良いノーラはすぐに私が外で甘味処に寄ってきたところを察したらしい。私は人形なので太るなんてことはないのだけれど、それでも体調に影響が出てくるのだ。
「あとでちゃんと歯磨きをしておくんだよ?」
「言われなくても分かっているよ、クリエ」
当たり前のことを言うクリエの言葉に耳を傾けながら、ノーラは温めたカップに琥珀色の液体を注ぐ。そんなやりとりが少しだけ懐かしい。ノーラがネメシアに買われる前までは、ずっと私達の家はこんな感じだった。
ノーラが紅茶を淹れてくれて、私がクッキーを食べているのを、クリエが頬杖を突きながらのんびりと眺めている。いつもは三人きりのお茶会なんだけれど、時々ピノッキオドリームにやってきてくれたお客さんが加わるのだ。
今だったら、ニトがこの席に加わるのだろうか。
「……ねぇ、ノーラ」
「ん、なぁに?」
僅かに首を傾げると彼女の銀糸を紡いだような髪がサラリと揺れた。
「本当に…… 本当に、帰ってきてくれないの?」
無駄だと分かっていてもつい訊いてしまう。
「えぇ、私はもうネメシアの所有物ですから」
「そう…… だよね」
困ったような笑顔を浮かべながらノーラは答えた。分かりきっていた答えではあったけれど、実際に返ってくるとやっぱりへこむ。
もっとも、所有物でありながらこうして依然と殆ど変わらずに紅茶を一緒に飲めるのはある意味考え方によってはネメシアのお陰でもあるし、ノーラ自身もネメシアの元で不自由しているとか不満があるというのも聞いたことがない。
軽薄そうに見えて、ネメシアは律儀な所があるし彼の元に居るのなら、そう悪いことにはならないだろう。
それは…… 幸せってことなのかな。
そうしたら、私がこれ以上一緒に居たいと思うことは私の我儘なのだろうか。二人の間に私が入る余地なんかなくて、それどころか邪魔にしかならない。
そう考えると、私がキリエに人形を贈りたいと考えるのだって、もしかしたら、私やニトの自己満足なのかもしれない。本当は嬉しくもない物を無理に悦ばせているようで負担になってしまっているのではないだろうか。
「…………」
黙ってカップに満たされている琥珀色の液体を見つめていると、横に居たノーラがクスクスと笑い声を漏らした。
「メユ、我儘を言ってもらえるというのも…… 意外に悪くないものですよ?」
「え?」
知らない内に、考えが漏れていたのかと思って彼女の方へと視線を移すと、彼女は「ピノッキオドリームの看板娘がそんな俯いた顔をしていれば誰でも分かりますよ」と穏やかに笑った。
要は、分かりやすく表情に出ていたという事だろう。単純と言われているようで、なんだか子供扱いされているような気分にもなるので、ちょっとだけ嫌な感じだ。
おまけに、いつもは人に迷惑を掛けないように、て言っている。自分の言葉に責任を持つようにって言っているのに、その言葉には一貫性の欠片もない。
「はははっ、それもそうだね」
矛盾を指摘すると楽しそうにクリエは笑い、紅茶に口を付けて喉を湿らせるとゆっくりと言葉を紡いだ。
「でもね、メユ。我儘を通すのと、人に迷惑を掛けるっていうのは似ているけれど違うんだよ」
クリエがゆっくり、言葉を選ぶように何かを言うときは、とても大事なことを言うときだ。
「我儘と人に迷惑を掛けることは…… 違う?」
「そう。似ているけれど、違うんだ」
言葉を反芻するように繰り返すと、クリエはゆっくりと頷いた。言葉の意味を考えてみる。こういうときのクリエは焦らせずに待っていてくれる代わりに、決して答えを教えてくれることはない。それはノーラも同じで、二人はどんな形であれ、自分で物を考えて答えを出すことを良しとしているからだ。
「……分かんない」
我儘を言ったら言われた人は困ってしまう。困ってしまうというのは、それは人に迷惑が掛かってしまうという事ではないだろうか。
素直に心情を告げると、私のことを労うようにノーラの手が頭の上に乗せられた。
「今はそれで構いませんよ、メユ。貴女にも分かる時が必ず来ます」
チラリとクリエの方を見ると、クリエも微笑を浮かべてノーラの言葉を肯定していた。
「さて…… 調律も終えたことですし、そろそろ私もお暇させて頂きましょうか」
見送りは不要ですよ、と告げてノーラは立ち上がる。
「あのさ、ノーラ」
「どうしたの、メユ」
思わず呼び止めると、ノーラは玄関のドアノブに手を掛けたまま振り返った。
言って良いのだろうか。少し躊躇ったけれど、彼女の優しそうな表情を見てすぐに考えを改める。分からないことは、分からないままにしておかない。
「私さ…… ノーラに、また家に…… ピノッキオドリームに帰ってきて欲しいってずっと思っていて、良いの?」
拒絶されたらどうしようとも思ったけれど、勇気を振り絞って訊いてみる。
すると、一瞬だけノーラは驚いたように目を瞬かせたけれど、すぐにその表情は綻んだ。
「えぇ、その方が私も嬉しいです」
それだけ言い残すと、ノーラは「それじゃ、また来るから」と店を後にした。
ノーラの返事はたった一言だったけど、その一言を聞いた途端に目の前がパッと明るくなって胸の奥が温かくなったような気がした。
飛び跳ねて喜びたい衝動を堪えていると、ポンっと肩にクリエの手が置かれた。なんだろうと思ってクリエの方を見上げると、丁度、私のことを見下ろしているクリエの柔らかな瞳と目があった。
「それじゃ、キリエのための人形作りでもしようか」
「うん」
今の私ならクリエの言葉にも躊躇うことなく頷くことができた。
急いでテーブルの上の紅茶を片付けて、クリエの手を引いて工房の方へと向かった。
「あ、それはそうと、クリエはピノッキオドリームに真剣にお客さんを呼ぶことを考えないと駄目だからね」
「わ、分かっているって」
「本当かなぁ……」
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