第2話 京都行 その二

 出入りする人の流れも止み、新幹線はゆっくりと名古屋駅のホームを離れ始めた。

 私の手の上の携帯はまだ震えていた。それは私を付け狙う人間が、同じ新幹線に乗り込んだことを意味していた。今頃は、私を見つけようと車内を歩き回っているのかもしれない。

 彼らは私の命を狙っている。それは……私の首に途方もないだけの賞金が掛かっているからだ。

 私が歩く金塊の様な扱いになったのには深淵な理由があるのだが、私の命を狙って全国を走り回っている連中がそれを知るはずもない。彼らは所詮、実行部隊に過ぎない。私を殺そうとしている連中の裏に糸を引いている真の悪者がいる。私が生きていると困る連中がいる。――そういう意味では、私を殺そうと走り回っている連中は被害者に過ぎない。私は一種の同情を禁じ得ない。

 とはいえ、私はこんな場所で死ぬ趣味はない。私は今日中に京都の家に帰り、のんびりと風呂に入ってから買ったばかりの羽毛布団で寝るのだ。


 私は乗ってきた人間が私のことを見つけられず、無事に京都についてしまうことを祈りながら、自分の座席から離れずにじっとしていた。しばらくすると前方の車両の扉が開いた音がした。腰をわずかに浮かせてふと見ると、一人の老人が杖を突きながらゆっくりと歩いて来るのが見えた――私は直感で、奴だ、と思った。老人は禿げ上がった頭に長い白ひげを伸ばし、如何にも温厚そうな表情で辺りを睥睨しているが、残念ながら殺意は隠しきれていない。それは老人の歩き方に現れていた。車内は大いに揺れているのだが、まるで鉄の棒でも入っているかのように、その歩みは全く軸がぶれていない――少なくとも、普通の人間の歩き方ではない!


 

 老人はゆったりと歩き続け、私の席の横でピタリと止まった。私は老人のことを横目で見ながら、老人の動作に注目していた。

 何をしてくるだろうか? そんなことを悩む時間を老人は与えてはくれなかった。

 老人は徐に懐に手を入れた。私はとっさに右手で掴んでいたノートパソコンを老人に向かって放り投げた。開いたままのパソコンは、老人の顔面に向かって一直線に飛んでいく。老人の顔が怯んだ瞬間、私は新幹線の地面を蹴って老人に飛びかかった。

「ううっ!」

 老人は懐に手を入れた状態で後ろに倒れ、パソコンは滞空時間もわずかに壁に激突して鈍い音を立てた。私は老人を足蹴にし、新幹線の進行方向と逆方向に走り出した。乗り合わせていた数人の乗客はその大きな音に驚いて、私の方を怪訝な眼で睨んだ。

「捕まえてくれ!」

 老人は困惑した表情を作ってそう叫んだ。何人かが控えめに私の方に手を伸ばしてきたが、強引に振り払って私は走った。


 こうとなっては、もうこの新幹線に乗っているわけにはいかない。

 

 飛び降りるしかあるまい。不審な表情を浮かべる乗客を横目に三両ほど走り抜けた私は、新幹線の降車口の前で立ち止まった。降車口の窓からは、高速で横に逃げていく光の粒が見える――ここから飛び降りたらただでは済まないだろうが……死ぬよりはマシだろう。私には、まだやりたいことがあるのだ。


 私は一瞬躊躇して、客席の方に視線を投げた――と、さっきの老人が鬼気迫る表情でこちらの方へと走ってくるのが見えた。老人はまっすぐ私の方を見ていた。長い間食べるものに困っていた肉食動物のような、迷いのない鋭い目で。全身の血が凍りつくような不快感が私を襲った。その時にはもう、私の体は勝手に動き出していた。私は降車口の窓に向かって頭から飛び込んでいった。頭を守るために先行させた腕に鈍い痛みが走り、ガラスが砕ける鋭い音が耳に飛び込んできた。私は車窓に映る闇の中に飛び込んだ。冷たい風が私の体を横切る。ガラスの欠片は新幹線から漏れる光に当てられて白く輝き、線路上の闇の中、星のような輝きを湛えていた。


 それからは、よく覚えていない。気が付いたときには私は線路のゴツゴツした石の上に横たわっていた。全身の服は破れ、隙間から冷たい風が肌をさす。

 ここはどの辺だろうか? 名古屋と京都の間ではあるのだろうが……。ともかくにも、まずは線路から降りねばなるまい。警察や電車の関係者にも関わらず、このまま夜の街に紛れて去ってしまうのがベストだ。もう十二分に騒ぎになっているだろうが……素知らぬ顔で逃げてしまうしかあるまい。


 夜空に浮かぶ青白い星々を見ながら歩きながら、ふと気がついた。咄嗟のことだから仕方がないのだが、パソコンを車内に残して来てしまった。私のことを追えるような情報は中には入っていないだろうが……。私は少し考えて、あのパソコンを手放して逃げてくるのが惜しくなるような名文章が思い浮かばなかったことを不幸中の幸いに思いながら、もうすっかりと夜の帳が下りた線路沿いの道を歩き出した。


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