第六章 現実と、夢「1」
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「おはようございます、というのもなんか変ですね」
少女は言った。
「ああ、そうだな」
僕は苦笑した。
現実世界で眠り、夢の世界で目が覚める。最初の頃は鬱陶しいと思っていたのが、心境の変化なのだろうか、今ではとても心地良く感じる。
空はすっかり晴れているらしく、木々の隙間から太陽の光が差し込み、その温かさが僕の心をより一層和ませた。
こっちの世界では、おそらく時刻は朝方なのだろう。
「こっちはもう夜が明けたのか?」
「はい、おかげさまで」
「ずっと、ここにいたのか?」
「あなたの夢ですから、ここ以外どこにも行けませんよ」
少女が微笑みながら言う。
「それは不便だな」
「いえ、それほど苦ではないですよ。私はこの場所が好きですから」
「それでも、どこかに遊びに行ったりとかしたいだろ?」
「そうですね、少しは、思います。でも――」
「それなら、今からどこかに行かないか?」
僕は少女が何かを言おうとしていたのを構わず言った。
「僕が想像すればいいんだろ?」
「……まあ、そうですね。でも、それはあまりなさらないほうがいいですよ?」
「どうしてだ?」
「やりすぎると、区別がつかなくなります。あくまでここは”夢のなか”なのです。そして、私は夢のなかだけの存在なのです。それを理解してください」
少女はどこか寂しげな顔をしながら言った。僕はなぜ少女がそんな顔をするのか分からなかった。
それでも僕は言った。
「大丈夫さ、そういうことはわきまえているよ」
「……本当ですか?」
少女が不安そうに言った。
「ああ、本当さ。だから大丈夫だ」
「分りました。あなたの言葉を信じます」
少女は安心したのか、表情を緩ませ、そして微笑んだ。
「それで? どこに行きたい?」
僕は少女に提案を促した。
「川へ、行きたいです」
「川?」
「そうです。川です。川で水遊びがしたいです!」
少女はいつになくはしゃぎながら言った。
「――ああ、わかった。行こう」
僕は少女の望みを叶えることにした。
僕の夢のなかの川は、それはそれは綺麗な場所だった。
僕は土手に座り、少女は僕の後ろに立ち、お互い静かに水面に映る太陽を眺めていた。時折水の流れによってそれらは歪んで見えた。
子供の時、『大切な約束』をしたあの日をふいに思い出し、感傷に浸った。
いじめっこに初めて勝ち、初めて自分が変われたと思えたあの日、僕は何を思っていたのだろうか。
あの時やまもんが僕に何を言ってくれたのか、今となっては何も思い出せない。けれど、それはずっと昔のことだ。思い出せなくても仕方がない。
やまもんのことについて思い出せることと言えば、二度も裏切ってしまった苦い記憶ばかりだ。
保健室での記憶が蘇る。生々しい左手首の傷。あれは僕に対する、周りに対するやまもんの最後のSOSで、僕はそれに気付くことができて、彼女を大切にすると誓い、そして付き合った。あの雨の日、僕は確かに変われた、はずだったのだ。
「昔のこと、思い出しているのですか?」
背後から少女が言った。
「――ん? ああ、まあな」
僕は水面に映る太陽から目を離さずに答えた。
「……また後ろ向きになってしまっているのですか?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ――」
「ただ?」
「――なんというか、少し思い出して切なくなったんだ。変わるって決意したっていうのに女々しいよな、僕って」
「大丈夫です。そんなあなただから好きなんですよ」
少女は明瞭な声で言った。
「ああ、ありがとうな」
僕は振り返らずに礼を言った。
「つい最近までは、人に好かれること自体に罪悪感があったんだ。いや、今だってそれが完全に消えたわけじゃないと思う。その、なんというか、自分が分からなくなったんだ」
