第七章 自分との会話「1」

   1



 ――まさかあの少女がやまもんだったなんて。

 最初に逢った時からどこか見覚えがあると思っていたが、そうか、あれはそういうことだったのかと納得した。

 夢であれ何であれ、やまもんの再会できたことが嬉しかった。しかしそれ以上に、

『私はもうあなたの夢には現れません』

 僕がようやく彼女の正体に気づくことができた矢先、逢えなくなってしまった。

 目が覚めてから昨晩の夢を、やまもんの言葉を思い出し、僕はただ涙を延々と流すことしかできなかった。辛くなるとか、切なくなるとか、悲しくなるとか、今の僕の気持ちを表す言葉はたくさんあるだろう。そのどれに該当するのか、いや、恐らく後ろ向きな言葉全てが今の僕に該当するだろう。僕はぽつりぽつりと床に落ちて割れる涙を眺めながら思った。

「ちょっとあんた、どうしたの? なんで泣いてるの?」

 延々泣き続ける僕に気づいた母が驚き声をかけた。僕はそれに答えることができず涙を流し続けた。もはや自分の意思で止めることはできなかった。

「どこか痛いの?」

 昨日の冷たさとは打って変わって母が優しく声をかけてくる。

 ――違う。身体が痛いんじゃない。心が痛いんだ。

「大丈夫だよ……」

 僕は涙を拭い、できるだけ母が聞き取れるよう努めながら答えた。

「じゃあなんで泣いているの?」

 理由なんて、言えるはずもなかった。

「大丈夫だよ。本当に、大丈夫だから……」

 僕は立ち上がりながら言った。きちんと言えているか、伝わっているかどうかとても怪しいところだが。

「僕、少し出掛けてくるよ……」

 僕は言った。

「そう」

 心配そうに母は言った。

「……気をつけてね」

 まだなにかを言いたそうにしている母を尻目に、僕は逃げるように着の身着のまま玄関を開け外へ飛び出した。



 無我夢中で走ってたどり着いた場所は自宅のアパートの近くのゴミが若干多い河川敷だ。

 この河川敷から見える川は普通の人から見れば綺麗な川に見えるだろう。けれど僕にはそれがあまりにも汚く見えてならなかった。それだけ幼き日にやまもんと川で遊んだことが僕にとって美しい思い出なのだ。

 早朝だというのに散歩をしている人がちらほらと窺えた。

 僕は河川敷にしゃがみ、ゆったりとした川の流れを眺める。

 拭っても拭っても、涙が溢れて止まらなかった。

『泣き虫、陽ちゃん』

 夢のなかの少女、やまもんの言葉を思い出す。泣きそうになりながら僕が一番嫌いな渾名で呼んできたあの顔を、表情を思い出す。

 ――ぴったりじゃないか。この歳になっても、何も変わってないや。

『あなたは、変われていない』

 ――ああ、本当に何も変わってないよ。

 僕は足元にある小石を拾い上げて川へ思い切り投げ込んだ。ちゃぽんと小さな音を立てると同時にそれは水中に吸い込まれていった。

 ――くそ野郎。

 自分を嘲った。

 二、三歩先に大きな石を見つけた。立ち上がりその石を両手で持ち、それを思い切り川に投げ込んだ。石が水面に着水すると同時に大きな水飛沫が宙を舞った。

 ――くそ野郎。

 また自分を嘲った。

 それからは落ちているもの、大小様々な形をした石、木の枝、ゴミ等手当たり次第に川に投げ入れた。それでも心が安らぐことはなかった。寧ろ荒れていく一方だ。

 通りかかった犬を散歩しているおじいさんが心配そうに僕の様子を窺っている。傍から見た僕は泣きながら川にものを投げ込んでいる狂人にしか見えていないのだろう。

「くそ野郎!」

 僕はついに声に発して自分を嘲った。それに驚いたおじいさんはビクッとし、こちらの様子を窺いつつゆっくりと離れていった。犬もびっくりしたのか、ひたすら僕に吠えてくる。

