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 これからお話しするのは、私が現在の年齢に近くなってからの『夢』について。『幼い私』から『私』になったのだと、そう思っていてください。

 まずは大学生となった私、齢二十歳を超えた頃のことです。


 相変わらず、私は夢を見続けています。

 幼い頃は、見たもの、聞いたものがその時の夢に大きく影響を与えていましたが、歳を取れば、何が現実的で何がそうでないのかの区別がはっきりつくようになります。その頃からは、空想世界の夢よりも、現実世界の夢の方が圧倒的に多くなりました。「多くなった」と言うのは、未だに空想的な夢も見るからです。

 その現実をなぞった夢は、現実と同じ舞台、同じ役者を扱っていたとしても、その物語はとても現実的なものではありせん。現実では決して起こらないであろうことばかりが再生されます。

 一番多いのは、「死」の夢でした。

 私が死ぬわけではあません。周りの人間が死ぬのです。数人の時もあれば、大勢の人間の時もあります。

 その時『私』はどうしているのかって?

 赤く染まったそれ、、を持って、佇んでいることがほとんどです。


 その次に多いのは、現実に存在する馴染みのある場所に、化け物が押し寄せてくる夢でした。不思議とそういった夢では「死」は無いのです。あるのは「襲われることへの恐怖」でしょうか。ただただ怯え、もしくは抗い戦う内容の夢なのです。

 勝率は五分五分と言ったところでしょう。その時によって物語の運びは違いましたので。ですが夢と言えども、「恐怖」に打ち勝ったときの爽快感や達成感はなかなかのものでした。最近のもので例えるなら「サバイバルゲーム」が一番近いかもしれませんね。

 

 物事の分別が付くようになってしばらく、大学生の中頃辺りまでは、現実を舞台にした『仮想現実』を、夢の中では過ごすようになりました。

 私が夢で見た景色は私の脳内に焼き付き、強い存在感を持って私の中に在り続けることになりました。

 念のために言っておきますが、夢と現実が区別できない、なんてことはありませんよ。ゲーム感覚のまま現実で人を殺してしまった、などもっての外です。そこはご安心を。

 その頃…大学生の私は、夢をもう一つの『世界』として大いに楽しんでしました。

 夢の中では全てが私の思うまま…とはいきませんでしたが、現実とは違う『私』と『世界』を楽しむには、最高の舞台でした。

 「強くてニューゲーム」ってありますでしょう? そんな感覚です。

 その内、夢の中で「これは夢だ」と認識できるようになりました。それまでは『夢』を楽しみにしていながらも、『夢』の中では此処こそ『現実』としていましたが、『夢』を『夢』と認識できるようになったのです。

 所謂、「明晰夢」というやつです。

 それを覚えてからというもの、純粋に楽しんでいた『夢』の世界で、私はある時は大人しくその舞台で踊っておりましたが、気に入らない展開や気に入らないモノが現れた時には、こんな世界には用は無いと言わんばかりに、暴君さながらの理不尽極まりない態度でその舞台を降りるのです。

 しかし、それはまだいい方だったかもしれません。私自身が舞台を降りてしまえば劇はそこで終わり。次の舞台へ移るか、そのまま『夢』とお別れするかのどちらかでしたが、その選択肢を排除して、あろうことか、私は舞台の「掃除」を始めてしまったのです。


  そこのあなたはさようなら、こちらのあなたは踊り続けて。

  永遠に太陽が沈まぬように、されども月もおいでなさい。


 自分の都合ばかりを優先した世界に、「秩序」など存在しません。私が過ごしていた『夢』の日常は、私によって破滅したのです。

 それでもしばらくの間、私はその『夢』を楽しんでいました。一日中あれこれと考え動き、上手くいかない方が断然に多い『現実』に苛立って、やっと夜が訪れ、待ちに待った私だけの『世界』へと、望むままに落ちていく。そうして目を開ければ、そこに広がるのは『綺麗なものだらけの世界』。

