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少し、疲れてきましたか? 他人の夢の話など興味を抱きにくいでしょうか。
でも、もう少しだけ、お付き合いくださいますか。ここからが面白いところ…とは言い切れないのが少々残念ですが。
先にお話しした「繰り返す夢」は、その後頻繁に見ることはありませんでしたが、以前にもまして『現』に近くなっていきました。『現』に近づけば近づくほど、昔のような突拍子の無い空想的な事象は減っていきましたが、所謂「正夢」というものを頻繁に体験するようになったのです。
その日受ける予定の講義の内容、同じ専攻クラスの友人の言葉、大学から帰った後の母の作る夕食。その対象は多岐に渡り、その頃の私はまるでどこぞの占い師だか預言者になったような気分でした。とはいえ、それを誰かに伝えることもなく、ただ「こんなことが起こるかもしれない」といった心構えを準備する程度に頭の片隅に留めておくだけでした。
しかし、私にその
そのことに特に寂しさも嬉しさも感じなかった私は、ただ次に見る夢のことを考えていました。
「正夢」も「繰り返し」も見た。ならば次は何のか、と。
もしかしたらこれを最後に、また昔のような可笑しくも夢のある『夢』を見ることができるのではないかと、ほんの少しの期待も持っていました。
…こういう言い方をしてしまっては恐らく予想がつくでしょうね。当然、そんなものは戻ってきませんでした。次にやってきたのは…何と言ったらいいでしょか、しっくりくる表現が見当たりませんが、とりあえず便宜上「あちら側」と言っておきましょう。
ああ、そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。「あちら側」と言うのは決して「死後の世界」とか「あの世」とか、そういうものではありませんから。
その夢の始まりは、またしても私の部屋からです。
この夢が、これからのお話しするものの部類なのか、それとも以前のものなのか。正直なところ判断しにくいところがあるのですが、悩んだ末、こちらだろうということで、お話しさせていただきます。
私が実家暮らしなのは既にお話ししていますね。私は目覚ましをかけて就寝するのですが、その日はどうにも起きられなかったのです。そんな時は母が
昨晩の天気予報通り少し曇ったその日の朝は、私の部屋に入る光までもが灰色で、全てが埃を被ったように濁った色をしていました。
天気の悪い日はどうにもやる気が起きない。あなたはいかがです? 私は…全くです。
ですので、その日はなかなかベッドから出る気になれなかったのですが、これも先に話したように大学での講義があるため、渋々布団を退けて起き上がろうとした、その時です。
私の視界の端に、黒いものが見えたのは。
黒いもの…自然と虫を想像してしまった私はぎくりと体を強張らせ、ベッドから降りられなくなってしまいました。黒いものの正体を知るべく、目だけでそこを見やったのですが…何もいなかったのです。
代わりに目に飛び込んできたものがありました。
ベッドの向かいに置いてある本棚の頭、天井近くの角から、黒い液体? のようなものが、ドロリ…と。
少し粘着質なそれは、質量のある黒い内部を持ちながらその表面は
私は言葉を失いました。
白と茶色を主体に配色された自室に、あんな気味の悪い色をしたモノなど当然存在しません。天井から漏れ出ているわけではなく、どうやら本棚の上から広がっているように見えました。というのも、本棚上部に接している天井へとつながる壁を、あのオイルのようなものが這い上がっていくからです。
重力を無視して、音もたてずに、ずるずると広がっていく
壁も窓も机も椅子も、どんどん飲み込まれていきました。
下の階から私を呼ぶ母の声が聞こえます。
返事をしたい。けど喉が引き攣れて声が出せない。
金縛りにあったみたいに動かない体のかわりに、目だけは自由に動き、壁や天井を伝ってこちらに近づいてくるオイルのようなモノをじっと見ていました。
逃げたいのに逃げられない。助けを求めることもできない。
久しく忘れていた「夢から逃げる」というのを思い出しました。
今こそが逃げるべき時。こんなに怖い思いをするのなら、我慢せずに離れてしまえばいい。過去の経験から、私は『夢』から逃れる方法を知っていました。
きつく目を瞑り、「私の部屋」と「起きる私」を頭に強く描くこと。そうすれば、私は『夢』を離れて『現』に戻ることができるのです。
忘れかけていたそれを、私は実行しました。
ぎゅっと目を瞑り、いつもの朝を思い浮かべて。
次に目を開ければ「本当の朝」が在る。
これでもう怖い思いをしないで済む、そう思ったのに。
再び目を開けて見えた景色は。
先ほどと変わらない、いえ…先ほどよりも
ああ、もう逃げられない。
これは『夢』はずなのに、見える全てがあまりにもリアルで。オイルのようなそれに覆われた本棚が、ぐにゃりと蝋のようにその形を歪ませているというのに。これは本当に「本当」なのではないかと、そう思ってしまったのです。
黒く塗りつぶされたものたちが、どんどんと元の形を失い溶けていく。
すぐそこまで迫っている。
私の横たわる、ベッドの縁まで。
シーツを伝って私の足を、腕を、背中を、腹を、胸を、頭を。
全部、全部、全部全部全部!