「こ、こら」と犬を宥めるおじいさんの声が聞こえてきた。

 ――本当に、僕はくそ野郎だ。



 やがて、おじいさんと犬の姿は見えなくなった。

 既に周りには川に投げ入れるものなんて残っていなかった。

 いや、ひとつだけあった。

 僕は河川敷を降り、川に右足を入れた。水底の泥が水中で舞い上がり僕の右足周りの水が一気に濁った。

 夏といえど、川の水は絶妙に冷たかった。

 右足に続いて左足を入れた。僕の足回りの水の濁りが一層増した。

 僕はそのまま川の中央へ向かって歩き始めた。

 僕の身体をこの川に投げてしまえばいい。

 歩みを進めるたびに川の流れが速くなっていく。それに比例して水深も深くなっていく。すでに太もも辺りまで水に浸かっていた。

 ――最初からこうしていればよかったんだ。

 涙は既に止まっていた。

 僕の足が恐らくこの川で一番深い場所、且つ一番流れが急であろうところを踏もうとしたときだ。

「おい! 御坂!」

 背後から声がした。振り返るとそこには須田がいた。岸から僕を呼んでいる。

「何してんだ! 戻ってこい!」

 僕ははっとした。そして須田の指示通り元来た道をたどり岸に上がった。

 川の方を振り返ると、入るまでは濁っていなかった川の水がこれでもかというくらい濁っていた。

「昨日といい今日といい、お前何やってんだよ!」

 須田が半分怒鳴りながら言った。

「川遊びだよ」

 僕はずぶ濡れになった服の裾を絞りながらぼそっと言った。

「笑えねえよ」

 須田が冷静な声色で言った。

「ここの川、結構深いし流れも急なんだぜ」

「……そうか」

「そうかじゃねえよ。お前、絶対死のうとしてただろ?」

 死のうと、してた? そうか、僕は死のうとしてたのか。

「……かもしれない」

「思い詰める前に相談しろよ。それが友達ってやつだろ?」

「……ああ」

「それで、どうしたんだよ? なにがあった?」

「そういうお前こそどうしてこんなところに?」

 僕は逆に須田に尋ねた。

「俺か? 俺は夜勤帰りだよ。ったく、眠気飛んだぞ」

「ごめん……」

「いいよ別に。それで、なにがあったんだ?」

「――多分、長くなる」

「いいよ、聞いてやる。この際全部吐き出しちまえよ」

 須田は河川敷の階段に座り、笑いながら言った。僕も彼にならい彼の隣に腰を下ろした。そして深く息を吸って吐き、また吸ってを繰り返した。

「えっと――」

 僕は須田の知らない中学の頃の自分のことを話し始めた。大切な幼馴染との『大切な約束』を破ったこと。屋上での一件、雨の日の告白、悲しい別れ、そして二度目の裏切り。

 須田は時折相槌を打ちながら僕の話を真剣に聞いてくれた。

 一連の話をしたのはこれで二人目だ。一人は今隣で僕の話を聞いてくれている須田。そしてもう一人は夢のなかの少女、つまりやまもん本人だ。まさか少女の正体がやまもんだなんて誰が予想していただろうか。

「率直に聞く。どう思った?」

 僕は一連の話を終えた後に須田に尋ねた。須田は少し考え、やがて言った。

「――お前、真面目な奴なんだな」

「――は?」

「そのままの意味だよ。そこまで悩むなんてよっぽどそのやまもんって子のことが好きだったってことだろ?」

「ああ、だから――」

「だから余計辛い、だろ?」

 須田は僕の言いたいことを代弁した。

「ああ」

「でも夢のなかのその子、やまもんさんも言ったんだろ?『既にあなたを赦しています』って。随分メルヘンちっくな話だけどさ」

「まあ、な」

「赦せないのは自分自身、だろ?」

 須田がほぼ核心をついたことを言った。

「本当に真面目な奴だよな、お前」

「頭が固いだけだよ」

 僕は俯きながら言った。

「それがお前のいいところでもあり悪いところでもあるんだよな」

 須田が笑いながら言った。

「悪い方向に転がりすぎてるんだよ、僕は」

「そうやって後ろ向きに考えてきたから今のお前が出来上がってるんじゃないのか? 俺は夢で元カノと再会とか、そんなメルヘンちっくなものは信じてない。けどそれも、今回のこともお前が変わるいいチャンスだと俺は思っているよ」

