この不確かな境界線の上で
もふ
✻ 1 ✻
私は幼い頃から、よく夢を見る子でした。
それもぼんやりとした曖昧なものではなく、風景から登場人物まで、あらゆるものが明確となっている、そんな夢です。
その日だけの物語となる夢もあれば、数日に渡る物語となる夢を見ることもありました。同じ物語で、同じ時間軸の夢を数日間見続けることもありました。
昔見た夢に、こんな夢があります。
その夢は私が見てきた夢の中では、どちらかと言えば『明るい夢』に分類されるでしょう。
まず目に映ったのは、ポップな色合いの室内でした。
部屋の四隅にはクリーム色の円柱のようなものに黄緑色の、これもまた丸っこいものがくるくると巻き付いた柱が建ち、そこから繋がる壁は薄いピンクやクリーム色。それだけでも大分可愛らしい印象なのに、いくつか置かれた家具が更にその場の印象をファンシーなものへと助長していました。
椅子もピンクやオレンジ、ライトブルーで配色され、クローゼットも同じようにとてもカラフルで、子供心にはとても魅力的でした。
一辺の壁にある、ひとつの扉もそうです。
枠から取手まで、あらゆる色が使われていました。
それは今思うと、統一感のない、柔らかいけれど乱雑さのある狂気のようなものが満ちていたように感じますが、幼い私にはそんなものは分からなかったのです。
全てが丸っこく、角の無い部屋。
自分の願望から生まれた世界なのだと思いました。しかし、それは少し違っていたようにも思えたのです。
だって私は『外』を望んでいたのですから。
それもありふれた『外』ではなく、特別な、自分だけの『外』を。
この部屋もすごく魅力的だけど、これだけじゃ満足できない。
もっと、もっと、『外』が欲しい!
そう思っていました。
その想いが夢に反映されたのかどうかは私には分かりませんでしたが、その夢の中で私は扉を開ける事が出来たのです。
そう、あのカラフルな扉を。
扉は軽く、簡単に開ける事が出来ました。
幼い私は、ドアの向こうに何があるのか、とても楽しみにしていました。
その頃に読んでいた絵本のように、美しい景色が広がり、自分が歩く為だけに作られたなだらかな道が続いているのだろうか、それはそれはドキドキしながら扉を開けたものです。
幼い私が見たのは、広大な森の木々の頭と、その上を通るパネルのような半透明の四角い飛び石が扉を開けたすぐそこからずっと続いている景色でした。これもまた、扉の内側の室内の様相と同じように角の無い飛び石でした。幼い私が飛び乗って腹ばいになっても、多少の余裕はあるだろうという大きさでしたが、その厚みはおよそ五センチ程度でしょうか。半透明というのも相まって、とても頼りなく見えたのです。しかし飛び石の続くその先、等間隔に並んだ飛び石を渡っていったその最後、まるでおとぎ話に出てくるような、銀色に輝く城が聳え立っていたのです。そしてその城の周りには、森の木々に隠れて見えないはずの花が咲き乱れ、虹が掛かり、ターコイズのようにこってりとした青色の空を白い雲がゆっくりと泳ぎ、これでもかと言うほどメルヘンチックな世界が出来上がっていました。
幼い私は、どうしても其処に行きたくて、行きたくて。森の木々の頭が見えるほどの高いところにいることが怖くて怖くて堪らなかったのですが、視線の先に続く飛び石を渡り、あの城まで行こうと決心したのです。
恐る恐る飛び石に右足を伸ばしましたが、届きませんでした。飛び石には「飛び」乗らなければならなかったのです。両手を扉の縁から離し、片足を前に出して、ぴょんと両足の裏から支えを失うことを恐れずに飛び乗らなければ、最初の飛び石に移る事さえ出来なかったのです。
もし距離を誤ってしまえば、自分はあの木々が突き出す緑色の肌に真っ逆さま。地面に激突するのか、それとも木の上に落下して串刺しになってしまうのか。そんな恐ろしい想像が、幼い私の頭を支配しました。
怖い、怖い、怖い。
でも、あそこに行きたい。行きたいの。
幼い私は勇気を振り絞り、一瞬だけぎゅっと目を瞑って、えいや、と飛びました。ここが夢の中であることはとうに忘れて、ただあの城に行きたいという想いだけで、幼い私は飛びました。
幼い私の右足は、最初の飛び石に届きました。でも、届いただけだったのです。幼い私の右足のつま先が、飛び石の表面にちょんと触れた途端、今の今までそこにあった半透明の飛び石は、ふっ、と消えてしまったのです。
