第七章 自分との会話「2」」

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 学校もバイト先も全て自宅のアパートから近い位置にあるため、電車に乗るのは久しぶりだった。

 ガタンゴトンと車輪の音が電車内に響く。

 都会の電車は満員が当たり前というが、平日の午後、通勤通学ラッシュを避けて乗車したためそこまで乗客はいなかった。そのためゆったりと座席に座ることができた。

 時折隣に座っている年配の男性が大袈裟に咳をし、僕はその度に驚きながら周囲を見渡し他の乗客の動向を探った。案の定、先ほどからこちらの様子を窺っていた若い二人組の女性がひそひそと何かを話し始めた。

 僕はそれを見て、この男性の知り合いと思われたくないと思いながら席を立ち、そそくさと隣の車両へ移動した。

 やがて、電車は最初の目的地に停車し、僕は乗り換えのため電車を降りた。次の電車が来るまであと数分だ。

 都会は電車が早く来るし本数も多いし、その間隔も短い。故に一本乗車に遅れてもまたすぐに次の電車がくる。

 僕の住んでいた場所とは利便性がまるで違う。ああ、僕は今都会に住んでいるんだなと改めて実感させられた。

 そんなことを考えているうちに一本の電車が目の前に止まった。

 ――さすが都会だな。

 僕はそれに乗車し、空いている席に腰を下ろした。この電車の行先が行先だけあって、乗客はあまりいなかった。

 車内アナウンスが流れ、やがて電車はゆっくりと走り出した。この電車の行先は、もう何年も帰っていない僕の故郷だ。



   ▽▽▽



 ぽかんと口を開けながら僕を眺める母を尻目に汚れた服を脱ぎ、洗濯機に放り込む。

 クローゼットから服を取り出しそれを着た。そしてスマートフォンを手に取り、先ほど須田に送ってもらった菅井に電話をかけた。

 六コール鳴ったあとに「はい、菅井です。御坂、だよね?」と警戒心を露わにした声色がした。

「急に電話してすまん。御坂だ。御坂陽太だ」と僕は須田の時と同様に急に電話したことを謝罪した。

「一体どうしたの?」

 菅井は僕からの電話に相当驚いたようで声が若干裏返っていた。

「本当に急でごめん」

 念を押すように何度も謝罪した。

「いいけど、何の用?」

 菅井の声から警戒心は消えていなかった。

「実は聞きたいことがあるんだ」

「聞きたいことって?」

「その、やま――、山本のことだよ」

 僕は渾名を訂正しやまもんの苗字を告げた。

「ああ、ね」

「覚えてるだろ?」

「そりゃ覚えてるよ。だって私達親友だったんだもの」

 菅井とやまもんが親友だったとは、知らなかった。

「そうか」

「それで、やまっちゃんがどうしたの?」

 やまっちゃん? ああ、そうか。やまもんのことか。

 それにしても、心倣しか菅井の声が少し暗くなった気がした。

「あいつ、中三の夏に突然転校しただろ? 菅井なら転校先を知っているかなって」

 僕は急かすように早口で言った。

 菅井は僕の質問には答えず、「そんな昔のことでわざわざ電話してきたの?」

 逆に怒られてしまった。

「ごめん。でも菅井ならって」

「なるほどね」

 菅井が何か納得したように言った。

「それで、教えてもらえるか?」

「ふふ」と菅井がなぜか笑った。

「なに笑ってんだよ」

 僕は訝し気に尋ねた。

「いや、なんにも」

 わけがわからない。いや、ひとまずそれは置いておこう。

「とりあえず質問に答えろよ」

「ごめん、言えない。電話とか、こんな中途半端なところで話すことじゃないから」

「どういうことだ?」

 僕は尋ねたが菅井はそれに答えなかった。

「ところであんた、今年は帰ってくるんでしょうね?」

 いつか須田に言われた言葉を思い出す。

『そういやお前、去年も実家に帰らなかっただろ。菅井も心配してたぞ。成人式には帰るって言ったくせに結局帰らなかったし、どうせ今年も帰らないんだろ?』

「なにかあるのか?」

「小規模だけど、毎年高校時代の仲間で同窓会みたいなやつやってるのよ。勿論須田君や鈴木君だってきてるし。ほら、私達四人さ、二、三年と同じクラスだったじゃない。覚えてないの?」

 そういえば、そうだったな。

 やまもんと別れて以降のことは正直覚えていない。というよりどうでもいいとさえ思っていた。だからクラスがどうとかもあまり覚えていない。

 ずっと本ばかり読んでいて、唯一友人と呼んでいた須田や鈴木とくだらないことを話していたことくらいしか記憶にない。

 最大のイベントともいわれた修学旅行ですら、あまり記憶にないくらいだ。

 何度も言う。それだけやまもんとの思い出が綺麗で、微笑ましくて、それでいて切なくて、苦しいのだ。

「――ごめん」

「なんで謝るのよ」

「いや、なんとなくだよ。ごめん」

「んん、まあいいや。それでね、今年の夏もみんなで集まろうってことになってるの。だから御坂も来なよ」

「それって、僕が行っていいものなのか?」

 今更顔を出しても皆が楽しく過ごしているところに水を差すだけのような気がした。

「別に来たくないなら無理にとは言わないよ。けど、来ないならやまっちゃんの話はしない」

「なんでだよ」

 僕は声を荒らげながら言った。

「さっきも言ったでしょ? 中途半端な形で話したくないの。この話は直接話さなければ意味がないの」

 電話口の声だけで菅井がどんな顔をしているのかが想像できた。勿論、想像した顔は高校時代の顔だが。

「わかった。行くよ」

「決まりね。それで、いつ頃帰ってこれる?」

「明日」

「わかった。私も明日帰る予定だったから丁度いいや。明後日に皆で集まろう。須田君と鈴木君、それから皆には私から連絡しておくから」

 そう言って菅井は電話を一方的に切った。さすが学級委員長だっただけのことはあるなとスマートフォンの画面を閉じながら思った。



   △△△



 東京から群馬まで電車で約二時間半。

 電車から降りると同時に数年ぶりに故郷の地を踏んだ。

 駅を出るとその変わり様に僕は言葉を失った。駅前には巨大なショッピングモールが建っており、たくさんの人が行き交っている。懐かしさなどまるでなく、現在僕が住んでいる都会と何ら変わらない様子だった。まるで高さの低い建物が並ぶ都会だ。