 こんなに幸せなことは無いと、思っていました。

 けれども、おかしいのです。こんなに綺麗で、可愛くて、楽しいのに、目を覚ました時に残っているのは「疲れ」だけ。本来眠りと言うのは癒しと安らぎを求めた、人間の本能に従った行為です。それなのに、こんなものばかり残されては…。

 私のご機嫌を取るだけの『夢』に、私はすぐに飽きました。と言うより、嫌になったのです。あんなに楽しかったはずの世界は、私をの精神をだただ摩耗させるだけのものと成り果ててしまった。

 私は自身のしたことを悔やみました。

 あの時、『夢』を操れることに気が付かなければ、今なお楽しい世界を持ち続けていられたかもしれないのに。

 リセットしよう。私はそう誓いました。この先どんな『夢』であろうとも、決して操る事の無いように。どうしても辛い時だけ、例えば「苦しんで苦しんで、苦しんで死んでもなお苦しみを与え続けられる夢」であった時だけ『現実』に逃げてこよう。そう決めました。

 そうしてしばらく、私は『夢』の通りに夢を見続けました。大学生となり、生きる事への喜びや悲しみを、当然ながら幼い頃よりも知ってしまった私は、かつてのような楽しいだけの『夢』を見ることは出来ませんでしたが、思い通りになる夢よりは幾分かはましだろうと、そう思っていました。


 そして私が大学三回生になり半年ほど過ぎた頃、私の見ている夢が少しおかしくなり始めたのです。いえ、「おかしく」というのは間違った表現かもしれません。そうですね…、ただ「変わった」と言った方が、それらしいでしょうか。


 ある朝、私はいつものように目覚めました。

 視界に映ったのは、いつもの天井、いつもの本棚、いつもの窓。まがう事なき私の部屋。

 天気のいい日でした。ベッドを置いた壁の上部にある窓から、朝のぼやけた白い光が部屋を照らし、寝ぼけた私の頭からもや、、を吸い取ってくれるようでした。

 それでも意地汚く微睡みそうになる頭と体を、無理矢理に動かしてベッドの外へと足を出しました。

 それは冬のことでしたから、ベッドの中で温もった足が床に触れた途端に、つま先が床から突き出る針に突き刺されるようにジンとした痺れを持ち、思わず引っ込めたくなるのを再び叱咤して、ぺたりと足裏の前面を床に下ろしました。