あっ、と思っても、もう戻ることは出来ません。
幼い私は、視界の上へと消えていく城を見つめながら、落ちて行きました。
……『明るい夢』はこれでおしまいです。落ちてしまった後の続きはありません。そこで目が覚めてしまったのです。確かに感じた浮遊感を残したまま。心臓や胃など、私を活かしてくれる詰物が、口から外へと這い出そうな感覚をはっきりと感じたまま、幼い私は夢から放り出されてしまったのです。
おそらく夢が続いていても、幼い私は地面に叩きつけられるか、木々に串刺しにされて死んでいたでしょう。でも、もしかしたら生きていたかもしれないのです。わからないでしょう? だって夢の世界なんですから。もし生きていたら、またあの城を目指して歩いていたかもしれないのに。
幼い私はあの夢の続きを熱望しましたが、もう二度と、見ることは出来ませんでした。
きっと恐れを抱いてしまったから、夢に嫌われてしまったんだ。幼い私は、そう思う事しかできませんでした。
『明るい夢』と言うには『夢』も『希望』ないと、あなたはおっしゃいますか? 私はそうは思いません。少なくともこの夢では、幼い私にとっても、今の私にとっても、大切なものは何一つ失わなかったのですから。
では次に、『暗い夢』の話をしましょう。
これも幼い頃に見た夢ですが、今でもはっきりと覚えています。
幼い私が立っていたのは、どこかの洞窟の中のようでした。
洞窟、と言っても真っ暗ではありません。幼い私の頭上から白い光が差し込み、内部を照らし、そのまま奥までその光が届いていました。
何故幼い私の頭上から降る光が洞窟の奥まで照らしているのかと、疑問に思われたことでしょう。実はその洞窟、その内部にはびっしりとその空洞を埋め尽くすかのように、大小様々な水晶がそこら中の壁という壁から突き出していたのです。その表面にだけアイスブルーの冴えた色を纏い、結晶の奥は全てを透かすほどの透明度を持ち、上から差し込む光を水晶が反射させ、また別の水晶がその光を弾く。それを繰り返し、洞窟の奥の奥まで、白い光を届けていたのです。
とても美しい光景でした。
その洞窟内の空気は澄み切っていたのでしょうか、光の帯が
こんなに美しいものは見たことが無いと、幼い心に大きな衝撃をもたらしました。
そんな中に立っていた幼い私は裸足でしたが、どこを歩いても冷たさは感じられず、痛みもなく、とても軽やかに水晶から水晶へと飛び移る事が出来たのです。
ああ、ずっとここにいられたらいいのに。
私を傷付けるものは何もない。美しいだけの世界で、いつまでもここに。
そう思っても仕方がないでしょう。それほど幻想的な世界だったのです。
ほどなくしてその世界の美しさを堪能した幼い私は、洞窟の続く、その奥へ行こうと思い立ちました。
この奥にはきっともっと綺麗なものがあるに違いない。だったらそれを見ずにはいられない。そう思って、洞窟の奥へと進みました。
目に映る景色は相変わらず、キラキラ、ちらちらと光が踊っていました。洞窟は、水晶で埋め尽くされていたから確かなことではありませんが、それほど広くはなさそうに思えました。大きい水晶ともなれば、壁から突き出してそのまま反対側の壁まで届きそうなほど。そう、幼い私がすっぽりとその中に入れてしまいそうに太く、大きいものでした。
洞窟の奥に進むにつれて、その大きな水晶が増えていくような気がしました。あまり広さの無い洞窟なのに、大きな水晶が増えてしまってはますます狭く感じてしまいます。幼い私が、小さな体を縮めたり
幼い私は困りました。何とかしてこの先に進みたいが、どうすればいいのだろう。
この大きくて硬い水晶を壊せそうな道具など、勿論持ってなどいません。自分の手も柔らかすぎて役に立ちそうにありません。
困りに困った幼い私は何を思ったのか、目の前の道を塞ぐ水晶に、こんこん、と握りしめた小さな手を控えめにぶつけたのです。ノックのつもりだったのでしょう。誰かの家でもないのにノックなんて、おかしな話ですが。
けれどもそこは夢の世界。
夢の『主』である幼い私が望めば、道を塞ぐ水晶たちもその願いを聞き入れるというもの。複雑に絡み合い生えていた水晶は、ゴゴゴ…と鈍い音を立てて、幼い私が体を補足してやっと通り抜けられるほどの小さな道を作ったのです。