僕は足元に転がっている小石を拾い水面に映る太陽に向かって投げた。小石が水面を叩き、水中に吸い込まれ、水面に映る太陽は大きく歪んだ。
「付き合って早々過去の話をする男って、最低だよな」
僕は歪んだ太陽を眺めながら言った。
少女は静かに僕の隣に腰を下ろして小石を拾い、僕に倣いそれを川に向かって投げた。
「そう思わない人もいますよ。あなたの隣に」
「やめろよ。ますます自分が情けなくなる」
「じゃあ、変わることを止めますか?」
少女が微笑みながら言った。
「……いや――」
僕は首を振った。
「今度こそ変わりたい。いや、変わるよ」
「固執しすぎる様なことはないようにしてくださいね? 私はそれだけが心配でなりません」
「どうだろうな、人は同じ過ちを繰り返す。僕がやまもんを傷付けたように、今度は君を傷付けるかもしれない」
「傷つけるとか、そんな話はしていません。固執しすぎないでほしいと言っているんです。それに、私は傷つけられてもいいのです。それが人生、人ってやつですよ」
「話のテーマが随分大きくなったな」
僕は苦笑しながら言った。
「以前にも言いましたが、人は生きている以上誰かを傷付け、誰かに傷付けられながら生きているのです。そして、それを赦し赦されながら生きているのです」
「ああ、確かに言っていたな」
「私は、既にあなたを赦しています」
少女は水面を眺めながら静かに言った。
「既に?」
「失言でした。今の言葉は忘れてください」
少女は立ち上がりながら靴を脱ぎ、ゆっくりと川に入りながら言った。
「それよりも、早くこっちに来てください。水が冷たくてとても気持ちいいですよ」
――可愛いな。
両手で水をすくって、それを宙へ放つ少女を見ながら思った。
僕も少女にならい靴を脱ぎ、ゆっくりと川に入った。
「ね? 冷たくて気持ちいいでしょ?」
少女がはしゃぎながら言った。
「ああ、そうだな。って冷た!」
突然少女から水をかけられ、思わず驚きの声を上げてしまった。
「川遊びといえばこれでしょ?」
少女が悪戯っぽく笑った。
「さあ、どこからでもかかってきてください」
そんな少女の仕草に思わず笑みがこぼれた。
――大切にしよう。
そう、心から思った。
遊び疲れた僕らは濡れた服を乾かすために土手に寝そべっていた。
「手加減しないのな」
「勝負ですからね」
「バケツに水とか、あれは反則だよ」
「――ふふ」
少女が笑う。
「何がおかしいんだ?」
「いえ、こっちの話です。気にしないでください」
太陽が濡れた服を徐々に乾かす。真夏で気温が高いということもあって、乾かし始めてからわずか三十分ほどで完全に乾いた。
「さて、服も乾いたことですし、もう一回戦やりますか?」
少女が起き上がりながら言う。
「勘弁してくれよ」
「それじゃあ、さっきの神社でまた休みますか?」
少女が提案する。僕はその提案に賛成することにし、ゆっくりと身体を起こした。
「じゃあ、行こうか」
土手を上り、サイクリングロードを北へ向かって歩いた。なんとなくデジャブを感じたが、夢のせいだろうと思い、気にせず歩いた。
やがて境内に戻ってくると僕らは苔の生えた階段に腰を下ろした。
「さすが夢だな」
「はい?」
「いや、昔僕が遊んだところが忠実に再現されていてさ、なんか懐かしくなったよ」
「それは良かったですね」
少女はにっこりと笑った。
現実世界はまだ深夜だろうか、それとも朝陽が昇り始めているのだろうか。
できればまだ深夜であってほしいと思った。
「――もう、時間です」
そんな僕の気持ちに反して、少女は僕の目をじっと見つめながら静かに言った。
「早いな」
「夢って、意外と早く覚めるものなのですよ」
「また、逢えるのかな」
「逢えますよ。あなたが私を望めば」
僕は安堵の溜息を吐き、胸を撫で下ろした。
「そうか、それなら安心だ。それじゃあ、また今夜」
「――ええ、また」
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