第一章 夏休みの初日「2」
2
歩き始めてすぐ、夕焼けを黒く分厚い雲が覆った。
しとしとと雨が降り始め、やがてそれは大粒となった。
朝の快晴は、一体どこに行ってしまったのだろうか。
――ついてないな。
溜息をつき、早歩きをした。
傘を持ってこなかったせいで衣服はびしょびしょに濡れてしまった。バイト終わりで身体も疲れていたせいもあって、一層憂鬱な気分になった。
肌に張り付く衣服に不快感を覚えながら、雨宿りができる場所を探した。
普段の僕であれば、雨でも構わず、ずぶ濡れになりながら帰っただろう。
だが、今日に限ってそれをしなかった。
これといった理由は、特にない。
須田の働くコンビニを素通りして、辺りを見回した。 目に留まったのは神社の境内へ通ずる狭い道だった。境内であれば雨宿りは勿論だが良い気分転換になるかもしれない。普段行かない場所に行ってみるのも面白いだろう。
それにしても、こんなところに神社なんてあっただろうか。
――まあ、いいか。
泥で滑りやすくなった狭い道を慎重に進んでいくと、やがて湿って独特な匂いを放つ木々の隙間から古びた境内の一角を確認した。
その古びた境内に見覚えがあった。懐かしさを感じたが、虚しさがそれに勝った。
靴底にへばりつく泥に不快感を覚えながら、足取りの間隔を早める。それから、丁度良い適当な場所はないかと辺りを見回しながら正面の方へ足を進めた。
境内の正面を確認したと同時に、僕は足を止めた。
先客がいたのだ。
僕より若そうな、おそらく高校生くらいの少女がそこにいるのだ。
賽銭箱にもたれている。
来た道を引き返し大人しく家に帰ろうかどうか迷ったが、振り返ると、そこは先ほどよりも酷い状態で、泥が鎮座しているのが見えた。
引き返すという選択肢がなくなり、僕は足を再び境内の方へ向けた。少女は変わらず賽銭箱にもたれている。
こんな夜中に一人でいるなんて、絶対に普通の思考回路をしていないだろう。そう思うと、俄かに薄気味悪さを感じた。まあ、わざわざ境内で雨宿りをするという点で思考回路がおかしいのは僕も同じで、自覚している分余計に質が悪いのだけれど。
やがて、少女はこちらに気付いた。
「雨宿りですか?」
心地の良い澄んだ声と雨の音が耳を撫でた。
普段、必要最低限な会話しかしてこなかったためか、初対面の少女からの質問に動揺してしまった。
「先ほどから視線を感じていました。その視線の正体は、貴方だったようですね」
まるであやすように少女は微笑んだ。その微笑みを見て尚更動揺してしまった。
「は、はい」
できるだけ平静を装って答えようとしたが、これがなかなか上手くはいかない。それを察したのか、少女はふふと、くすぐるような声で笑った。
ザーザーと降る雨とは対象的な、まるで太陽のような声だ。笑顔だ。
――ああ、もう……。
少女は自分の座っている場所から一人分ずれて座り、指で空いたスペースをつついた。どうやらここに座れということらしい。
自分の演技の下手さに心の中で溜息を吐きながら、空けてくれたスペースに座り、彼女にならい賽銭箱にもたれた。
「ごめん。あと、ありがとう」
僕はできるだけ少女と顔を合わせず、びしょびしょに濡れた服の裾を雑巾のように絞りながら礼を言った。
「いえ、謝らないでください。どうぞお構いなく」
この人は、僕を警戒しないのだろうか。たった一言二言の会話ではあったが、そこから警戒心らしいものを何一つ感じない。僕が彼女の立場なら警戒することは勿論、わざわざ自分の隣に招くことなどしないだろう。
先ほどとは違う種類の薄気味悪さを感じた。
「なあ、どうして隣を譲ってくれたんだ?」
僕は少女に尋ねた。
少女は僕の顔をまじまじと見ながら、目を丸くした。
「なぜ譲ったのか、というのはこの場において適切な質問でありませんね」
少女は微笑みながら言う。
「回りくどい言い方は好きじゃないな」
「視線のする方へ目を向けたら、貴方がずぶ濡れで茫然と立ち尽くしていました。私はそれが放っておけなかった。ただそれだけのことですよ」
少女は僕の質問に、やはり微笑みを崩さずに答えた。
「それに、ここは私の所有地ではありませんからね」
「――でも、警戒しないのか?」
「なぜ警戒する必要があるのですか?」
少女はきょとんとした顔をする。
「夜に見知らぬ男と二人きりって、警戒しない女の子はいないと思うのだが」
「では、私はとても変な女の子、ということになるのでしょうね」
心地良い声が雨の音と共に僕の耳を撫でる。
――変な女の子だ。
この場合、この少女に相応しい項目は二つ。どうしようもなく優しいか、ただの世間知らずの馬鹿だ。彼女は、きっと後者なのだと思う。心の隅で密かに少女に同情した。
次第に僕がこの少女に対して感じた薄気味悪さは消えていった。
