第五章 変化の苦悩「1」

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 目を覚ますと、目の前には冷蔵庫が突っ立っていた。冷蔵庫と床の間に1ミリ程度の隙間が空いており、そこに細かい埃などが溜まっている。

 あとで掃除をしなくては、と思った。

 どうやら僕は耐えられなくなって台所で眠ってしまったようだ。

 人間は十日程は起きていられるらしいが、三日でこの有様だから十日も寝ずにいたらどうなるのかなんて考えたくもない。日にちを重ねるにつれ徐々に身体は壊れていき、それと同時に精神も壊れていくことだろう。

 十日は勿論だが、三日も同じ。できれば徹夜もあまり、というか絶対にやらないほうがいいだろう。一日でもきつかったのだ。それを三日も達成した僕を褒めてほしいものだ。

 いやしかし、以前に引き続き、なんて夢を見てしまったのだろうと僕は立ち上がりながら項垂れた。

 顔に触れてみると、不自然に熱い。

 僕は冷蔵庫の取手に目をやった。鏡のような作りになっているためそこには僕の顔が写っている。その顔は火照っており、所謂赤面している状態だった。

 キスをされたが故に赤面しているのか、若しくはそんな夢をみた自分を恥じているのか、それともその両方か。

 どちらにせよ、好ましくないことだ。

 一応体温計で熱を測ってみたところ、熱は少しあった。おそらく三日間の徹夜がたたって発熱したのだろう。

 療養のためにバイトを休んで、飲酒して、三日連続徹夜して、挙句熱とは我ながら情けない。

 なんとか次の通院までに治しておかないと療養期間が延びそうだ。そうなれば僕の生活はいよいよ苦しくなる。

 三日前に酒で散財したことと無理な徹夜をしたことが悔やまれた。

 この三日間、これといった記憶は特にない。部屋に引きこもり、スマートフォンをいじり、腹が減ったら冷蔵庫の中にあるものを食べ、そして、ただ寝ずにいただけだ。

 それ以外特別なにもなく、堕落しきっている。とても大学四年生の夏とは思えない生活だ。


 よく考えたら、僕は今までのことをあまりよく覚えていない。もっと言えば、中学卒業後のことからだろうか。どこで何をしたか、本当に、覚えていない。

 学生時代の思い出といえば色々あるだろう。体育祭とか文化祭とか、修学旅行とか。けれど全てが朧気に頭に浮かんでくるだけでしっかりと思い出せるということはなかった。それ以前のことは否が応でも思い出せるのに。

 改めて思う。僕は大量の時間を抜け殻のように過ごし、文字通り、惰性で生きてきたのだと。

 本来青春と呼ばれるべきはずのその時間達は、僕のものはモノクロ、灰色に染まっていてる。

 だが、つい最近になって僕の時間は微かに色を持ち始めた。

 夢を見るようになってからは、悔しいが、生きているという実感を久しぶりに感じている。

 改めて先ほど見た夢を思い出す。

 また、顔が熱くなってきた。

 ――夢のなかの少女、か。

 僕はにスマートフォンを手に取った。

 夢に知らない異性が出る意味は大きく分けて三つあった。

 自分の新たな一面を発見し、成長する暗示。

 理想の姿や理想の異性を表す。

 そして最後に、近い未来に敵か味方が現れる暗示。

 僕は画面を切らずにスマートフォンをベッドに投げ、続いて自分の身体を投げた。

「――なるほどな」

 宙を眺めながらぼんやりと呟いた。

「――変わりたいのかな、僕は」

 それは、何とも言えない疑問だった。

 自分の新たな一面を発見し、成長することはつまり変わることを意味しているのだ。そして、恐らく僕は変わることを恐れているのだ。

 今になって変わったところで遅いとも思ったし、それ以上に過去の自分を否定するような気がした。

 幼馴染でもあり彼女でもあったやまもんに対して懺悔している自分を自分で赦してしまいそうな気がした。

 あれからもう七年だ。それなりに歳を重ね、性格が完全に形成された今、一体僕に何が隠されているのだろうか。

 理想の姿や異性を表すというワードも引っかかった。夢の中のあの少女が僕の理想の姿、または異性とでも言うのだろうか。

 まあ、間違いではない。事実、僕は夢の中の少女に惹かれているのかもしれない。僕の理想の女性像を夢の中の少女に見たのかもしれない。そう思うと、いよいよ顔の熱が増してきた。

