第五章 変化の苦悩「2」

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「随分と急な心境の変化が、あったみたいですね」

 背後から声がした。

「ああ、おかげさまでな」

 僕は振り向かずに、静か言った。

 微かに空が白んでいた。辺りを見回すと、ところどころで雨水が微かな光に反射して、少しだけ眩しく見えた。

「――わざわざ睡眠導入剤まで買って、極端な人ですね」

「変わらないとって、思ったんだよ」

 きっと、僕は自分自身から逃げていたのだと思う。自分の過去を見つめているようで、目を逸らしていたのだと思う。そして、それを免罪符にしていたのだ。夢を見なければ、少女に出逢わなければ、気付くことはできなかっただろう。

『頑固な人ですね』

 以前少女に言われた言葉を思い出し、苦笑した。

「変わることって、とても難しいんですよ」

「ああ、そうだな」

 僕は、空を見上げながら言った。

「本当に、痛感するよ」

 後ろ向きな考えを変えようと懸命になろうとしている。結果は出せていないが、懸命になろうとしているだけでも大きな進歩だ。

 白んだ空が少し暗くなった。おそらく昇り始めようとしている太陽を雲が隠してしまったのだろう。

「私の好意を、受け入れられるのですか?」

 僕は振り返り、少女を見つめた。

「……どうかな」

 僕は俯いた。

「多分、まだ難しいと思うよ」

 誰かを傷付けるのが怖い。親しい関係になると、それが壊れるのが怖い。ましてや、それが自分の手によって壊れるのが怖い。

「傷付けるかもしれない。悲しませるかもしれない。それが怖いんだ……」

 僕は静かに言った。

「人は生きている以上誰かを傷付けながら生きているのです。それは仕方のないことなのです。傷付けるのが怖いから誰とも親しくしないというのは、それこそ、逃げだと私は思いますよ。誰かを傷付けた分、誰かを幸せにしようと思わないのですか?」

 少女は真剣な顔をしながら言った。

「――ふふ」

 僕は思わず笑ってしまった。

「何がおかしいのですか?」

「いや、いつになく饒舌だなと思ってさ」

「……からかってるのですか?」

「いや、別にそうなつもりはないよ。ただ――」

 僕は言いかけて、言葉を止めた。

「ただ、なんですか?」

「ただ、なんというか、少しは晴れてきたよ。少しは、ね」

 空を指さしながら言った。雲がはけ、その隙間から薄らとほんのり明るくなっている空が見えた。空に瞬く星たちは白んだ空に自分の立ち位置を譲り、やがて空と同化して消えるだろう。日が昇るのは時間の問題だ。

「それなら、良かったです」

 少女は僕の言いたいことが伝わったのだろうか、柔らかな笑顔で言った。

「それで、僕はどうすればいい?」

 僕は少女に尋ねた。変わるにはどうすればいいのか、彼女なら知っていると思ったからだ。やまもんを裏切ってからの僕の人生は白か黒か、はたまた透明か、とにかく色が無かった。そんな色の無い僕の人生に色をくれた彼女なら答えてくれると思った。

 少女は少し考える素振りを見せながら、やがて口を開いた。

「それなら、私の好意を受け入れてください」

「結局それに落ち着くのか」

「勘違いしないでください。私は私の気持ちを満たすためだけにこんなことを言っているわけではありません」

「じゃあ、どういうことだ?」

「あなたは誰かを、人を傷付けるのが怖いと言いました。私は、人は生きている以上誰かを傷付けるものだと言いました。私はあなたに傷付けられようと思います。そして、私もあなたを少なからず傷付けることでしょう。それは生きていくうえで致し方ないことです。それを赦すことができてこそ親密な関係なのではないでしょうか?」

「――つまり、君は僕と親密な関係になりたいのか?」

「はい、そうです」

 少女は真剣な眼差しで僕を見つめながら言った。

「……どうして、そこまで僕のことを――」

 僕には少女の真意が分からなかった。けれど、彼女の言葉を聞くたびに少しずつだが、心が楽になっていくのを感じた。

「……君は、なんで僕のことが好きなんだ? こんな僕をどうして好きになったんだ?」

 僕は僕の疑問の核心に触れてみた。

 少女は真剣な眼差しで僕を数秒見つめた後、やがてふうと息を吐き、言葉を連ねた。

「――それは、あなたが今でも私のことが好きだからです」

 心臓が激しく脈打つのを感じた。

 ――今でも?