「多分、そうだよ」
「酷いですね」
少女はくすぐるように、無邪気に笑った。
それからすぐに会話はなくなり、僕は雨音に耳を澄ましながら時間の経過を待とうとした。
大粒の雨は、若干弱くなってきたようだ。
しばらく弱くなった雨音に耳を澄ました。
「私が誰だか気になりますか?」
雨音による心地良さを呆気なく少女はかき消した。
「そこまで興味はないよ」
少女の問いに、僕はぶっきらぼうに答えた。実際のところ、とても気になっているというのが正直な答えだ。
「そうですか」
少女は残念そうな顔をしながら雨の夜空に視線を戻した。
やがて、僕らは再び会話をしなくなった。
この時、僕は少し違和感を感じていた。
初対面相手だと、会話が途切れると、少なからず気まずさを感じるものだ。ましてや、それが異性ならなおさらだ。だが、不思議なことに、この少女というと、全くそれがないのだ。まるで常にそこにいるのが当たり前のような、そんな感覚さえ覚えるほどだ。
この感覚を例えるなら、ずっと一緒に過ごしてきたような家族か、いや恋人か。とにかく懐かしい感覚を覚えた。
それ以上に、胸が苦しくなった。きっと境内に女の子と二人きりというこの状況がそうさせているのだろう。
気付けば、雨で湿った木の独特な匂いに慣れていた。
少女の横顔を眺める。
さっきまでは焦り等の思考で一杯で、少女の容姿まで注意して見ることはなかったが、いざこうしてじっくり観察してみると美人とまではいかないが、整った顔立ちをしている。もっと言えば、僕好みの顔立ちをしている。
そしてなにより、どこか見覚えがある。
――ああ、もう……。
心臓がどくんどくんと跳ね上がり、高揚感と、それ以上に冷たい虚無感を感じた。
僕は隣に座る初対面の少女を異性として意識し始めていたのだ。そんな感情が生まれてしまったことに焦りと罪悪感を感じ、慌てて視線を雨粒に戻した。
それでも、やはり気になり、もう一度少女の横顔を盗み見た。
そのとき、心臓が口から飛び出るくらいに驚いた。
少女が僕をじっと見つめている。
慌てて顔を伏せ少女の動向を覗ったが、少女は慌てるどころか動揺することさえしなかった。
――警戒心のなさは、折り紙つきかよ。
一人で焦ったり、一人で動揺しているのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
いやしかし、見れば見るほど非常に可愛らしい容姿をしているし、やはりどこか見覚えがある。
急いでそれを無理やりにでもなかったことにしようとしたが、それは叶わず、もやもやしたものが胸のなかを這い回る。それと同時に嫌な虚無感が胸に広がっていく。
――嗚呼、未だに、引きずっているんだな。
少女の隣から一刻も早く消えてしまいたいとさえ思う。だが、一度雨に濡れない安心を覚えると、再びこの暗闇の大雨のなかを歩いて帰らなければならないという現実がとても残酷に思えてしまう。
結局、僕はここにいるしかないのだろうか。
――いや、帰ろう。
そう決意して、立ち上がろうとした。
「どうかしましたか?」
そんな僕の様子を先ほどからじっと見ていた少女は首を傾げながら言った。
「先ほどから私の顔を見つめていたようですが、なにかついていましたか?」
「いや、なんでもないよ」
怪しまれる前に僕は立ち上がった。
少女は僕の言葉が聞こえなかったのか、ゆっくりと立ち上がり、微笑み、じわじわと僕に近づいた。
「なんですか?」
彼女は静かにそう言った。
この距離だ。聞こえていたはずだ。
――ち、近い。
顔が、近い。ほんの少し、あと数センチでキスさえ容易にできてしまうほどの近さだ。当然僕の鼓動は激しくなる。それを悟られぬよう平静を取り繕うとしたが、かえって逆効果のようで、鼓動の激しくなるに加え、息までも荒くなっていくのをはっきり感じた。
「な、なんでもない」
僕は動揺しながら言った。その様がおかしかったのか、少女はくすりと笑い、赤くなった僕の頬を白く綺麗な手で触れた。
手から温もりを感じる。
この温もりにも、覚えがあった。
――ああ、もう!
「温かいですね、貴方のほっぺた」
少女は微笑みながら言った。
そして、なにを思ったのか、少女は僕の口元、唇に自分の唇をゆっくりと近づけてくる。僕は息をすることを忘れ、彼女の閉じられた瞼を凝視した。
少女の唇が、僕の唇へ迫る。
僕の人生にこんなことがあってはならない。
僕には、僕にはそんな資格なんてないのだ。
――や、やめろ!
そう心の中で叫んだ瞬間、視界がが一気にブラックアウトした。
最後に見たのは、少女の悲しそうな顔だった。
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