第六章 現実と、夢「3」

   3



「あまり私に固執しすぎてはいけないと、言ったはずですよ?」

「別に固執しているわけじゃないよ。ただ、なんというか、君といると変われる気がするんだ」

「それは良い方へですか? それとも悪い方へですか?」

 思ってもいないことを言われ、思わず僕は言葉を失った。

 変わるというのは全てが良い方向に変わるとは限らないことに気付いた。

 現実での出来事が脳裏へと浮かんだ。

「今のところは、良い方へ変われていると思っているよ」

 僕は少女から目を逸らし、俯きながら言った。

「それなら、いいのですが……」

 ちらりと顔色を窺うと、少女は心配そうな表情をしている。

 ――嗚呼、僕は一体何人にこんな顔をさせてきたのだろうか。

 須田、母親、少女、そしてやまもん。数え上げればキリがない。

「君が夢に出てきてから、モノクロだった日常に色がついた気がしたんだ。だから、良い方へ変われているよ」

「それは夢のなかだけの話でしょう? 現実で変われないと意味がないのです。あなたが生きているのは夢のなかではありません。現実です」

 少女は窘めるように言った。

「あなたは一度思い込むとそれに執着、固執する癖があります。今までだってそうだったでしょう? その、『大切な約束』を守れず大切な人を裏切ったと思い込んで、それからを中途半端に生きてきて――」

「思い込んでなんかいない。僕は確かにやまもんを裏切った」

 僕は言い下唇を噛んだ。

「いや、やまもんだけじゃない。たくさんの人に迷惑をかけている」

「それはあなたがまだ変われていないからです」

 少女はきっぱり言った。

 変われていないという言葉が僕の心に深く突き刺さった。ちょっとやそっとの力じゃ抜けないくらいに。

「君は僕のことが好きなんだろ? なんでそんなことを言うんだ?」

「好きだから故に、です」

 少女が真剣な表情をしながら答えた。

「僕は君を受け入れた。消極的で、自暴自棄なこの僕がだ。君のおかげで変わることができたんだ」

「いいえ、あなたは変わってなんかいません」

 少女ははっきりとした声できっぱりと言った。

「それは……」

 反論しようとしたが、悔しいことにぐうの音も出なかった。現実世界で僕が起こしたことを振り返るとそれを嫌でも思い知らされた。

「まだ、あなたは過去を引きずっています。そればかりか今のあなたは目を背けようとしています。つまり、自分から逃げています。あなたは夢のなかに、私に逃げています」

「別に逃げてなんか――」

「いいえ、逃げています。何年も変われなかった人がこんな数回の夢程度で変われると思うのですか?」

「それなら、それならなんで君は僕の夢のなかに現れるんだ? どうせ変われないならこんな夢、最初から意味なかったじゃないか。なんのために君は僕の夢の中に出てくるんだよ」

 僕は涙を流しながら少女に訴えた。

「意味を無くしているのは夢をみているあなた自身です。つまり、あなたの考え方ひとつでこの夢は大きな意味を持つことにもなるのです。あなたが変わればこの夢は大きな意味を持つのです」

「そんなの、分からないよ……」

 僕は頭を掻きむしりながら言った。そんな僕の様子を見た少女は静かに、苦悶の表情を浮かべながら口を開いた。

「泣き虫陽ちゃんは、まだ健在なのですか?」

「やめろ!」

 僕は自分の髪をぐしゃっと掴みながら絞り出すような声で言った。

「その渾名で呼ぶな!」

「泣き虫、陽ちゃん……」

 少女は泣きそうな表情をしながら、もう一度僕の渾名を呼んだ。

 ――なあ、おい。なんでお前が泣きそうな顔をしているんだ。泣きたいのはこっちのほうだ。一番嫌いな渾名を一番言ってほしくない人に言われる辛さが、お前に分かるのか?