飲み込んで、隙間など無い程に広がり
早く起きて、と。
母が私の部屋まで来て、声をかけた途端に。
全てが、戻ったのです。
今までにない程、心臓は激しく動いていました。
さっきまでこの空間を犯していた、
『夢』だと思うのが当然なのに、あまりの生々しさにそう結論付けることを脳が拒否していました。けれども、どう考えてもあれが『夢』なのです。あなたにそう思うでしょう? あれだけの異常な世界が『現』であるはずがない。
私は夢を見ていたのです。そうに決まっている。
私は無理矢理そう思い込み、ベッドを下りました。
大学に行かなければ、そう思う事にこれほど全力を尽くすことも、そうないでしょう。
着替えを持って、部屋の扉を開けて階段を下りようと廊下に出た時。
視界の端に映った私の部屋の中に、ほんの一瞬だけ。
黒いものが家具に隙間に、消えたのです。
さて、ここから時は少し先へと進みます。私が大学を卒業し、ある企業に就職して社会人となった年のことです。
大学生の時に見た「黒いもの」は、それから二度と私のもとへはやってきませんでした。
しかし、『現』の描写はその時を境に非常にリアルに、また密になっていきました。これまでに見ていた「正夢」の世界など、可愛いものです。今思えば、それほど現実味は無かったのかもしれません。とてもよく似ているだけだったのかも。そう思うほどに、私が見ている『夢』は『現』にとても近くなりました。
企業に就職してからは、自宅だけでなくその企業の中での夢も見るようになりました。ほら、「夢の中でも仕事した」とかいう話を聞いたことはありませんか。昨日の残り業務を夢の中でしていた、とか。まさに、それですよ。私もよく夢の中で働きました。というより、ほぼ毎日働く夢を見ていたかもしれません。
…社会人って大変なんですよ、本当に。働いてらっしゃるお父様やお母様のことは、ちゃんと労わって差し上げて下さいね。
まあ、ともかく。その頃の私の夢は専ら「仕事」に関することになったのです。
そんな中でも、ごくたまに、「仕事」以外の夢も見続けていました。
休日の昼間のことでした。
連日続く繁忙期の波にのまれ、休日出勤ばかりしていたその時期に、やっと落ち着いて休める日を設けることができた。そんな日です。
毎日毎日残業続き、朝から晩まで働き詰めだった私の体は、自分で意識せずとも休息を求めていることが分かるほど疲れ切っていました。たまの休みを家でゴロゴロしているだけなんて勿体ないと思いますか? どこかに出かけたいと思っても、その余裕さえなくなることもあるのですよ。
そんなわけで、私はまだ日の高い真っ昼間から惰眠を貪っておりました。
確かまだ寒い時期でしたから、リビングには
昼食を終えた後の昼下がりの眠気とは凄まじく、疲れを溜め込んだ体にはそれに抗うだけの体力も精神力も残ってはおりません。
そしてその眠気に逆らわずにそのまま眠りこけることの、なんと気持ち良いこと。控えめに言って、極上の心地良さです。経験のある方はわかりますよね。まだ経験したことが無い方も、まあいずれわかりますよ。
…話が脱線しすぎでしょうか。ちゃんと進路修正して先をお話ししましょう。
いろいろ余計なことを話してしまいましたが、ともかくその日は最高に気持ちのいいお昼寝をしていたんです。
これといった夢を見ることもなく…正しくは「憶えていない」でしょうかね、静かな気持ちで眠っていました。
ここしばらく悩まされていた、疲れがたまるだけの夢も見ない。久々の休息を存分に堪能していました。
