シバザクラのせい


~ 四月八日(日)A.M. あの日あの時この場所で ~


   シバザクラの花言葉  燃える恋



 かぐわしくもほろ苦い湯気が鼻先をくすぐる。

 夜明けのコーヒー、か。

 こんなものが似合う男になったことを、故郷の母はどう感じているのだろう。


 ビルとビルが、互いのバッファーゾーンを主張するかの如く強引に作り上げた狭苦しい境界線。

 その刃のような狭間から、旭光きょっこうが姿を現す。

 未だ開き切らない瞳をさらに細めさせる眩しさに、目覚めを強要されるのも癪だ。

 俺は熱い褐色を胃に流し込むと、能動による覚醒を強引に手に入れた。


 まったく、じゃじゃ馬のような女だった。

 君のせいでろくに眠れやしなかった。


 未だにけだるさの残る体に、ため息一つ。

 すると、一晩中俺の名を呼び続けた熱い声が、どこか遠くから再び聞こえた気がした……。



「みちこ! 今度はどこに隠れやがった!」



 ……気のせいじゃなかった。

 休憩おしまい。逃げなきゃ。


 しかし、ひどい話だ。

 黒ずくめに追われている間、そりゃあ思ったさ。

 追いかけてくるのが怖い怖いおっさんじゃなくて、綺麗なお姉さんだったらいいのになって。


 そんな願いの具現化。

 俺を一晩中、不眠不休で追いまわしたのは、怖い怖い綺麗なお姉さん。


 惜しい。

 俺が要求した綺麗なお姉さんに、ひとつ余計な形容詞が付いている。

 もうちょっと頑張れるはずだから、次は期待していますね、神様。



「くそっ! こっちの路地か?」



 早朝だというのに、アスファルトを噛むタイヤの騒音が右へ左へ駆け抜ける。

 でも、それを上書いて余りあるハスキーなファルセット。


 東京、怖い。

 ドラマの中だけの作り物だと思ってた。

 ……まさか、警察と武器商人がグルなんて。


 頼れるのは自分の知恵と、この両足だけ。

 俺は缶コーヒーの空き缶を慎重にゴミ箱へ落とし、狭い路地からするりと大通りへ躍り出た。

 目立つことになるが、接近されてからでは遅い。

 たった一晩で掴んだ逃走のノウハウに従って、俺は比較的ゆっくり、自然な速さで南を目指す。



 品川駅。

 十二時ちょうど。



 その約束だけが、俺の心を支える柱。


 残すところ数時間。

 何とか逃げ切って二人と共に東京を抜け出すんだ。



 ……そんな都会の鬼ごっこ。

 一見粗野な体力勝負のようだが、実は高度な頭脳戦だった。


 いかに相手の動きを読むことが出来るか。

 そんな戦いにおいて、短絡的なゆうさんの動きは読みやすい。

 そう感じ始めて、コーヒーブレイクを手にするほど慢心していた俺に、手痛いリーチがかけられる。


 後方、かなりの近距離から剣呑な足音が大通りに飛び出したのだ。


「ウソだろ!?」

「ははっ! パターンが掴めてきたぜ!」


 刹那、二人はスロットルをマックスからミリタリーへ叩き込む。

 足元から火花が飛び散りそうなほどの急加速に、置いて行かれそうになった上半身が懸命に前へ倒れる。


 だが、追う者も追われる者も、疲労の色が濃い。

 目の前を走るジョガーと変わらぬ速度とか、フルスロットルが聞いて呆れる。


 それでも俺にしてみれば必死の走り。

 ゆうさんも、喘ぎながらガツガツと安全靴のつま先を鳴らす。


 ……必死の逃走劇に視界も狭まる。

 だが狭く切り取られた視線の先に、予想外のものが飛び込んできたせいで思わず足を止めそうになった。


 安らぎを求める心が生んだ幻想か。

 軽い色に染めたゆるふわロング髪にシバザクラを植えたその姿は。


「まさか……、こんなところで何をしてるんだ! 逃げろ!」


 大通り同士がクロスする巨大な交差点。

 穂咲との間に横たわる三途の川はレッドシグナル。


 俺の中の女々しさが、悲壮な声で泣き叫ぶ。

 俺の中の男らしさは、ほっと胸をなでおろす。


 すぐにでもその手を取りたい。

 だが、このままゆうさんを穂咲の方へ向かわせたらすべてが終わる。


