第六章 現実と、夢「2」

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 目が覚める。天井のシミを目視するのに少し時間がかかった。なぜなら、部屋が暗かったからだ。

スマートフォンを開き時刻を確認すると午前一時過ぎだということを知り僕は驚愕した。所謂中途覚醒というやつだ。

 寝直そうと目を閉じたが一向に眠気はやってこない。

 眠ることを諦めた僕は溜息を吐きながら立ち上がり、台所でコップ一杯の水を飲んだ。

「ふう」

 息を吐き、部屋に戻りスマートフォンで検索をかける。

 ある程度予想はしていた。スマートフォンなどのIT機器の強い光、ブルーライトと呼ばれているものを浴びすぎると睡眠の妨げになるらしい。検索結果を見た僕はやることがないからと一日中スマートフォンをいじっていた昨日の自分を思い出し苦笑した。

 僕はスマートフォンの電源を切りテーブルの上に雑に置いた。不便になるかもしれないが、致し方ない。今の僕に必要なことは睡眠を取ることだ。

 意地でも眠ろうと試みたが、やはり一向に眠気はやってこなかった。

 次第にカーテン越しに光が見え始め、起き上がりカーテンを開けると既に空は白んでおり、その光景を見て深い溜息を吐いた。

 ――一体何をやっているんだろうな、僕は。

 自分に問いかけてみても中途半端な虚無感が胸に広がっていくだけだった。



 結局、起きてから朝に至るまで入眠することは叶わなかった。

 僕は朝ご飯の支度をするために台所に立った。

 節約のため、相も変わらずもやしを炒めただけの簡単な料理を作った。果たしてこれを料理と言えるのだろうか。

 炒めたもやしを皿に盛りつけ、思い出したかのように醤油をかけた。炒めているときに醤油を入れ忘れたのだ。

 面倒なので米を炊くことはしなかった。代わりに須田から貰ったコンビニ弁当をレンジで温めた。

 テーブルに弁当ともやし炒めを並べ、いざ食べようと手を合わせたが、どうにも箸を持とうと思えなかった。単純に食事をすること自体が億劫に感じたのだ。

 それでも箸をとり、それぞれ一口ずつ口に含み咀嚼し、飲み込んだ。そしてそれ以上食べることはせず、ラップをかけて、冷蔵庫に放り込んだ。

 さて、今日も今日とて、一体何をすれば良いのだろうか。

 ――嗚呼、夢の続きが見たい。

 ベッドに身を投げながら思った。

 ――嗚呼、逢いたい。

 僕の人生に色をくれた架空の少女に、僕は完全に恋をしてしまっていたようだ。

 昨日、というより今日見た夢を思い出す。水を両手に掬って、それを宙へ放つ少女の姿を思い出す。いつか幼き日に見た光景を、もう一度見たかった光景を、たとえ夢のなかであれど見ることができた。その細やかな幸せが、今の僕にとっては鮮やかな色そのものだった。

 胸に手を当てると鼓動が激しく脈打っていた。

 僕はテーブルに置いてある睡眠導入剤の箱を手に取った。

 とにかく眠りたかった。

 夢のなかの少女に、彼女に逢いに行きたかった。

 できるだけ長く彼女といるためには長く睡眠をとる必要がある。

 僕は箱から一錠取り出し手の平に乗せた。それを口に放り込もうとしたときに思った。

 薬の量を増やしてみよう。そうすれば長く眠れるかもしれない。

 過剰摂取が危険だということは分かっていた。けれどそんなことどうでもよかった。とにかく彼女に逢いたかったから。その気持ちのほうが圧倒的に勝った。

 僕は残り全ての錠剤を手の平に乗せ、台所に立ち、コップに水を注ぎ、錠剤を口に放り込み、水で流し込んだ。

 しばらく時間が経つと猛烈な吐き気に襲われた。耳鳴りも酷かった。自分の声がまともに聞こえなくなるくらいにだ。

 肝心の眠気はやってくることはなかった。

 ――くそ……。

 本当に、一体僕は何をやっているのだろうか。我ながら泣けてくる。

 視界が霞んできた。どうやら本当に涙が出てきてしまっているようだ。

「逢いたい……」

 ――誰に逢いたいんだ? 夢のなかの彼女か?

「ああ、逢いたい。もはや透明なりかけていた僕の人生に、僕に色をくれた人だから」

 ――でも、それは夢のなかだけの存在なんだぜ? 本当に逢いたいのは誰なんだ?

「やま、もん……」

 僕は涙を流しながら、まるで嗚咽のように最愛の人の名前を口にした。

 ――逢いたい、逢いたいよ……。

 変われたと錯覚していただけなのだろうか?

 一体これは何度目の涙だ?

「逢いたいよ……」

 ――誰に?

「……逢いたいんだ。もう一度、夢のなかのあの子に」

 ――いいのか? あれはお前の願望が作り出した幻想に過ぎないんだぜ?