「けど――」

 僕は言いかけて口を噤んだ。言おうとしたことが後ろ向きなことだったからだ。

「けど?」と須田が尋ねる。

「いや、なんでもない」

「とにかくだ、前向きになってみろよ。そうすれば人生も良い方向に向くさ」

 ――前向きに、か。

「できるかな」

「そんなのお前次第だよ。それでも、どうしても苦しくなったら周りや俺を頼れよ。そうしてくれないと何のために友達やってるのかわからなくなっちまう」

 須田の言葉で確かに僕は救われた。そんな気がした。

「ごめんな、迷惑かけて」

「迷惑なんてかけるものだろう?」

 須田が微笑みながら言った。

「俺もお前に迷惑をかけることもあるしな。お互いさまってやつだよ」

「ありがとう」

 それ以外の言葉が見つからなかった。いや、寧ろそれだけで須田には全てが伝わっている気がした。それを証拠に僕の感謝の言葉を聞いた須田は小さく頷き立ち上がった。

「じゃあ、俺はもう行く。そろそろ眠いしな」

「なあ」と僕は帰ろうとする須田を呼び止めた。

「なんだ?」

「……僕はこれからどうすればいい?」

「――というと?」

「やまもんのこと、どうすればいい?」

 須田は少し考え、やがて口を開く。

「夢のなかでも現実でも、今度はお前から逢いに行ってやれよ」

 そう言って須田は帰っていった。

 須田を見送った後、僕はしばらく川の流れをぼんやりと眺めていた。

 ――あ、そういえば時間。

 スマートフォンで時間を確認しようとポケットを探ったが入っていなかった。着の身着のまま出てきたのでスマートフォンを持ってきていなかったのだ。

 ――帰ろう。

 僕は立ち上がった。座っていたところに水のシミが広がっていた。時間が経てば消えてなくなるだろう。

 服は既に乾いていた。さすが真夏といったところか。

 僕は時折頭上の晴天を仰ぎながら帰路に着いた。



 玄関を開けるとすぐに母が飛んできた。

「……大丈夫?」

 どうやら心底心配していたようだ。まあ無理もない。昨日あれだけのことをしでかして、その次の日に暗い顔してふらふらとどこかへ行ってしまう息子を見て心配しない親はいないだろう。

「大丈夫だよ」

 僕は努めて明るく言った。これ以上誰かに心配をかけるわけにはいかない。

「あんた、やっぱりどこかおかしいよ」

「それ、もしかして馬鹿にされてる?」

 僕はおどけた。

「はぐらかさないで」

 母が若干声を荒らげながら言った。

「私はあんたのことが心配だから聞いているのよ」

「本当に、大丈夫だから」

 僕は念を押すような形で言った。

「それよりさ」

「なによ?」

「――やまもんって、覚えてる?」

「そりゃ覚えてるわよ。よくうちにも遊びに来てたしね。でもいつ頃だったかしら突然転校して遠くに行っちゃったわね」

「その行先ってわかる?」

 僕は食いつくように尋ねた。

「そんなの私が知るわけないじゃない。あんた聞いてなかったの?」

 母が困惑しながら言った。

「それが聞いてないんだ。あのときはそれどころじゃなかった。ただ遠くへ行くとしか聞いてなかったんだよ」

 母は少し考える素振りを見せ、やがて口を開いた。

「やまもんちゃんの仲が良かった子、あんたの他にいなかったの?」

 その言葉を聞いて僕の脳裏に閃光が走った。

 ――そうだ! それだ!

「ありがとう、母さん!」と僕は言いながらベッドに置いてあるスマートフォンを手に取りホームボタンを押したが画面は開かなかった。そういえば電源をオフにしていたんだったと苦笑しながら電源を入れ、連絡先の欄からある人の電話番号をタッチしそのまま電話をかけた。

 かけた相手は勿論須田だった。

「なんだよ」

 須田が眠そうな声で電話に出た。

「急にすまん」

 僕はまず急に電話をかけたことを謝罪した。

「いいよ、別に。それでなんか用か? さっきの話の続けでもすんの?」

「まあ、そんなところだ」

「ほう? それじゃあ手短に頼むわ」と須田が真剣な声色で言った。

「単刀直入に聞く。お前、菅井の電話番号持ってたろ? 僕、携帯変えてからあいつの電話番号登録していないんだ」

 菅井は僕と中学が一緒だった奴で同じ高校に進学し、一年生の時に須田とクラスが同じだった女子だ。

 当時僕はA組で須田と菅井はE組だった。ちなみに彼女は現在大阪の専門学校に通っているらしい。

「持ってるけど、知ってどうすんの?」と須田が訝し気に聞いてくる。

 僕はすうと息を吸って吐く。

「夢のなかの彼女に逢いに行くための準備をするんだよ」

 はっきりとした声で言った。僕の言葉で全てを察したのだろうか須田は「なるほどな」と言い、やがて僕の携帯が受信メールの通知音を鳴らした。通話をバックグラウンドに設定し、送られてきたメールの内容を確認した。そこには菅井の連絡先があった。

「感謝しろよ」

 須田が欠伸交じりに言った。

「ああ、助かる。ありがとう」

「じゃあ、俺は寝るよ」

「ああ、おやすみ。夜勤お疲れ様」

 そう言って僕は電話を切った。

「……須田君?」

 母が僕の電話の相手を察したのか、訝し気に僕に尋ねてきた。

「ああ、そうだよ」

「なんの電話をしていたの?」

 僕はそれには答えず、代わりに「ごめん」と謝罪をした。

「なんで急に謝るのよ」

 母は驚いた表情をしている。

「昨日のことと、今日心配かけたこと。それから――」

 僕は言ったところで一旦一呼吸置いた。

「それから、昨日貰った、いや、借りた一万円を生活費として使わないことを謝るよ」

「あれはあげたのよ」

 母は貸してはいないということを強調するように言った。

「まあ、いいわ。それで? つまりどういうことよ?」

 母の質問に対し僕は、

「夢のなかの彼女に逢いに行くんだ」と真顔で答えた。

「――は?」

 母はぽかんと口を開けたままこちらを見つめている、というより眺めている。まあ、当然の反応だろうなと思いながら僕は苦笑した。

「群馬に、帰るよ」

 僕は一言だけ言った。

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