閑話 築城の人々 2

 築城ついき 一年前


「影さんば見つかったーーー!」


 夫が、帰宅したとたんに、満面の笑みを浮かべてそう言った。


「あのさ、今日は普通に仕事してる日だよね……? なんでそんなことがわかるの? まさか、抜け出して基地に行ってたとか?」


 一体この人は、仕事中になにをしていたんだろうと、怪しみながら尋ねる。


「違う違う! 知り合いのカメラ仲間からん情報ばい! さっきメールが来たと!」


 通勤途中で大騒ぎして、誰かに迷惑をかけてなければ良いんだけれど……。


「たしか影さんて、一年前に築城から消えちゃったって言ってた、パイロットさんだよね。戻ってきたの? 病気かなにかで休んでたとか?」

「そうじゃなくて、違う場所におったと!」

「ってことは、やっぱり転勤してたってわけなんだ?」

「影さん、いま松島まつしまでデッシーしとる! 五番機のデッシーばい! ブラックパンサーから二人目のブルーばい! 影さんすごか! 築城の誇りや! 影さんバンザイ!」


 ……相変わらず、夫の言っていることは理解できないことが多い。これからの夫婦生活のためにも、もっと自衛隊のことを勉強したほうが良いだろうか?


「松島?……それとデッシーて、なに?」

「松島ってのは、宮城みやぎ県の東松島ひがしまつしま市にある空自の松島基地のことばい。で、デッシーいうんは、師匠と弟子のデシのことや。築城から消えたんは、松島でドルフィンライダーになるための訓練ばしとったけんばい。ほれほれ、これ! こん写真ば見てみ!」


 そう言いながら、夫はスマホの画面をタップして私にかざす。そこには青と白の飛行機と、青い帽子をかぶりサングラスをかけたパイロットが何人か写っていて、こっちに向かって笑顔で手を振っていた。だけど残念なことに、私には誰が夫の言う「影さん」なのかわからない。


「どれが影さん?」

「こん人ばい!」


 顔をアップにされても「はあ、そうですか」としか言いようがなかった。だけど、夫がこんなに喜んでいるんだから良しとしよう。


 その日の夫はそれはもう上機嫌だった。なにを言われてもニコニコするだけで、知らない人が見たら、陽気のせいで頭がわいていると思われるのでは?と心配になるぐらいの浮かれぶりだ。


「パパ、めちゃくちゃ嬉しそう。なにかあったと? あ、もしかして臨時ボーナス出たと?」

「なんかね、影さんがいたんだって」

「え、どこに? 影さん、どこにおったと?」


 とたんに娘が目を輝かせて反応した。


「松島基地ばい!」

「松島! ってことは、もしかしてF-2の教官さんになったと?」

「教官じゃなくブルーのデッシーばい!」

「ブルーのデッシー!!! 影さんすごーい!」


 夫のせいで、すっかり影さんは我が家の有名人だ。それまでほとんど興味のなかった娘までもが、影さんのことを知っている。そして今のやり取りからして、すでに私よりも航空自衛隊のことに、詳しくなっているようだった。でも、私だってブルーがなにかぐらいは知っている。


「写真に写っていた青と白の飛行機って、たしかブルーインパルスってやつだよね」

「そうばい」

「ブルーインパルスっていったら、築城の航空祭の時にくるアレだよね。ってことは……」

「その頃には、きっとデビューした影さんが五番機ば乗って飛んでくるーー!」

「影さんの凱旋がいせんーーーー!!」

凱旋がいせんアクローーーー!!」


 とうとう息子までが雄叫びをあげた。ここまで一人のパイロットのことで盛り上がる家族(私をのぞいて)って、他にいるだろうか? 他のカメラ仲間のお宅では、ここまで盛り上がっていないような気がするのだけれど。


 そしてその日から、寝る前にネットをチェックするのが夫の日課になった。松島基地周辺で、写真を撮っている人があげているSNSの写真を見ながら、毎日嬉しそうにニマニマしている。


「あ、これ、影さんだよね?」


 横から一緒に写真をのぞきながら、指をさす。


「そうばい。わかってきたと?」

「こう毎日のように写真を見ていたらさすがにね。ねえ、夏休みに松島基地に写真を撮りに行きたいとか思わないの?」

「宮城県は遠かけんなあ。今はこうやって、全国に散らばっとるカメラ仲間があげる写真を見るだけで満足ばい。写真ば撮るんは、影さんが築城に凱旋がいせんしたときん楽しみにしとく」


 こういう点うちの夫は実に真面目だ。中には、夏冬のボーナスを勝手に望遠レンズに注ぎ込んだあげく、家族をほったらかしにして一人で遠征に出かけ、夫婦で大ゲンカになったという話も耳にする。


