6.小柳静香と思い出の場所
今日は土曜日。一人暮らしの学生である俺は、平日にあまり時間が取れないため、一週間の食材は毎週この日にまとめて買うことにしている。人数少ないからあんまり量も多くないしな。
今日は、湿気が多くて蒸し暑いので、そろそろ迎える五月の終わり、梅雨の訪れを強く感じる。そういえば天気予報では夕方から雨だって言ってたな……さっさと買い物を済ませて帰ろう。
スマホのメモを見ながら、買い物かごに食品を入れていく。ひと通り買い物を終え、レジを抜けた先で、珍しい人物を見かけた。
「あ、こんにちは。小柳さん」
「えっ!? あ、遠山君か……こんなところで、どうしたの?」
「それはこっちのセリフだよ。俺がここに居るのは、この辺りに住んでるから。もしかして小柳さんも?」
「私は……『住んでいた』かしらね。つい昨年の末まで……今は隣町で暮らしているの」
「そうか、それで……」
俺がこっちに引っ越してきたのは、今年の三月の終わりだから、小柳さんとは入れ違いに越してきたことになる。そして、小柳さんの言う隣町とは、大学附属病院がある辺りだ。だからその理由もおそらく妹さんの入院だろう。
「今日は……ちょっと気が向いてね。ここに来れば元気なあの子に会えるような気がして」
「……」
「そうだ。この後、この辺りを散歩しようと思うんだけど……来る?」
小柳さんの案内で、俺が現在暮らしている栄玲町を散策することになった。と言っても、紹介されるところはみな小柳さんの妹との思い出の場所である。二人が通った小学校だったり、毎年夏まつりが行われている広場だったりだ。
しばらくして、幼い頃姉妹でよく遊んだという公園のベンチで少し休憩することになった。
「あ、あの鉄棒懐かしい」
幼い頃からこの町で暮らしてきた小柳姉妹にとって、この公園の遊具ひとつひとつにたくさんの思い出が詰まっていた。
「あの鉄棒を使って散々一輪車の練習をしたわね……何度転んで泣いたか覚えてないくらい」
「あのブランコでお店屋さんごっこなんてこともしたっけ……周りの鉄パイプをカウンターに見立ててね……」
「あの子ね、幼稚園の時に家出をしたことがあるの」
「え!?」
俺の反応が面白いのか、小柳さんがクスリと笑う。
「その時、ここに隠れてたのよ」
彼女はそう言って、ベンチの正面にあるタコの形をした滑り台を指さした。
「ほらあそこ。あの滑り台の下のところにね」
「理由は確か……私が小学校にあがって離れ離れになるのが嫌だったから、だったか
しらね。かわいいでしょ? あの日は散々『なんでなんで!』って喚き散らして……お父さんもお母さんもどうにか慰めようとはしたけどダメだった。こればっかりは仕方がないものね。それでうちを飛び出してこんなところに……最終的には私が見つけて『毎日学校でのお話してあげるから、代わりに私に幼稚園でのお話聞かせて? そうしたら一日に二人分楽しめるよ』って言ったら帰ってきてくれたわ。今思えば無茶苦茶な提案だけどね」
そう語る小柳さんの目には以前のようなとげとげしさはなく、優しく、それでいて今にも泣きだしてしまいそうな儚さがあった。
「あー、もう。この話はおしまい! 次行きましょう、次」
「お、おう」
公園から道路を百メートルほどまっすぐ進むと、小柳さん一家が前に住んでいたというアパートにたどり着いた。たどり着いた……のだが、俺はこのアパートに見覚えがあった。それどころか毎日見てるまである。そう……ここはまさに俺が現在暮らしているアパートだったのだ。
「え……ほんとにここ?」
「ええ、そうよ」
「へ、へえー」
このアパートは二階建てで、中央の階段から左右に二部屋ずつ、計八部屋ある。現在使われているのは俺の部屋を含めて三部屋なので、残り五つの部屋が空き部屋となっている計算だ。俺は嫌な予感がして、小柳さんに質問をする。
「それで……どの部屋なんだ?」
「えーと、それは……」
小柳さんが指さしたのは、正面から見て左側、東棟の二階の二部屋のうち、階段により近い部屋……すなわち202号室を指さした。……それはまさしく、現在俺が暮らしている部屋だった。
「……もう入ることはできないけど、玄関の扉の前までは行けるわね」
「え、ちょっと待っ」
小柳さんは俺の声など届いていないように、慣れた足取りでつかつかと階段を登る。
仕方がない、ここはうまく話を合わせてやり過ごそう。別になにかやましいことがあるわけではないが、なぜかここは俺の家だ、と言うのは躊躇われた。
小柳さんは部屋の前に来ると、祈るかのようにそっと目を閉じた。妹のことを思い出しているのだろう。その子が倒れたのも、おそらくこの部屋だ。
「今日はありがとう。私のわがままに付き合ってくれて」