 俺は最高の撒き餌をちらつかせるために、足首を痛めたそぶりを見せつつ十字路を曲がって走り続ける。


 すると穂咲も、おばさんを伴って。

 大通りを挟んで、俺に並ぶように走りながら何かを叫ぶ。


 ……だが、自らの荒い呼吸と都会のノイズが邪魔をする。


 届かない。

 君の声が届かない。


 地元じゃ、こんな距離で大声を上げたらうるさいほどなのに。

 この土地は何が何でも俺たちを拒絶する気なのか。


「聞こえない! もう一度!」

「……なの! おもちゃなの!」


 繰り返される穂咲の声は、確かにその単語を俺に伝えている。

 おもちゃ? なんの暗号だ?


 だが、これ以上の情報を得ることはできなかった。

 穂咲とおばさんが、俺たちの速度についてくることなどできなかったのだ。


 改めて後方へ神経を注げば、ゆうさんの吐息が噛み付かんばかりに迫っていることに気が付いた。

 俺は二人と離れることに後ろ髪をひかれつつも、両足に燃料を投下した。


 これは六時間目に立たされている時と同じ心境。

 最後の最後、ここを乗り切れば終わる。

 そして穂咲の調理道具バッグを担いで、他愛のない話をしながら校舎を出るんだ。


 ……俺は、家に帰るんだ。


 まるで故郷へ向けて走り続ける心地で、罵声を浴びせてくるゆうさんを振り切った。



 ~🌹~🌹~🌹~



 警察が敵だと知った時から、東京の何もかもを信じることができなくなった。

 昨日から携帯の電源も切って、誰にも頼ることなく逃げ続けている。

 そのせいで電車やタクシーすら使うことができなくなった俺に残された手段。


 走って、走って。

 自分の足で、品川駅へ辿り着くこと。


 疲労より、眠気より、とにかく足の痛みが尋常じゃない。

 膝から、すねに走る骨が飛び出してきそうな感覚。


 ここから逃げ出すことが出来たら、もっと鍛えなければ。

 俺は新学期の目標として、倍の時間立たされることを決意した。


「…………ここか?」


 あえぐ俺の目が、ようやく捉えた品川の駅。


 だが、そこへ向かう角に見えるのは交番だ。


 時刻は十一時五十五分。

 迷っている暇はない。


 慌てず、しかし早歩きで。

 乾いた喉がありもしない唾液を飲み、それが無意識に繰り返される。


 バレるだろうか。

 せめてもう少しだけ呼吸が落ち着くのを待った方がいいのだろうか。


 焦る気持ちと緊張感とで心臓を爆弾のようにさせながら、制服警官の前を俯き加減に通り抜けると。


「ちょっと君、止まりなさい」


 ……その一言に、今度は心臓が一気に収縮することになる。


 どうする?

 いや、選択肢なんか一つしかない!


 俺は、左肩にかけられた手を振りほどくと、目の前に見えた自動改札を強引に突破した。


 犯罪者を追う視線が渦を巻く。

 そんな中で、俺は事前に調べておいたホームのナンバーだけを頼りに階段を駆けあがる。


 最後の最後で、なんてことだ。

 幾人もの肩を突き飛ばし、恐怖のために流れる涙を拭いもせずにたどり着いたホーム。



 ……だがそこに、俺の求める姿をすぐに見つけることはできなかった。

 溢れかえる人の群れが、いや、東京そのものがここでも俺の邪魔をする。


 涙に滲む視界。

 折れてしまいそうな足。

 今にも爆発しそうな心臓。


 そんな状態で、おばさんを穂咲を、いったいどうやって見つけ出そう。


「……穂咲……」


 震える鼻声が、どこからか聞こえる。

 それが俺の声だと理解することも出来ずに、俺はふらふらと東京をかきわけてホームを進む。


 あの、優しいタレ目に会いたい。

 そばにいて欲しい。


 でも、想像の中の穂咲は寂しそうな表情で。

 まるで今朝、大通りを挟んで叫び続けていた時のような表情で俺を見つめる。


 お前、それは無いだろう。

 せめて記憶の中でくらい。

 優しく微笑んではくれないだろうか。


 ひょっとすると、これが俺にとって。

 最後に思い描く、君の姿になるのかもしれないのだから。



 ……いや、待て。

 今朝?