「それとちょっと気になってたんだけど、最近の写真、前と雰囲気が違うよね? もしかして、カメラが古くなってきて調子が悪くなってきたんじゃないの? ここ最近は我慢してるんだから、新しいの、そろそろ買っても良いんだよ? もちろん常識範囲でだけど」


 夫いわく、写真のできは機材ではなく、被写体に対する愛によって変わるんだとか。最近の築城基地で飛んでいる戦闘機の写真は、以前と違ってどこかタイミングがずれているようなものばかり。カメラが古くなってきたからか、それともパイロットに対する愛の差なんだろうか。


「今は影さんの叫びがないけんなあ……」

「はい?」

「影さんの〝あっかーん〟がないけん」

「ああ、なるほど」


 そう言えば〝あっかーん〟の〝か〟でシャッターを切るって言っていたような。


「ここ最近は、撮るタイミングが行方不明なっとーたい。はよう影さんに帰ってきてほしかあ……」


 影さん効果、恐るべし……。



+++++



 そしてその年の築城基地航空祭 前日予行


「ママ、はやくーーーー! 早くいかないと予行が始まるーーー!」


 玄関で娘が私を呼んだ。


「ちょっと待ってて。もう、なんで私まで……?」

「だって、影さんが飛ぶん見たかて言うたんはママやん? 今日は自転車やけん、はよう行かな!」

「はいはい。お待たせしました。あれ? パパとお兄ちゃんは?」

「先に行って、場所ばとっとくって」


 今日の私達のお散歩は、築城基地の近くにある土手。数日前から明日の航空祭の予行が行われていて、色々な飛行機が基地上空を飛んでいた。そして今日は、昨日の昼にこっちにやってきた、ブルーインパルスの予行がある日なのだ。昨日から警察が巡回して、集まってきたマニアの違法駐車の取締りをしているという情報なので、私達は自転車でいくことにしたのだった。


 私達が土手に到着したころには、想像以上にたくさんのカメラを持った人が集まっていた。


「パパ、お待たせ!」

「自転車は置いてきたと?」

「うん。お買い物に寄るからってお願いして、いつものスーパーに置かせてもらった。パパ達は?」

「いつもの友達んとこ。そろそろテイクオフの時間ばい」


 無線機のイヤホンを耳に突っ込んでいた夫が言った。その周囲の人達も、手に高そうな望遠付きのカメラを持って基地のほうを見ている。


「ううううっ」


 急に夫が嗚咽おえつをもらした。


「どうしたん?」

「影さん、相変わらず愚痴りながら離陸準備してる……影さん、ブルーに行ってもなんも変わっとらんかった、嬉しすぎる」


 無線を聞きながら涙目になっている夫。他の人に見られでもしたら、変な人と思われるのではと慌てて周囲を見回して、そのまま固まってしまった。なぜか夫と同じようにむせび泣いている人がいる。しかも何人も。


「もしかして、泣いている人は皆、影さんのファン?」

「かも。パパ、そんな泣いとったら影さんのドルフィン、撮れんよ?」

「わかっとー」


 しばらくして轟音が響き渡り、白い飛行機が飛び立った。全部で六機。ブルーインパルスの機体だ。


「課目は第一区分の通しみたいや。皆、準備はよかか? 二年ぶりの影さんの飛行や、しっかりカメラにおさめるぞ!」


 無線を聞いていた年輩の人がそう言うと、周囲の人達がいっせいに望遠レンズ付きのカメラを空に向けた。白いスモークをひいて、アクロバットをしながら空を飛び続ける六機の飛行機。尾翼に「5」とペイントされているのが頭上を通り過ぎるたびに、あちらこちらから連写するシャッター音が響き渡った。


「タイミングも〝あっかーん〟の〝か〟のままや。さすが影さん、なんも変わってなくて安心したー!」


 似たような言葉があっちこっちであがる。前に見せてもらった動画の通りなら、きっとにぎやかな関西弁で叫んでいるに違いない。


「……ママも無線機買おうかな」

「マジ?!」


 息子と娘が目を丸くした。


「だって、影さんの叫びを聞きながら飛ぶのを見るのって、楽しそうじゃない? パパだけ影さんの叫びが聞けるなんてずるい」

「明日の航空祭のためだけに買うとか」

「来月には芦屋あしや航空祭もあるじゃない」

「マジか……」

「それに、影さんがブルーを卒業して築城に帰ってきたら、しょっちゅう聞けるじゃない?」

「パパ、ママが無線沼にはまった……」


 娘が夫の服のすそをツンツンと引っ張る。


「ようこそ、沼へ」


 夫はチラッと振り返って笑うと、再び影さんの写真撮影に戻った。

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