 のろのろと体全体を起こし、スリッパがすぐ近くにあるにもかかわらず、裸足でひたひたと廊下を歩き、そして階段を下りました。

 実家暮らしだった私の朝食は、母が用意してくれていました。

 大学生にもなって親元を離れないなんて、と思われるでしょうが、特に家を出て行く必要もなかったものですから。通学にも、影響はありませんでしたので。

 そういうわけで、いつまでたっても母の世話を甘んじて受けていた私は、いつものように顔を洗い、服を着替えて、寝ぐせでぐしゃぐしゃになった頭を整え、食卓に着きました。

 我が家の朝食は決まって紅茶と食パンです。

 朝はあまり食が進みませんが、抜くわけにもいかないでしょう。食パン程度の軽い朝食が限界なのです。

 あくびをしながら席に着き、「いただきます」といって紅茶の入ったマグカップを取ろうとして――


 私は、目を覚ましました。

 視界に映ったのは、いつもの天井、いつもの本棚、いつもの窓。紛う事なき私の部屋。ついさっき、冷える床に足を下したばかりなのに。

 折角整えた頭も、着替えた服も、すべてぐしゃぐしゃのまま。

 思わずため息が出ました。さっきまで『起きて』いましたから、眠気など全くありません。今度は名残惜しさもなくベッドを抜け出し、冷えた廊下を歩き、階段を下りました。

 ぎし、ぎし…と長年の月日がたったことで軋みが出始めている階段を下りている途中、視界がガクンと落ちました。

 足を、踏み外したのです。

 頭は覚醒していて、しっかりと歩いていたのにどうして…。

 そう思っても、急に動く景色に気を取られ、「あっ」と思った時には―


 視界に、いつもの天井を、捉えていました。

 心臓はバクバクと早鐘を打ち、冷や汗もじっとりとして、昨晩お風呂上りに着たパジャマを湿らせていました。

 それも十分に不快でしたが、それ以上に不快に感じたのは「また、やりなおしか…」という、うんざりとした苛立ちでした。

 二回目は階段を下りる途中でしたからそれほど損をした(そもそも損得の話ではありませんが)気分ではありませんでしたが、なんとも面倒なのです。

 またベッドを出て、また廊下を歩いて、また階段を下りなければならないのです。

 そして寝ぐせだらけの頭を直し、服を着替えて、食事をしなければならないのです。厳密に言えば、食事はまだ一度もしていませんが。

 とにかく通学の為の電車の時間もありますから、いつまでもイライラして何もせずにいるわけにはいきません。さすがにもう「起きて」いるだろうと、ベッドを出て廊下を歩き階段を下りました。リビングに入って母に「おはよう」と言い、顔を洗って頭を整え、服を着替えました。いいですね、順調です。

 食卓には既に朝食が用意されています。淹れたての紅茶とこんがり焼けた食パンの香りを楽しみ、紅茶を一口。うん、今日も美味しい。齧った食パンもサクふわです。

 ここまでくれはもう大丈夫、、、でしょう。一安心です。

 食事を終え、家を出る準備も整い、母に声をかけてから自転車に乗りました。駅までは約十五分。人通りの少ない裏道を通って駅に向かいます。なんとラッキーなことに、一度も信号で足止めを食う事がありませんでした。そんな日もあるんですね。

 上機嫌で駅に着いた私は、自転車を駐輪所に預けて駅の改札口へ向かいました。

 いつもと同じ、通勤通学の人で溢れかえった駅の改札口は、一時の休む暇もなく人をホームへ送り出し、またホームから外へと送り出します。

 私もいつものように通学定期券を改札口のセンサーにタッチしてホームへと向かいました。電車が駅へと入ってくるアナウンスがホームに流れます。上りと下りの両方のアナウンスが流れると、かなり慌ただしくなりますよね。経験、ありますでしょう?

 ともかく、これで大学に行くことができます。

 私はホームに入ってきた電車に乗り込みました。なるべく車内が空いている時間を選んでいますが、やはり混んでいますね。乗換駅に着くまでの我慢です。

 持っている音楽プレイヤーにイヤホンを挿し、スピーカー部分を両耳に着け、音楽を再生しました。このまま乗換駅まで――



 目が、覚めました。

 ――ここまでくると、苛立ちも抱きにくくなるものです。

 同じことの繰り返し。しかも今度は駅まで行って、電車にまで乗ったのに。体に残る疲れはそのままに、何度も、何度も。

 もう今日はこのまま休んでしまっていいのではないか。そう思うのも仕方がないと思いませんか。それほど私は疲れていたのです。

 しかし、自分で言うのもおかしいですが根が真面目ですので、受ける講義もあればやらなければならない作業もたっぷりあると思うと、大学に行かない、という選択肢はどうにも選ぶことができない性分。諦めて、散々繰り返した朝の行動をもう一度、行う事にしたのです。


 先に申し上げますと、ここが「最終」となりました。

 私はこの後、先の三回と同じように朝の支度を終えて家を出ました。そして電車に乗り、音楽を聴きながら目を瞑り、乗換駅の近くで目を開けた時、車内から窓に映る景色が走り去るのを見て「ああ、『今』なんだ」と分かったのです。


 これまで『現』を模した夢は何度も見ていましたが、このように繰り返すばかりは初めてでした。

 

 これを機に、私の『夢』は『現』を模して、若しくは『現』は『夢』を犯し、私の意識をもてあそぶ様に、ころころと私を転がすようになったのです。


 

 一度話を切りましょうか。

 次は私の大学生時代後半から、社会人となり半年ほどが経った私に至るまでのことを、お話ししましょう。 

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