クロッカスのせい
~ 四月七日(土)A.M. 他がために ~
クロッカスの花言葉 私を信じて下さい
知らない道は、山を切り開きながらその幅を徐々に狭める。
ヘッドライトが舐めるガードレールの白い反射もまばらにしか現れず、剥き出しの木々がその腹を晒して、こうつぶやく。
「ここは既に、道ではないぞ」
タイヤに弾かれた砂利が足下をかんと鳴らす度、薄い鉄の板一枚がもしも抜けたら、俺はこの車から弾き飛ばされ、奈落へと落ちてしまうのかとバカな空想をしてしまうのだ。
だが、このままここにいたところで、俺の未来が明るいなどということは無い。
座して運命を受け入れるか。
逃げ出して地獄を見るのか。
思い出すのは、四十時間ほど前の事。
あるいはあの時、大人しく掴まっていたなら。
こんなに思い悩むことは無かったのだろうか。
深夜、人知れず走る車の行く先に、何が待っているのだろう。
俺は考えることをやめて、疲れ果てた体を休めようとする本能の赴くままに瞳を閉じた。
願わくば、再びこれを開いたその時に。
すべてが無かったことになっていればいい。
ありもしない夢をみること。
それだけが、俺に残された最後の自由だった。
~🌹~🌹~🌹~
四月七日の東京は雨模様。
一晩悩み抜いて出した結論に納得がいかない、そんな俺たちの心情を映し込んでいるようだった。
バス停に植えられたクロッカスが、久しぶりの雨を待ちわびて背を伸ばす様も、今の俺に感動を与えることは無い。
これを警察へ届けて、すべて終わらせるんだ。
他生どころか、袖を振れ合わせたばかりか。
意地悪とは言え、あんなに触れ合ったゆうさん。
そんな彼女を裏切るような結論。
でも、俺たちが庇うには荷が勝つと判断したおばさんの意見に、俺も穂咲も、無言で肯定を表すしかなかった。
「一雨ありそうね」
そう呟くおばさんの表情は、落ち着いていた。
否、無理をして冷めた態度を取っているのだろう。
俺は自分にそう言い聞かせ、この地における信じるべきこの人を、妄信することにした。
まだ四月に入ったばかりだというのに、夏日を記録した東京。
今日は気温が少し下がったとはいえ、風は湿度を携えて俺の足へ絡みつく。
歩みが弾むはずもない。
それもこれも、俺と穂咲が抱える小さなアタッシェケースのせいだ。
穂咲は、万が一に備えてスニーカーに七分丈のデニムという姿。
おばさんも軽装だ。
大きな旅行鞄はコンビニから宅配の手続きをして、今夜は手ぶらでホテルにでも泊まろうかという話になっている。
まあ、ホテルへ行けるかどうかは警察での取り調べ次第ということになりそうだが。
「……明日、何時の電車だったっけ」
早くこの地から逃げ出したい。
そんな思いから口をついた言葉。
おばさんが背中越しに、いつものトーンで答える。
「品川駅を十二時よ」
「それ……、あの時と同じ電車?」
ゆうさんに腕を引かれたあの時も。
きっと同じ電車に乗ったはずで。
思わず聞いてしまって後悔したが、覆水が戻るはずもなく。
おばさんは、ただかぶりを振って、それを返事の代わりにするのだった。
……そんな時、ようやく背後にオレンジ色の車体を見つけた俺が手をあげる。
ウインカーと共に車線を変えたタクシーは、街路樹に阻まれた俺たちを置いて随分先で停車し、後部座席の扉を音もなく開いてくれた。
どうしてだろう、車に乗ることが出来ると思っただけで心が平穏になるものだ。
俺は人知れずほっと息をついたのだが、その直後。
にわかに振動した携帯に、文字通り飛び上がることになった。
「……ゆうさんだ」
昨日、ゆうさんは俺に気付かなかったようだけど。
大金を渡した人にしてみれば、花を活けた女性という特徴はあまりにも特異で。
それを聞いて穂咲を想像したゆうさんが、拳銃を渡した相手が俺だと推測するのは簡単だ。
だから、既に十数回の着信が届いているのだが。
それに出ないという行為は、俺たちがお金と銃を持っているという事を証明しているようなものだった。
携帯の画面を見つめる俺に、複雑な感情がぶつけられる。
顔を上げると、最後の最後まで彼女を信じたいと主張していた優しい瞳が待っていた。
穂咲の生き方は、俺も尊敬していて。
例え自分が傷つくことになろうとも、最後まで人を信じ抜く優しさは素晴らしいものだ。
今回の事件はあまりにも闇が大きすぎて、さすがの君も涙を呑んで諦めてしまったけど。
……実は、一つだけ。