 ――いかんいかん。僕は何を浮ついたことを考えているんだ。

 僕は起き上がり、勢いよく頭を左右に振った。敢えて長く伸ばしている前髪が左右に揺れた。

 最後に、近い未来に敵か味方が現れる暗示、と。多分僕の場合高確率で敵だろうと思った。

 生来暗い性格のためか後ろ向きな考えが定着してしまったのだろう。そんな性格を今更直すのは至難の業だ。

 ふと、昔やまもんが言った言葉を思い出す。

『陽ちゃんの陽は太陽の陽なんだから、ほら、笑わないと』

「はは」

 試しに声を上げて笑ってみたが、顔が引き攣っているのだろうか、笑い声が乾いて聞こえた。

 太陽どころか月にさえ、一等星どころか二等星にも三等星にもなれない笑い声だなと我ながら思った。

 僕はベッドから起き上がり、上京してくる際にリサイクルショップで適当に購入したガラスのテーブルの上に、乱雑置かれた大量の栄養ドリンクの空き瓶達をゴミ袋に入れ始めた。

 手元が狂い、まだ中に少し残っている瓶を床に落としてしまった。瓶は割れなかったが中に残っていた栄養ドリンクが床に流れ、それがカーペットを盛大に汚した。

 ――ああもう!

 テーブルの上に置いてあるティッシュを二、三枚取ろうとした。汚れたカーペットに意識が向いていたため、思い切りティッシュ箱を弾いてしまった。当然ティッシュ箱はなんとかの法則に従いテーブルから落下する。

 ――ああもう!

 ティッシュ箱からティッシュを二、三枚乱暴に取り出しカーペットの汚れた場所に当てた。徐々にティッシュが黄色く湿りだす。栄養ドリンクってこんな色なんだなと思いながら、もう二枚ほどティッシュを追加した。



 最近はテレビを見ていると、自分がいかに陰気な人間か、嫌でも思い知らされる。こんなこと夢を見るまではなかった。幸せそうな人たちの姿を見ると羨ましいと思ってしまう。揺らいでしまう。こういうときこそバイトに没頭したいところだというのにまだあと四日も休みがある。

「なんだかな」

 テレビを消しながら呟いた。また須田でも誘って酒で飲もうかと考えたが財布の中身を思い出し、諦めた。

 そういえば病院から薬を処方されていた。医者から薬を処方されてから三日が経ったが、一度も薬を飲んでいなかった。いい加減飲まなければ治るものも治らない。

 僕はショルダーバッグから薬の入った白い紙袋を取り出し、そこから錠剤を二錠取り出して、水を飲むために再び台所に立った。

 水が喉を潤しながら薬を体内に運んだ。

 コップを洗いながら、僕はこれからの四日間の計画を立てていた。財布の中身が完全に冷え切ってしまっているため出かけるという選択肢と須田と酒を飲むという選択肢は自動的に削除された。

 そういえばと、僕は思い出したように冷蔵庫を開いた。食材はない。あるものといえば醤油と麦茶と先日コンビニで購入した栄養ドリンクの残りが数本並んでいるだった。上京してからというもの、食事はほとんどコンビニで済ませていたから冷蔵庫に食材がないということは大して珍しいことではなかったが、改めて冷蔵庫を眺めるとその殺風景さに思わず苦笑いをしてしまった。冷蔵庫脇にまだ開けていない三キロの米があった。この米も買ったのは一か月くらい前だ。いかに自炊をしていないか、この米袋一つでも窺えるだろう。

 食材の買い出しにでも行って、今日から少しずつ自炊でもするかな。

 僕は再びショルダーバッグを漁り、中から財布を取り出し中身を確認した。残高は千円札が二枚と小銭が結構あった。約三千円といったところだ。自炊すれば、これだけあれば少なくとも二週間はもつだろう。もっと早く自炊していればこんなことにはならなかったのになと苦笑した。僕の計画性の無さは折り紙付きだ。

 そうと決まればと、僕は着ていたものを脱ぎ捨て、シャワーを浴びた。

 浴室から出て身体と髪を拭き、スマートフォンで時間を確認した。時刻は午後八時になろうとしていた。この時間なら値引き商品もあるから買い物も安く済むだろう。

 僕は急いで適当な服を着て、適当に身だしなみを整え、財布を持って家を出た。



 店内は僕が想像した以上の人数の客で溢れていた。いや、常識的に考えて妥当な人数なのだろうが、普段こういった人が多くいる場所に来ないせいか、色々な年齢層の人間が思い思いに買い物をする光景を見て少し眩暈がした。かく言う自分もその色々な年齢層の人間のなかの一人だということに気づくと、俄かにおかしく思い、ふふと苦笑した。

 買い物カゴを手に取ると真っ先に野菜コーナーに足を運んだ。目当ては勿論もやしだ。一人暮らしの味方と言ったらやはりこれに限る。値段も数十円と、貧困学生の財布にはとても優しい。十袋ほど掴みカゴに入れた。