「そうか! おもちゃだ!」


 俺はポケットから、手のひらに収まるリモコンのようなものを取り出した。


 ……君は、俺にこれを教えようとしてくれたのか。


 最後の希望。

 万感の想いと共に、俺は穂咲探知機のスイッチをぐっと押し込んだ。




 ………………………………。



 ………………………………。



 ………………………………。





 ぴろりろ、ぴろりろ





「やった! 穂咲! 穂咲ーーー!」


 メロディーが聞こえてきたのは、柱の向こうから。

 そしてふわりと揺れるのは、今朝、遠目に見止めたシバザクラ。


 俺が飛びかかるように柱へ向かうと同時に、運命の電車がホームへ滑り込む。


 ああ、やっとここから脱出できるんだ。

 この恐怖から解放されるんだ。


 轟音と風圧に背を押されながら、手を大きく前へ伸ばす。

 柱の先へ、明日の平穏を掴むために伸ばしていく。



 ……だが、俺の手首を掴んだのは。


 恐怖の象徴である、迷彩模様の腕だった。



「……てめえ。さんっざんオレを振り回しやがって」

「あ…………、あああ…………」


 柱の陰から姿を現す悪魔。

 声にならない声が喉から絞り出される。

 再びあふれる涙が、俺から光を奪う。


 ゆうさんの後ろには、穂咲とおばさんの姿。

 その周りを固める黒ずくめたち。


 君たちは、既に捕まっていたのか。

 もう何もかも終わりだ。


 痛みに痺れるほどの握力で掴まれた手首だけを残して、俺はその場に崩れ落ちた。


 このホームで、この電車。

 俺は再び、ゆうさんの手によって搭乗を阻止されるというのか。



 ……だが、その時流れた発車を知らせるアナウンスが、俺の中に眠る最後の想いを目覚めさせたのだ。


 この身に代えてでも、絶対に守るんだ!



「うおおおおおおおおおおおお!!!!!」



 鞄を振り回し、ゆうさんの顔面に投げつける。

 そして彼女が顔を庇ったことにより視界を失うタイミングを逃さず、迷彩柄のどてっぱらにキックを叩き込んだ。


 たまらず俺の腕を放して地面にお尻から落ちるゆうさん。

 俺はそんな彼女をまたいで、穂咲とおばさんの腕を引く。

 そして閉まりかけた電車のドアへ向けて、二人を強引に放り込んだ。



 ……ちょうど、あの時と逆だ。



 穂咲が俺の手を引いて電車へ投げ込んだあの時と、まるで逆になった。

 そして、結末もあの時とは違う。


 閉じた扉が、再び開くようなことは無く。

 俺の想いを乗せた電車はゆっくりと走り出し、ホームを後にした。



 いまごろ二人は、泣いているのだろうか。

 叫んでいるのだろうか。


 だが、本当の意味で二人を救うには。

 俺がもうひと頑張りする必要がある。


 絶対零度の炎を巻き上げて、奥歯をバキリと鳴らす憤怒の化身。

 この人に、手を出させないようにしなければ。


「…………お願いだ。あの二人には、危害を加えないで欲しい。……俺は、どうなっても構わない」


 俺自身の全て。

 これしか払えやしない。


 だが果たして、そんなちっぽけなものがこの武器商人に通用するのだろうか。

 彼女の冷たい扉をこじ開けることが出来るのか。


 吹雪にも似た溜息が、大きく吐き出される。

 そしてゆうさんは……。



 想像だにしなかった言葉を、俺に浴びせた。



「はなからそのつもりだ。てめえをいただくぜ。……みちこ、てめえは、あいつらに売られたんだからな」

「…………なんだって?」

「バカな男だな、まだ分からねえのか? てめえは、はしたカネで、オレに売られたんだよ」

「売られた……? 俺が、売られた?」


 言葉の意味が理解できない。

 いや、そうではない。



 理解しようとすることを、心が拒絶している。



 東京が引き下ろす舞台の幕の裏。

 そこでほくそ笑む黒幕の姿を思い浮かべながら。


 一人、何も知らずに逃げ続けたピエロは。

 天を仰いで、膝から崩れ落ちたのだった……。


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