第8話 その恐怖はどこから
昼休みの喧騒が、壁一枚を隔てて薄く聞こえる。
さっきまで見えていた上履きと制服のスカートに覆われていた膝は、細かな穴の開いた天井にとって代わられている。
まだ、うっすらと寒気のような震えは残っている。
カーテンで囲まれた簡易的な個室ベッドには私一人で、友人の姿は見当たらない。教室に物を取りに行ってからまだ戻ってきてはいない。
操り人形の糸が切れてしまったように、足に上手く力が入らない。自力で教室に戻るのはまだ無理そうかな、と思った矢先に、がらがらっと保健室の扉が開く音がした。
「まだおとなしくしてた方がいいと思うぞ~」
耳慣れた声で養護教員のような台詞が聞こえると、カーテンが開いた。
友人の手には弁当箱の包みが下がっていた。
「昼、まだでしょ」
「……うん」
「食欲は?」
「……微妙」
「食べた方がいいと思うけど、微妙じゃあ無理強いはできないかなぁ…」
と言って、並んでいた椅子の上に置いた。
上半身を起こして、ゆっくり体をベッドの上で動かして、ベッドの縁に座る。
「食べなくていいの?」
「それよりあんたが心配」
と言われては、何も言い返せない。
「朝は変な様子はなかったのに、昼になっていきなりこれって、単純に具合が悪いわけじゃなさそうだし」
――なんかあったの?
正直、なぜ私が今このような状態になっているかはわからない。予知でも何もわからなかった。
ただ、一つ確かなことは、私はここ数日間「もしも」を、ずっと恐れてきた事だけ。
もしも、あの時これをしなければ。
もしも、あの時これをしていれば。
もしも、あの時こうしていれば。
普通の人にしてみれば、或る出来事のずっと後になってからわかる事もあるし、わからずじまいの事もある。
でも私にはわかってしまうのだ。予測でも憶測でもなく。結果の予知として。
どんな因果があったのか、何が悪かったのかは結局わからずじまい。だけれども、あんな事が起きてしまった。事実は逃れようがない。
「なんか心配事でもあんの、言ってみ?」
―とはいえ、どんな心配事でも人に打ち明けてしまえば、実際は大したことなかっただとか、あっさり解決しただとか。そんなこともあるらしい。
そんなもんだろうか、引かれたりしないだろうか。
藁にも縋る、というより、諦めに近いものを感じた。
「―あなたってさ、交通事故とかに巻き込まれた事って、ある?」
もの凄くぼやかして聞いてみた。
「交通事故……ねぇ。凄く軽いものなら小学生の時に一回、かな。それが?」
「その時って、やっぱ怖かった?」
「そうだねぇ、流石に今となっては、あーあの時はバカな事したなぁ、って感じだけど、そん時は擦り傷くらいだったけどアタシ大泣きしたらしくてさ、よっぽど怖かったんかな……って私の昔話とか関係あんの?」
「いや、そうじゃなくて……。私も交通事故に遭ったんだよ、つい先週末」
「ほえっ!?怪我とか大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫……、というよりは私は直接巻き込まれてないから、遭ったっていうのもちょっと違うんだけど……」
上手い表現が思いつかない。しばし間が開いてしまったが、友人は待ってくれていた。
「なんか……後になって色々思い返してみたらさ、もっかして私が悪いんじゃないかな、原因を作ったんじゃないかな、って思えてきて。なんだか分からないけど、怖い」
「もし、もしもだよ、あの時道路を変な渡り方をしなければ?私があの場所を通っていなかったら?もし買い物になって行っていなかったら?もし家から出ていなければ?あんな事故はかしかしたら起こらずに済んだかもしれないんだよ?そう思い始めてきちゃって怖い、凄く怖いよ……」
あの時の、後ろから迫り来る無機物で構成された最悪の塊を思い出す。
今まさに後ろから迫ってくるような気がして、震えが酷くなる。
震えを堪えようと、スカートの裾を握った手が歪んで見えた。
*
不意に、目の前が暗くなった。
何かに引き寄せられるようにして少し体が傾き、やわらかい暗闇に受け止められる。
人の暖かな温もりに包まれている。
「あんたは、ちょっと考えすぎだよ……。大丈夫、あんたは悪くない」
友人は、私を落ち着かせるように頭を撫でながら言った。
「そんなのっ、わかるわけっ……!」
自分の声は、知らず知らずのうちに涙に濡れていた。
「わかったとは言ってないさ」
「……っじゃあ!」
「私はさ、因果応報って割と信じてるんだ」
何か言い返そうとしていた言葉が、喉元まで出かかって止まった。
「良い行いをするとそれが返ってきて、悪い事をすると、それもまた返ってくる、そんな意味だったっけか」
「だからさ、言い方は悪いけれど、あんたが何か悪い行動をしてたら、きっとその事故に巻き込まれてたと思うんだよね」
「そんな……っ」
「でもさ、今あんたは巻き込まれてもいないしケガもしてない。色々あったけど今こうして学校に来れてるじゃん。ってことはさ、あんたは悪い事してないってことだよ?だから、あんたのせいじゃない。偶然が重なってそう思っちゃっただけだよ……」
言葉の一つ一つが胸に沁みていくにつれて、心の奥底にあった緊張が少しずつ緩んでいくのを感じた。
ずっと心にあった「もしも」の恐怖は暖かい暗闇の彼方へと霧散していき、安堵のあまり涙が溢れてくる。
どれくらい時間が経ったかはわからない。
私はずっと、子供の様に泣きじゃくっていた。
目の前に広がっていた暖かい暗闇は、ただ私を受け入れて、包んでくれていた。
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