第七章 自分との会話「3」

   3



「ただいま」

「おう、おかえり」

 父がリビングでソファに座り新聞を読みながら、こちらを振り向かず静かに言った。

「母さんからお前の話は聞いているよ」

「話って?」

 僕は尋ねた。

「無茶を、したんだってな」

 ――ああ、この人は全て知ってるんだな。

「……ごめんなさい」

 僕は素直に謝った。

「別にいい。お前の人生だからな。無茶をするもしないもお前次第だ。ただ――」

 父は言いかけて止めた。

「ただ?」

「自分を、大切にしろ」

 相変わらず新聞を読みながら父は言った。その背中を見つめ、僕は深く頭を下げた。勿論、父には見えていない。

 ――父さん、ただいま。



「ごちそうさまでした」

 父の手料理を食べたのは、おそらく十年ぶりくらいだろうか。

 普段母が作る料理と違い、父の不器用さがひしひしと感じられた。

 野菜の切り方から味付けまで、料理自体が久しぶりだと思わせるには充分だった。

 その証拠に、僕が食器を片付けようと台所に立った時、何気なく三角コーナーを覗くと可食部が残っている野菜の芯やら何やらが捨ててあったし、ゴミ箱を覗いてみると父が昼か朝か、もしくは昨晩食べたであろうスーパーのお惣菜のプラスチック容器が捨ててあった。

 僕が帰ってくると知り料理の計画を立て、そして、それを実行してくれたのだろう。それだけで父が何を思っているのか伝わった。そんな気がした。

 彼は立派に父親という役割を全うしようしてくれているのだ。心から父の子に生まれて良かったと思った。

「父さん」

 そんな父に聞きたいことがあった。

「なんだ?」

 父はテレビを眺めながら言った。

「父さんは、後悔してること、ある?」

 父はしばらく黙っていたが、やがて静かな声で言った。

「お前には、あるのか?」

「……ああ」

 ――後悔だらけさ、僕の人生なんて。

「後悔、か」

 父は考え込むようにして、再び黙った。

 テレビの音だけがリビングに響く。

 やがて、父は口を開けた。

「後悔なんて、たくさんしてきたからな」

 父の顔は穏やかだったが目はどこか空虚だった。

「例えば?」

 僕は興味を持ちつつスマートフォンをいじりながら尋ねた。何となく目を合わせて会話すべきではないと察したからだ。

「例えば、そうだな」

 父は宙を眺めながら語り始めた。

「あのときこうすれば良かったとか、あのときこうしなければ良かったとか、考え始めたらきりがないもんだよ」

「父さんもそういうの、あるんだ」

 僕の言葉に、父は笑った。

「ない人なんて、いないと思うぞ」

 父の横顔をちらと見て、スマートフォンをポケットにしまい、父と向かい合った。

「……父さん、僕、後悔してることがあるんだ。今日、突然帰ってきたのも、実はその後悔を後悔のままにしないため、だと思う」

「――そうか」

 父は新聞を広げた。多分、文字なんて満足に読めていないと思う。

 母は、父は僕に似ているとよく言う。きっと、父も思うところがあって、けれど僕と目を合わせて話すのが気恥ずかしいのだろう。

「お前は、まだ若い。まだ取り返しがきく。思い切り悩めばいいさ」

「……悩まない方法って、ないのかな」

 僕は呟いた。

「悩まない方法なんてない。人は常に悩み続ける。お前の歳頃なら、特にな」

 僕の呟きに対し、父は新聞をめくりながら言った。

「悩まない方法なんて、そんなもの求めないことだ。悩んで、時に傷付いて、それを自分で、時には人を巻き込みながら払拭していくことだ」

「解決しなかったら、どうしよう」

「それなら受け入れるしかないんだよ」

 父の言葉は妙に重たく、妙に説得力があった。

「多くは俺に語らなくていい。気が済むまで悩んでみろ。話さなくても、大体分かるさ。俺もお前の歳を経験したからな」

「――父さんは、解決できたの?」

「俺か? 俺はな――」

 父は新聞を畳みながら、

「後悔をなくす前に、大切なものができたから、俺はそれでいいと思っているよ。勿論、お前の母さんもな」

 僕をちらと見ながら言った。

 ――ああ、この人は本当に偉大な人だな。

「父さん、その――」

 僕は気恥ずかしさを途中まで言いかけ言葉を止めたが、それでも伝えなければと思い半ば無理やり言葉を紡ぎだした。

「ありがとう」

 父は僕の言葉に少し驚いたような、戸惑ったような顔をしながらこちらを見た。そして、一瞬微笑みを浮かべて畳んでいた新聞を開き、再びそれに視線を戻した。



 夜は閑散と過ぎてゆく。

 眠れなかった。久しぶりの実家の布団だからというのもあるが、現在住んでいるアパートの布団と匂いが違って落ち着かなかった。

 数時間経過する匂いにも慣れ、もはや感じなくなった。さすが実家といったところだろう。

 それでも、やはり眠ることができない。実家に帰ってきたがゆえの懐かしさか。それとも明日の同窓会に対する不安か。

 いや、どれも違う。

 僕が眠ることで得られたこと。夢のことが気にかかっていた。

『私はもうあなたの夢には現れません』

 やまもんが夢のなかで言った言葉が、未だに僕の心に巣食って離れない。離れてほしいけれど、離れてほしくない。とても複雑な気持ちだ。

「悩まない方法なんてない、か」

 父が夕食後に言った言葉を思い出した。

 ――僕は、僕は――。

『悩まない方法なんて、そんなもの求めないことだ』

 ――僕は、僕は――。

『悩んで、時に傷付いて、それを自分で、時には人を巻き込みながら払拭していくことだ』

 ――僕は、僕はもう一度逢いたい。

 ――誰に?

 夢のなかの彼女に、やまもんに逢いたいと思った。

 ――でも、もう逢えないよ?

 ――逢える。逢えるさ。

 それはあまりにも朧で、言わば虚数解のようなものだったが、それでも僕は願った。逢いたい。夢でいいから君に逢いたい。そう心の底から願った。

 僕は自問自答を繰り返した。そうして自分の気持ちをより強固なものにしていった。

 この夜を越えれば僕は手掛かりを掴める。

 ――やまもん、ごめん。もう少し、君のことを待っていても、いいかな。もう少しだけの間、泣き虫陽ちゃんでいることを赦してくれるかな。

 涙が溢れて止まらなかった。何回泣けば気が済むんだよと自分を叱った。

 ――嗚呼、夜が、夜が綺麗だ。

『私はもう、あなたの夢には現れません』

 やまもんの宣言通り、夢をみることは、なかった。

 そして、僕は夜を越えた。

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