 進学のためにこの街を出た時もそれなりに駅前は活気に溢れていたが、ここまで様変わりするなんてと、しばらく呆然とその場に立ち尽くし、忙しく行き交う人々の様子を黙って眺めていた。

 それでも駅から少し離れると駅前の、まるで都会のような活気は無く、代わりに目に飛び込んできたのは閑散とした商店街、いやシャッター街だった。ここは今も昔も変わらないのだなと、ようやく懐かしさが込み上げてきた。

 懐かしさに浸りながらしばらくシャッター街を眺めていると、ふと捻くれた考えが頭に浮かんだ。

 見てくれだけは立派で、それでいて中身は空っぽ。この街はまさに今の僕と同じだ。予感はしていた。だから帰りたくなかったのかもしれない。

 母には東京で留守番をしてもらっている。

 一緒に帰って来てもよかったのだが、ただでさえ母は先日東京に来たばかりだというのに数日と経たぬうちにまた群馬に帰るとなると負担は大きいだろう。

 ということで、僕だけが帰郷するという形になった。

 本来療養の身としてはこんな大きな移動は御法度だ。僕の面倒を見なければならない母としてはこのタイミングでの帰郷は望ましくなかっただろう。

 いや、母でなくても望ましいと思う人は恐らく少数派だ。けれど僕が須田や菅井と電話をしている様子や、何よりやまもんの名前を出したことで母なりに何かを感じてくれたのだろう。

「気をつけてね」と心配の言葉を添えて快く僕を送り出してくれた。そんな母に僕は心から感謝している。

 空を仰ぐと、太陽が眩しく輝いていて咄嗟に目を閉じた。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。

 朝早くに出たため時刻はまだ正午を回っていなかった。

 僕はシャッター街を足早に駆けた。

 シャッター街を抜けると住宅地がある。やたら家が増えていて、まるで別世界にでもいるかのような感覚に陥った。その風景の中に僕の実家があった。

 変わっているものと変わらないものの差が激しすぎて、僕の頭はついていけなかった。

 僕は敢えて実家を素通りした。

 帰る前に、太陽が真上にあるこの時間のうちにどうしても見ておきたい場所があったからだ。

 住宅地を抜けると、広大な田んぼ道が広がっており、更にそれを真っ直ぐ歩くと小さな川に突き当たる。

 その川が、僕とやまもんが幼い頃よく遊んでいた川だ。

 駅から川までその間一度も曲がることはない。それだけが唯一この町の便利なところだろうと、少なくとも僕はそう思っている。

 巨大なショッピングモールを見てあまりの変わりように寂しくなったが、シャッター街、住宅地、広大な田んぼは特に変わりなかったことに安堵の溜息を漏らした。



 駅から歩くこと約一時間、ようやく川に辿り着いた。

 昔と変わっていないことを期待していたが時間の流れは無情にもその期待を裏切った。昔見た風景とは大きく異なっていたのだ。

 河川敷が綺麗にコンクリートで整備されている。駅前で感じた以上の寂しさが僕の胸の締め付けた。

 それでも思い出の地には変わりないと河川敷の階段に腰を下ろし、しばらく川の流れを眺めていた。

 やがて、僕は立ち上がり川沿いのサイクリングロードを北に向かって歩く。

 その先にあるものに期待と不安を抱きつつ、歩く。

 時折、汗がじんわりと額に浮かび、頬を伝って地面に落ちて割れる。

 数分後、まるでそこだけが雑木林のように木々が生い茂っている場所を発見した。

 僕の歩みが自然と早くなっていく。呼吸を忘れるとはきっとこういうことなのだろう。

 目的地へ通ずる階段をゆっくりと上っていく。木々が太陽を隠しているおかげか、とても涼しく感じた。

 ある程度上ったところで目を眇めると、木々の隙間から目的地を、神社の境内の一角を確認した。

 ――あと、少しだ。

 気づけば、僕は走っていた。

 ――ゴール!

 僕は心のなかで声を上げながら境内の正面へ躍り出た。

 幼い頃と何も変わっていない風景が、そこにあった。

 否が応でも街は変わってゆく。無駄に都会感を意識めいた駅前も、僕が生まれる前までは活気があったが今ではシャッター街になってしまっている商店街も、やたら家が増えた住宅街も、整備されて綺麗になった河川敷も、そしてこの場所も。

 変わってほしいところは変わらないのに、変わってほしくないところは変わっていく。その葛藤に悩みながら僕は今ここに立っている。

 僕は、思った。

 大切なところは、肝心なところは何も変わっちゃいなかった。

 心が満たされていくのをはっきりと感じた。

 特別綺麗でもなければ洒落てもいない。どちらかというと汚くて古びているこの場所は、僕のぽっかり空いた心の穴を埋めるには充分だった。寧ろ溢れ返ってしまうほどだ。

 軋む階段に腰を下ろし、賽銭箱に寄り掛かりながら、木洩れ日をぼんやりと眺めた。それが見えなくなる夕暮れまで。

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