「いいって、着いていくって言ったのは俺だし」
「それもそうね……あら、今は『遠山』って方が入っているのね」
ギクッ
「そう言えば、君は今、この辺りに住んでいるんだったわよね?」
「そ、そうですが……何か?」
「もしかして、ここだったりする?」
「いやまさかー。そんなことあるはずないじゃないですかやだー」
「そうよね……残念」
「残念?」
「もしそうだったら入れてもらおうかなと思ったのよ」
ふう、あぶないあぶない……危うく一人暮らしの男の部屋にJDを連れ込むハメになるところだった。
その時だった、締め切ったはずの玄関の扉から彼女が現れたのは。
「秋斗さん。中にも入らず、何を話し込んでいるのですか?」
***
私、
お姉ちゃんは人気者だった。かわいくて、頭がよくて、運動もできて……お姉ちゃんといないと何もできなかった私なんかよりずっと。
でも、お姉ちゃんは変わってしまった。お姉ちゃんが泣きながら帰って来たあの日から。
その日何があったのか、私は知らない。当時小学生だった私には、中学生の苦労なんてわからなかったし、お姉ちゃんは教えてくれなかった。
それからのお姉ちゃんは何かに憑りつかれたかのように必死で勉強をするようになり、あまり人と関わろうとしなくなった。それでも変わらず私には優しかったし、そんなお姉ちゃんを嫌いになったわけではない。むしろ今のお姉ちゃんのほうが好きとさえ言える。
だが、ときどき見せる寂しそうな表情やわき目もふらずに勉強をする姿は、人気者でいつでも人に囲まれていたお姉ちゃんを知っている私の目には、とても可哀想に見えた。
その本と出会ったのは、高校一年生の冬のことだった。
当時、懐かしい怪談アニメの新シリーズが放送されたこともあり、ホラーやオカルトの類は、私たちのクラスでもそれなりに流行っていた。そのアニメの放送以前からオカルトに詳しかった友達の影響もあり、私は短い期間でどんどんのめりこんでいった。と言っても、ホラーが苦手だった私がやっていたのは、タロットカードを使った相性占いとか、学校帰りの時のちょっとした肝試しとか、その程度だ。だったはずだ。
ある日、私は何気なく寄った古本屋でその本を見つけた。真っ黒の表紙にタイトルは書かれてなく、カバーはボロボロ、中の紙も黄ばんでいて、古ぼけていた。値段は100円(税別)。すぐにでもオカルトに詳しい友人に見せたいと思って購入してしまった。
その夜、パラパラとその本を眺めていると、ふと気になる項目を見つけた。これならお姉ちゃんを救えるかもしれないという淡い期待を抱いて。それでも、あくまでおまじない、ただの気休め、そう思っていた____
「そう……だった。全部……思い出した」
「え?」
ユウちゃんが小柳さんにゆっくりと近づく……
「ごめんなさい……失敗ばかりするダメダメな妹で、ごめんなさい」
しかし、当の小柳静香にはユウちゃんの姿も声も感じられないようで、相変わらず玄関の扉を見つめていた。小柳さんはふと振り返ると、言った。その目は、目の前の幽霊ではなく、その先に居る俺を見ていた。
「ねえ、この前言ってくれたわよね、まだ生きてるって……ムリじゃないって」
「あ、ああ……」
「それで、思ったの。あの子は……あの子の心は、まだここに残っているんじゃないかって、ここに来ればあの子に会えるんじゃないかって……」
ああ、いるよ……今まさに君の目の前に。
「でも、ダメみたいね。そりゃそうだよね、そんなことあるはずないもの」
彼女の目から一筋の涙が流れる。流れ出したそれは、後から後からとめどなく溢れ出した。
「あ、あれ? 私、泣いて……」
小柳さんが涙を拭うが、止まらない。妹さんが倒れてからもうすぐ半年、ずっと我慢してきたのだろう。
「だ、ダメね、私ったら。こんなところあの子が見たら何て言うかしら。失望されちゃうかも」
「そんなわけない!」
その様子を黙って見つめていたユウちゃんが、そっと彼女を抱きしめるように包んだ。幽霊のまとう冷気を感じてか、小柳さんがハッと顔を上げる。
「ゆ、優香っ! そこに……居るの?」
「居るよ、ここに居るよ!」
ユウちゃんが答える。しかし、その声は彼女には届かない。
「お姉ちゃんは優しくて、頭がよくて、かっこよくて……そんなお姉ちゃんのこと、私は大好きだよ?」
「優香、ごめんね。助けてあげられなくて、ごめんね」
「「う、うっ、うわあぁーん」」
決して穏やかじゃない姉妹の合唱は、降り出した雨の音にかき消された。
その晩、俺が風呂からあがった時には、この部屋にユウちゃんの姿はなかった。
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