ベストな解答ではないけれど。
ベターですらないけれど。
それでも、最悪だけは救う方法があるんだ。
俺は決意と共に、穂咲に見つめられたまま、携帯の画面に指を滑らせた。
『……やっと出やがったな、みちこ。いいか、落ち着いて聞け。てめえらがくすねたブツは……』
「ゆうさん。俺たち、これから警察に行きます。だから、できればその前に、自首してはもらえないでしょうか」
携帯から漏れる落ち着いた声音を遮って。
俺が、きっと生涯二度と口にしないような言葉を投げかけると。
「いいからそれを返しやがれ!」
……ゆうさんのハスキーな叫び声が。
携帯と、そして背後から、同時に響き渡った。
「どうしてここが分かった!?」
百メートル程離れた所には、不穏な黒ずくめの男たちを侍らせたゆうさんの迷彩ジャケット。
それが携帯を握りしめながら、速く大きな歩幅で近付いてくる。
一瞬慌てたが、不安げに俺のパーカーを握る穂咲と目が合うと、途端に心のさざ波が消えた。
やれやれ、君というヤツは。
どうして俺にお兄さんであることを強要するのか。
覚悟は決まった。
穂咲を守るために。
……ここは、コールのタイミングじゃあない。
守るために、攻めよう。
俺は、掛け金を跳ね上げた。
二人をタクシーへ押し込むと、自らは囮となって駆け出すことを選択したのだ。
運動は苦手だけど。
足腰の耐久力なら毎日鍛え上げてきた自負がある!
シグナルが青に変わる前に駆け出した俺を、長い横断歩道の半ばでタクシーが追い抜いていく。
その車窓から、穂咲が俺に叫び声を残す。
おいおい、気合いが入るじゃないか。
五月の体育祭でも、走る俺にそれくらい必死な声援をかけてくれよ。
後ろを振り返る余裕などない。
だが、確実に気配を感じる。
着火点を越えて爆発した感情が、背後から迫る。
俺は駅の方、繁華街へ向かってひたすらに駆けて行った。
だが穂咲たちと同じ方向へ逃げるでは意味がない。
ビルとビルの狭間、狭い路地を見かけた俺は、そこへ滑り込んだ。
この路地は、穂咲がノラ猫を追いかけて潜り込んだ経緯があって、ビルとビルの狭間をジグザグに縫って反対側へ抜けることが出来るのだ。
重たい鞄を持っている分、圧倒的に不利。
知恵を使わないと。
だが、ちょうど路地を曲がった正面。
路地を塞ぐように、高校生たちがたむろしていた。
一瞬、選択を誤ったかと思ったが、瞬時に俺は、彼らの風貌から判断した。
……彼らは、使える。
俺は、小型の金属ケースを高々と掲げ。
自分の中に眠る、精いっぱいの中二を引っ張り出して叫んだ。
「俺は! アイツにこれを届けるまで、組織のヤツらに掴まるわけにはいかないんだ! ちょっと強引に通らせてもらうぜ!」
演出過剰が効果てきめん。
まるでモーゼが割った海のよう。
チェックのネルシャツをパンツにきっちり押し込んだ四人組は、目を輝かせながら俺を見上げて、そして狭い通路の壁に、背をぴたっと付けて立ってくれた。
俺は急ぎのカニ歩きで彼らの前を通り過ぎ、そして振り向きざまに。
「……アイツに会えたら、必ず伝えよう。俺はこの東の地で、最高の友に出会えたってな!」
そしてサムアップ。
「いたぞ!」
「どけ! お前ら!」
丁度そのとき、俺が悪役に仕立て上げた黒ずくめが路地へ殺到する。
すると、この一瞬で正義側のキャストと化した四人組が、予想以上の動きを見せてくれたのだ。
「ここは通さぬぞ! 僕たちを舐めないでいただきたい!」
「さあ、君は早く行くのです! ここは拙者たちにお任せあれ!」
「俺に構わず、先へ行け!」
「ああっ! ヨッシー殿、そのセリフはずるいでござる!」
にわか自警団の皆さんが黒ずくめともめている間に俺は駆け出した。
これで時間を稼げる。
ありがとう! 兄弟!
…………もう、こう言うしかないよね。
俺は申し訳ない気持ちを胸に抱きつつ、路地を抜けて大通りを駆け続ける。
そして逃げながら、身を隠すのに最適な場所を思い付いた。
うまくいけば、助けになってくれるかもしれない。
俺は携帯で地図を確認すると、その地を目指して既に悲鳴を上げ始めた両足に鞭を打った。
そんな俺の鼻先を、桜の花びらがかすめる。
四月の風は未だ俺に味方するのか決めかねて。
ただ、暗雲を東京に寄せ集め、敵に回る準備を着々と進めていたのだった。
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