 その後も店内をぐるぐる回り、値引き商品を主に、安くて量のあるもの、長持ちしそうなもの等をカゴに入れていった。

 このスーパーはどうやら薬局も兼ねているらしく、健康食品やら風邪薬やらが商品棚に陳列されていた。それらをなんとなく眺めているとあるものが目に留まった。

 睡眠導入剤だ。

 睡眠という文字を見て僕は夢のことを思い出した。また、顔が熱くなるのを感じた。体調が悪いせいだと必死に自分に言い聞かせたが、無理があった。

 睡眠導入剤の小瓶を手に取りながら、スマートフォンで調べたことを思い出した。

 成長と理想と、敵か味方か。夢を見たことによって再び色を持ち始めた僕の人生。

「ふふ」

 無意識に僕は笑っていた。そばを通りかかった中年の女性が訝し気な表情をしながらちらちらとこちらを見て、やがてどこかへ去っていった。

 手に取った睡眠導入剤を眺めた。内容量はおそらく二十錠といったところか。

 眠れば、僕は確実に夢を見るだろう。そして、また夢のなかの少女に出逢うだろう。

『もっと自分の幸せを考えてほしいと思っているはずです』

 夢のなかの少女の言葉が頭に浮かんでくる。

 自分の幸せが何なのか、正直分からなかった。『大切な約束』を破り、細やかな幸せを壊した僕に幸せを望む資格があるのか、それが分からなかった。

 けれど夢のなかの僕に少女は、やまもんは僕の幸せを望んでいると言った。そのうえで僕ニ荒療治を、額にキスを施した。

 僕は僕が分からない。分かりたいけれど、分かりたくない。分かりたくないけれど、分かりたい。先の見えない葛藤に波が押し寄せ、そしてそれを見て見ぬふりをする。そんなことばかりを繰り返してきた結果が今の僕なのだ。

 幸せは望めない。けれどこの悶々とした状況を打破しなくてはならない。変わらなくてはならない。そのキー的存在が、おそらく夢のなかの少女なのだろう。それならば――。

 僕は睡眠導入剤の小瓶をカゴの中に入れ、カゴの中に入っているいくつかの商品を元の場所に戻してレジに向かった。

 本当に、計画性の無さは折り紙付きだなと、レジでお金を払いながら苦笑した。

 会計が済むとそそくさと店を出て、小さな紙袋に丁寧に入れられた睡眠導入剤と大量のもやしが入った買い物袋をぶら下げながら当てもなく街をふらついた。

 途中須田が働いているコンビニを見かけて、立ち寄った。

「よう」

 入店しながらレジにいる須田に声をかけた。

「よう、ってなんだよ、その大量のもやしは」

 須田が僕の買い物袋を指さしながら言った。

「貧乏学生なんだよ。それにもやしの他にも色々買ったよ」

「そうか。ん? まだなんか入ってる?」

「ああ、これは――」

「紙袋に入ってるのは?」

「ただの風邪薬だよ」

 僕は咄嗟に誤魔化した。何となく睡眠導入剤とは言えなかった。

「そうか、体調悪かったもんな」

 須田が心配そうに言った。

「それで、なんか買いに来たのか?」

「いや、顔を見に来ただけだよ」

「ふ~ん、そっか。あ、そうそう、そんな貧乏学生のお前にやるものがあるんだよ」

「なに?」

 僕が尋ねると須田はレジの後ろにある事務所に入り、やがて何かが詰められた大きなビニール袋を持ってきて僕に差し出した。

「――これって、弁当?」

「ああ、廃棄するやつ。もやしじゃ腹は膨れないだろ? 今店長いないからさ、持ってけよ」

「そんなつもりで来たわけじゃ――」

 断ろうとしたが須田は僕の言葉を手で制した。

「いいから、持ってけよ」

「――ありがとう」

 僕は彼の厚意に甘えることにした。

「ちゃんと食って体調治せよ?」

「そんな体調悪い僕を飲みに誘ってきたやつが言うなよ」

 僕は笑った。

「酒は百薬の長なんだぜ」

 須田がおどける。

「そうかい。まあ、ありがとうな」

 僕はそう言いながらレジを離れ、買い物袋とコンビニ袋をぶら下げながらコンビニをあとにした。



 家に着くころには、時刻は午後十一時半を回っていた。あと三十分で明日になり今日が昨日に変わる。

 冷蔵庫に先ほど買ってきた物を放り込み、須田から貰ったコンビニ弁当を電子レンジで温めて食べた。明日からきちんと自炊しようと思った。

 食事が済んだ後、僕は紙袋から睡眠導入剤を取り出し封を開ける。

「こんなので千五百円か」

 二十錠ほど入ったそれは、普通の睡眠導入剤よりも安かった。それが購入の決め手となったのだが、今回の買い物のお会計の半分はこの薬が占めていた。けれど買ったことを後悔はしていなかった。

 僕は病院から処方された風邪薬と、小瓶から一錠取り出し、それらを口に放り込み水で一気に体内へと流し込んだ。

 ベッドに寝転がり、そして目を閉る。

 ――もう一度少女に逢って、自分を知ろう。自分を、変えよう。

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