仕事と私、どっちが大事

 仕事と私、どっちが大事。妻が夫に言ってはいけない台詞の中でも上位に挙げられる。


「お前が大事だよ」とでもいえば、ならどうして私を優先してくれないのと返される。仕事が大事と答えればいわずもがな。仕事をしないとお前を養えないといったことを説明しても、聞く耳を持ってくれやしない。以前友人に聞いたところによると、無言で抱きしめるのがこの場合の最善手らしい。そんなの分かるか。


 そんな、バ〇スもびっくりの破壊の呪文を帰宅するなり浴びせられた。詠唱者は妻。28歳。結婚3年目。ハネムーンはフランス。


 俺としては誠に心外な発言であり、意外な主張だった。ここ数日残業続きだったことこそ否定しないものの、妻とは毎朝「いってらっしゃいのチュー」をされ「いってきますのチュー」で迎え撃つような微笑ましい関係だ。新婚か。


 3年経っても抜けない初々しさはともかくとして、ここは言ってやらねばなるまい。お前と末永く暮らせるなら無職になってもいいと。むしろ、仕事しないで暮らせるのなら、明日にでもあの太った部長のデスクに辞表を叩きつけてやると。


 俺はそのように言おうとし、思い出した。言う前に踏みとどまった。正確には「おま」まで言って踏みとどまった。そうだ。ここは無言で抱きしめるのが正しいんだった。自分では思いつけない最善手でも、事前に知っていれば難なく選ぶことができる。俺はム〇カとは違うのだ。破壊の呪文にだって打ち勝てる。


 俺は妻を抱きしめた。無言で抱きしめた。強く抱きしめた。22時間ぶりくらいに抱きしめた。


 すると、妻は幸せそうに笑って言った。


「あなたの友人が教えてくれたの。あなたが無言で抱きしめてくれる、魔法の言葉があるよって」

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