ふと一瞬意識が浮上し、うっすらと目を開けたとき、見えたのは天井でした。つまり私は仰向けに寝ていたということです。それ自体は特に何の問題もないのですが、ひとつ気になることがありました。
少しだけ見える視界の右端に、人影が見えたのです。
寝ぼけ頭でとらえた視界はぼんやりとして、あまり確実性は高くないのですが、どう見ても人がいるように思えたのです。
私以外にある人間といえば母だけですが、どうも母のようには見えません。というのも、見える真っ黒に塗りつぶされた人影は、何故だか私の視界に入るぎりぎりのところから、仰向けに寝ている私を見下ろしているように思えたからです。
その影は決して喋らず、ただじっと私を見下ろしていました。
真っ黒に塗りつぶされたように見えたのに、何故見下ろしていると思ったのか疑問に思いますか。それは不思議なことに、目だけは、はっきりと見えていたのです。
私を見下ろす、真っ黒の目が。
その目に白い部分はありませんでしたが、確かにそれは「目」でした。
誰だ、と。寝ぼけた頭でも、そう思うことはできたようです。
少し頭を動かして壁にかかった時計を見ました。もう少しで十五時となるあたり。昼食後に寝てから二時間弱、といったところでしょう。
頭を動かしたついでに、人影の方を見ました。
しっかりと視界に収めてその姿をしかと見るべく…と思ってのですが。
私が完全にそちらを向いた時には、人影はきれいさっぱり、いなくなってしまったのです。
おや、と思ったものの、まだ眠気が残っていた私は、それ深くは追わず再び眠りの海へと沈もうとした時。
左の目の端に、黒いものが見えたのです。
瞼の影か何かだろうと思ったのは最初だけ。その黒いものは、ひとつの塊ではなく幾筋もの細い長いものが集まったものでした。そう、まるで
私は唐突に気づきました。
さっき私を見下ろしていたものが、今は
その時でした。
髪の毛のような影が見えた方…左の肩に鈍い痛みが走ったのです。
まるで大きな歯でぎりぎりと噛みつかれているような、そんな痛みが。
体を捩っても、食い込む歯は外れることなく更に私の肩の肉の奥深くまで入ってきました。
痛い。痛くてたまらない。
『夢』で痛みを感じることなど、今までになかった。苦しいとか辛いとか、そういったものはあっても痛覚への刺激は初めてでした。
硬い歯が、どんどん肩の肉に食い込むのを感じる。食い込む歯に皮膚が引き攣り、ぷちぷちと少しずつ皮膚が千切れていくのを感じる。
なぜこんな苦痛を与えられなければいけないのか。私はただゆっくりと眠りたいだけなのに。
そんなささやかな願いも聞き入れられることはなく、限界まで引き攣れた肩の皮膚は決定的な亀裂を作り、湿った音と引き千切れる音が耳元で聞こえて、激痛で体が大きく跳ね上がって―。
どくどくとした鈍痛が残る左肩が、さっきまでのあれがただの『夢』で済ませてはいけないと訴えているようでした。
眠気など、とっくにどこかへ消えてしまっていた私はその後に寝直すことはなく、気を紛らわせるために読みかけだった小説に意識を集中させ、何も考えないように努めました。
その夜、風呂場にある鏡を見るその時まで、日中の出来事を思い出すことはありませんでした。
鏡に映った私の左肩に、赤い半円を描いたような、鬱血の跡を見るまでは。
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