「やめろよ!」

 僕は膝から崩れ落ちた。

「なんで君までそんなことを言うんだ」

「あなたは、変われていない」

「分かっているよ。変われていないことくらい。ああ、分かっているさ。いや、分かってしまったんだ」

 僕は嗚咽交じりに言った。

「怖い、怖い怖い。自分が怖い。周りが怖い。何もかもが怖くて仕方がない。そんなときに君が手を差し伸べてくれた。僕にはもう君しか残っていなかったんだ」

「……はい」

「色をくれたのは君だ」

「……はい」

「愛をくれたのは君だ」

「……はい」

「僕はそれに縋るしかなかったんだ。いつの間にか僕は君を好きになってしまっていたんだ」

「……はい」

「前に勝負だとかなんとか言ってたよな? 完全に僕の完敗だよ。僕は君に惚れた。そして現実と夢の区別がつかなくなった。ああ、そうさ。僕は何も変われていない。僕は、やっぱり資格なんかないんだ」

 自嘲的に笑いながら、自虐的な言葉を羅列した。こうなると僕は歯止めが利かない。変われていないどころか寧ろ酷くなっている気がする。いや、もう、そんなことすらどうでもよくなった。

「……悲しいです」

 少女は言った。その目には涙が浮かんでいた。やがてそれは頬を伝い、地面に落ちて割れた。

「なんで、君が泣くんだよ」

 ――何度も言っているだろ。泣きたいのはこっちなんだ。

「あなたは本当に悲しい人です。幸せを得られたはずなのに、私が足枷になってしまっているから、それ故に苦しそうにしている」

「足枷になんて、そんなこと思ってないよ」

 思ってもいないことを言われた僕は身を乗り出すように言った。

 幸せならとっくに掴んでいる。僕は夢を見ることで確固たる幸せをしっかりと掴んでいるのだ。それなのになぜこの少女が、自分から言い寄ってきたこの少女がそんなことを言うのだろうか。

「……僕には分からないよ」

 僕は俯きながら言った。

「何もかもがごっちゃごちゃだ。幸せって、一体なんだっけ?」

 少女は黙って僕の言葉を聞いている。

「……なあ、答えてくれよ。今僕が感じていることが幸せじゃないのなら、それなら本当の幸せは一体何なんだ?」

 もはや縋るような勢いだった。

「……きっと、もう、私の夢を見ないことだと思います」

 少女は涙を拭いながら言った。

「もう、私に逢わないことが、あなたの幸せなのだと思います」

 僕の思いに反して、少女は僕に残酷な現実を突きつけてきた。

「あなたが私に逢い続ける限り、あなたは現実世界で幸せを得ることはできません」

「で、できるさ」

「いいえ、できません。今回現実世界であなたの身に起きた出来事がそれを物語っています」

 少女は真剣な面持ちでまっすぐ僕の目を見つめながら言った。

「私はもう、あなたの夢には現れません」

 少女のその言葉は、僕にとって絶望を意味していた。

「やめろ、やめてくれ!」

 僕は少女に縋りつきながら言った。

「行かないでくれ! 僕は――」

 縋りつく僕を少女は引き剥がし、ゆっくりと僕から離れながら言葉を連ねた。

「雨が、また降ってきました」

 空を見上げると今まで見たことのない黒い色の雷雲が広がっていた。まるで僕の心のようだ。

 やがて雷が鳴り響き、僕は咄嗟に耳を塞いだ。

「やっぱり、何も変わってないね、陽ちゃん」

 少女が徐々に僕から遠ざかりながら言った。

「私だよ」

 馴染み深い、懐かしい渾名で呼ばれ、僕の胸に切なさと、罪悪感が一気に広がった。

「……やまもん、なのか?」

 僕はおそるおそるたずねた。

「……うん」

「なんで――」

 僕が何かを言おうとした瞬間再び雷が大きく鳴り響き、雨がぽつりぽつりと降り始め、やがて嵐になった。

 やまもんの身体が宙に浮く。そして、僕から離れていく。

 ――待ってくれ! 僕は君に言わなくてはならないことがあるんだ!

 立ち上がり必死にやまもんを追いかけた。けれど、走っても走っても、彼女に追いつくことができない。

 ――待ってくれ、やまもん! 待ってくれ!

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