幼い私は嬉々としてその小さな道へとゆっくり体を滑り込ませ、その先へと再び進んでいったのです。
思えばあの水晶たちは、幼い私の中に、綺麗なものだけを残そうとしてくれていたのかもしれません。当の本人がそれに気づかず、その先へ足を踏み入れてしまったわけですが。
水晶が作り出した小さな道を通ったその先にあったのは、さっきまで見ていた景色とは全く別のものでした。光が届かなくなってきていたのです。
幼い私を通した水晶は、静かにその口を閉じ、引き返す道を閉ざしました。それに気づかない幼い私は、急に薄暗くなってしまったそこに、ほんの少しの不安を抱き始めました。しかし幼い私の頭に『戻る』という選択肢はなく、ただ真っ直ぐに進むだけ。
水晶はあるけれども薄暗い洞窟を、ゆっくり、ゆっくりと進みました。
白い光が届かなくなった水晶は、その内側を淀ませ、向こう側を歪めて見せました。歪んで見える水晶の、そのまた先の歪んだ水晶が、まるで黒い顔のようになって、幼い私が進むのを、じぃ…と見つめているようでした。その暗い視線を感じながら進む幼い私は、何故か段々と、心の中身がなくなっていくような、そんな感覚に陥りました。
怖いとか、楽しいとか、そうゆうあらゆる感覚が抜けていき、ただ「進まなければ」という観念に囚われ、目に映る景色がどんどん変わっていっても。さっきまで鈍くとも青く見えていた水晶が、その根元から、まるで何かを吸うように先端に向けて赤くなっているのを、「赤い…水晶だ…」と、そう思うだけ。
どうして水晶が赤くなっていったのか、どうして水晶の根元の赤が、あんなにも濃く、鮮やかなのか。そんな疑問さえ持たずに、赤く輝く水晶の上を裸足で歩いていきました。
どれくらい進んだのか分からなくなった時、もしかしたらかなりの距離を歩いたのかもしれないし、反対にほんの数秒歩いただけだったかもしれない、そんな時。急に水晶が無くなったのです。
正確に言えば、幼い私が通ってきた道には水晶がありますが、ある地点からその先には、全く水晶が無くなってしまったのです。
ずっと水晶の上を歩いてきた幼い私は、それでも歩みを止めることなく、水晶が無くなった洞窟の岩肌に降り立ち、ぺたぺたと歩いていきました。
でもそれも、すぐに終わりました。
道が無かったのです。その先には。
急に現れた崖に驚いて歩みを止めました。崖の下を見下ろしても、こっくりとした黒が広がるだけで何も見えません。
下を覗いたまま、少しだけ目線を前方に動かしました。
その時気が付いたのです。
この深くて黒い崖の底から、大きくて太い水晶が三本、生えていることに。
幼い私は、空っぽになった心のまま、その水晶の見えない根元から上へと視線を動かしていきました。根元から中心に向かって赤色は薄くなっていきましたが、その代わりに。
私の家族が。
父と、母と、兄が。
青白い顔だけを外に出して、その赤い水晶に埋め込まれるようにして――。
幼い私は、叫びました。
意味を持たない音だけを、喉が切れて血があふれそうになるくらいに、叫びました。
急いで家族のもとへ駆け寄りました。
いえ、駆け寄ろうとしました。
ですが、そこは大きな崖。当然幼い私の前に、地面はありません。
幼い私の体は、洞窟の水晶を赤く染める、そのひとつとなったのです。
……以上が『暗い夢』の内容です。
『明るい夢』よりも大分、長々と話してしまいましたね。それだけ恐怖は、人の記憶に残りやすいものなのでしょう。今こうして改めて思い出してみると、なんとも単純で子供の想像力の限界のような陳腐な夢ではありますが、幼い私には、とても恐ろしい夢だったんですよ。この夢も、あれから一度も見ることはありませんでした。できればこの先も、見たくはないものです。
さて、ここまでは私の幼い頃の夢の話。勿論これだけではありませんが、代表的なものだけをお話いたしました。
次は、今の私が見る夢のことを。もしかしたら『夢』ではないかもしれませんが。
ここから先、私の話す夢が『夢』なのかそうでないのかは、あなた自身のご判断に委ねることに致しましょう。
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