「どういうことだ? 僕は人を好きになったことなんて――」

 人を好きになったことなんて、好きになる感情なんて、あのとき捨てたはずだ。

 この少女は一体何を言っているんのだろうか。

「……鈍いですね」

 少女はにっこりと微笑んだ。

「まあ、それはいずれ分かります」

 少女の正体が知りたいと思った。目の前にいる僕のことを知っている彼女を、僕のことを好きだという彼女を知りたいと思った。そのためにはどうすればいいのか、答えは明確に決まっていた。

「なあ」

「なんですか?」

「僕が君を好きかどうか、はっきりさせよう」

「――ということは?」

「いいよ、付き合おう」

 僕ははっきりと言った。

 少女は一瞬複雑な表情をしたが、すぐに微笑んだ。

「受け入れてくれますか?」

「ああ、受け入れるよ」

「それじゃあ――」

 少女は言いながら身体をこちらに寄せてきた。

「抱き締めてもらって、いいですか?」

 僕は少女の言葉に無言で頷き、彼女の腰に手を回し、抱き締めた。柔らかくて、抱き締める加減を強くすれば容易く崩れてしまいそうだった。

 僕が女性を抱き締めたのは二人目だった。一人は現実で、もう一人は今夢の中で。

「どんな、気分ですか?」

 少女が僕に尋ねた。悔しいが、とても心地が良かった。

 白んだ空が、濡れた木々たちが、古びた境内が鮮やかに見えた。こんなにも綺麗だとは思わなかった。

「――どちらかと言えば、良いかな」

 僕は言い、ふふと笑った。捻くれた言葉しか紡ぎだせない自分を笑った。

「捻くれてますね」

 少女が僕を見つめながら微笑んだ。

「たとえ夢だとしても、幸せになってください。それが私の、あなたに対する願いです」

「――睡眠導入剤、買ってよかったよ」

「話を逸らさないでください」

 僕の、夢のなかの彼女がふふと微笑みながら言い、そして僕の身体から離れた。彼女が離れると同時に僕と彼女の間を風が通り抜け、少しだけ肌寒くなった。それと同時に抱きしめたときの彼女の温もりを思い出し、心が安らいだ。

「なあ、君の名前はなんだ? そういえば聞いてなかったのだが」

「それもいずれ分かります。というより、いずれ思い出します」

 含みある言葉を残し、少女は僕の目の前で両手をパンと合わせた。

「な、なんだ?」

「受け入れてもらえたのは嬉しいですけれど、あまり私に固執するのもやめてくださいね」

「……どうしてだ?」

 僕は言った。別に固執しているつもりはないのだが。

 少女は悩むような素振りを見せ、複雑な面持ちをしながら、やがて口を開いた。

「あなたが生きているのは夢のなかではありません。あなたはあくまで現実世界の人です。ですから、あまり私に固執しないでくださいね。でないと、あなたは本当の幸せを手に入れることができませんから。私から告白しておいてこんなことを言うのもあれですけど、私はあなたが幸せになるための土台だと思ってください。わかりましたか?」

 言いたいことはたくさんあったが、少女の真剣な眼差し、表情を見るとそれらは憚られた。

「わかった。肝に銘じておくよ」

「ありがとうございます」

 少女は礼を言いながら表情を緩ませた。

「また、逢いに来てくださいね」

「ああ、明日の夜にでも、また逢いに来るよ」

「それでは、また」

「――ああ、また」

 視界が徐々に霞んでいく。

 そのときの最後に見た少女の顔は、まるで僕のことを心配しているような表情だった。

 ――なんで、そんな顔するんだ?

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