「……わかっているよ。でも、今だけは、それに甘えさせてくれ」

 やまもんに逢えないことくらい、わかっていた。そんな逢えない辛さを、今までの憂いを夢のなかの少女は拭ってくれた。

 自問自答を繰り返す。

 頭は割れるように痛みだした。過剰摂取による副作用がピークに達したらしい。

「痛い……」

 頭も心も、どちらも痛かった。

 ピンポーン、と呼び鈴が鳴った。誰かが来たようだ。

「おい、御坂。俺だ」

 聞き慣れた声がした。

「……須田、か?」

「ああそうだ。開けてくれ。差し入れ持ってきてやったぞ」

 須田が玄関のドア越しに陽気な声で言った。

 僕は猛烈に痛む頭を押さえながら立ち上がり、ふらつきながら玄関に向かい鍵を開けた。そして、その場に倒れ込んだ。

 玄関のドアが開いた。

「よお、御坂。体調は――、っておい! 大丈夫か!? 救急車か!? 救急車呼ぶか!?」

「大丈夫だ。ただの風邪だよ。だから心配するな」

 僕は力なく言った。

「とりあえずベッドに――、っておい、なんだよこれ……」

 須田が驚きの声を上げながらテーブルに置いてある空の小瓶を手に取った。

「お前、まさか、これ全部飲んだのか?」

「あ、ああ……」

 僕は頭を押さえながら力なく言った。もはや嘘を吐く気力すらなかった。

「……救急車、呼ぶぞ」



 病室内、僕は医者の前で項垂れながら叱責を受けていた。

「それで? 夢を見たいから睡眠薬を過剰摂取したと?」

 胃洗浄を終えた僕に医者が呆れながら言った。医者の顔にはそんな馬鹿馬鹿しいことで過剰摂取するなんてと書いてあった。

「すいません……」

「ご友人の方が救急車を呼んだからよかったものの、一歩間違えたら後遺症が残ることだってあるんですよ? まあ、今回は量も少なかったですから、そこまで深刻にはなりませんでしたが」

「はい、すいません……」

「本当にわかってるんですか?」

「はい……」

 僕は両腕に刺さった点滴を眺めながら言った。

 病室のドアが勢いよく開く。

「陽太! あんた何してるの!?」

 入ってきたのは、母だった。

「母さん? なんで?」

「なんでって、電話であなたが倒れたって言うから急いで来たのよ」

「じゃあ、倒れた理由も――」

「ええ、聞いたわ」

 母はきっぱり言った。

「馬鹿なことをしたわね」

「ごめん、母さん……」

「本当よ」

 母は眉間に皺を寄せながら言った。どうやら相当怒っているようだ。まあ、無理もないだろう。くだらない理由で病院に搬送されるなんて、そりゃ誰だって怒るに決まっている。風邪で搬送されるのとではスケールも違う。

「先生、須田くん、本当にありがとうございました」

「いえいえ、大丈夫ですよ」

 須田が笑いながら言った。

「療養の期間、伸びましたね」

 医者は冷静に言った。

「そんな……」

 僕は激しく落胆した。

「できればお母様はこちらに残って療養のお手伝いをしていただきたいのですが」

「どれくらいですか?」と母が医者に尋ねた。

「そうですね、二週間ほどは様子を見てください」

「はい、わかりました」

 母は溜息交じりに言った。

「本当に、ご迷惑おかけしました」

 やがて点滴が終わり僕は病院から解放された。須田はバイトがあるため点滴が終わる頃には姿はなかった。

「それではお大事にしてください」

 医者が言っているのを背中で聞きながら、僕は点滴の針が刺さっていたところを擦りながら病室を出た。



「冷蔵庫にもやししかないじゃないの」

 母が冷蔵庫を開けるなり大きな声で言った。

「安いからさ」

「安いって、もうちょっと健康考えたらどうなの?」

「お金が、ないんだよ……」

「なんで連絡しないのよ?」

「それは……」

 僕が口ごもっていると痺れを切らした母が自分のバッグから財布を取り出し、そこから一万円札を取り出すと、僕にそれを差し出して渡してきた。

「生活費の足しにしな」

「いや、いいよ」

「よくないわよ」

 母が僕の手に無理やり一万円札を握らせた。あまりにも強引だったため綺麗だった一万円札はくしゃくしゃになってしまった。

「今度は栄養失調で倒れる気?」

 母の勢いに圧倒された僕は渋々それを受け取って自分の財布の中に入れた。

「いつまで僕の家にいるの?」

「二週間よ。聞いてなかったの?」

「いや、ほら、仕事とかあるじゃん」

「しょうがないじゃないの」

「そうだね、ごめん……」

 僕は俯きながら謝罪した。

「そういうとこ、全く変わってないわね。なんのために上京したんだか」

「そういうとこって?」

 僕は顔を上げながら言った。

「すぐに後ろ向きになる癖よ。小さい頃から何も変わってないんだから」

 変わって、ないのか。

「……ごめん」

 僕は、謝った。

 ――くそ……。



 その日の夕食はご飯に味噌汁に魚の塩焼きといった、とてもバランスのとれたご馳走だった。

 味噌汁をすすると懐かしい味がして、一瞬胸が一杯になったが、僕がこんなことにならなければ母もわざわざ群馬から東京まで来て夕食を作らなくてよかったということを考えると申し訳なくなった。

 夕食を食べ終え、処方された風邪薬を飲み、僕はベッドに横になっていた。台所では母が食器を洗っている音が聞こえる。至れり尽くせりだなと思いながら苦笑した。

 やがて眠気がやってきた。

 ――やっとだ。やっと眠れる。やっと逢える。

 僕は、静かに目を瞑った。

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