第一章 夏休みの初日「3」
3
微かに光を感じ、目を開けた。
蛍光灯の光が容赦なくを目を刺してくる。僕はベッドに横たわり、そしてその身体には毛布がかけられている。
――寝ていたのか?
腕には針が刺さっていた。その針は管に繋がっておりそれを目で辿っていくと、やがて管は液体の入った透明な袋に辿り着いた。
点滴だ。それを見て僕は自分が今いる場所が病院だと察した。
ベッドの側で看護師が無表情に職務を全うしている。
看護師の様子からして僕の身体はそこまで悪いということではないようだ。
僕はいつからか他人の挙動からその場の雰囲気、感情を察することが上手くなっていた。
自分の生き方の、言わば副作用のようなものなのだろう。
くだらないことを考えつつ時計をみた。
時計の針は16時半を指していた。
ブラックアウトする前の情景を思い出す。
――あの後、気でも失ってしまったのだろうか?
おそらく雨に濡れた身体で長時間境内にいたせいで倒れたのだろう。
それにしても丸一日気を失っていたなんて笑い事じゃない。
今日のバイトのシフトはどうなってしまったのだろうか。
あの少女は、無事家まで帰れただろうか。
ふと点滴に記された日付を見て、僕は驚愕した。
<8月1日 15時30分>
昨日の日付が記されている。その時間帯はバイトをしているはずなのだが。ならば昨日の境内での出来事はなんだったのだろう。
寝起きのせいか頭が上手く働かなかった。
約二、三分間思考を巡らせた末、僕はついさっきバイト中に倒れ、約三十分病院のベッドで眠っていたという考えにたどり着いた。つまり、境内での出来事は夢であり、現実ではなかったのだ。
しかし、夢というものは非常によくできている。なにもかもが鮮明に脳裏に焼き付いているのだ。雨の降る音の僅かな変化から湿った木の独特な匂いまで、全て思い出すことができる。
もしも今、身体の機能のなかで特に優れているものは何かと問われれば、僕は夢を見れることだと答えるだろう。
あの少女、名前すら聞くことができなかった。
澄んだ声、警戒心を感じさせない微笑み、僕とは対称的な目の輝き、頬に触れた真っ白な手、唇の感触。そしてあの懐かしさ。
思い出せば思い出すほど夢だと思いたくないという気持ちが激しく膨らんでいく。不覚にも思ってしまったのだ。またあの少女に逢いたい、と。
――だめだ! そんなことを考えるな! お前にはそんな資格なんかない!
僕は自分に言い聞かせた。
「お目覚めですか? 具合はどうですか?」
若いが、夢のなかの少女とはかけ離れた容姿の看護師の女性が問診する。先ほどまでの無表情とは打って変わって笑顔だ。だが、その笑顔が作り笑顔だということに僕は気付いていた。これも僕の生き方の副作用みたいものだろう。
顔は笑っているが目はひとつも笑っていなかったのだ。恐らく僕以外にも色々な患者を診てきたためなのだろうか、患者の診察そのものが作業と化しているのだろう。
「最悪です」
僕は暗い声で、一言だけ答えた。
「わかりました」
看護師の女性は明るい声で言った。どうせ普段の声のトーンはもっと低いくせにと、心のなかで彼女を毒づいた。
点滴が終了し、夕方には病院の退屈さから解放された。
何気なく須田に、今日病院に搬送されたことをメールで伝えた。
返信は返ってこなかった。
おそらくまだバイトか、それか鈴木と遊びに行っているのだろう。
僕は夢のなかの境内が気になり、家路まで少し遠回りにはなるが、夢のなかで通った境内へ通ずる細い道を探しに出かけた。
歩き始めて約三十分が経過し、須田の働くコンビニが見えてきた。
この時間だ。恐らく彼は早朝のアルバイトを終え自宅に帰っているだろう。それか鈴木を誘ってどこかに遊びに出かけているだろう。
僕はコンビニを素通りし、境内へ通ずる細い道を探した。
探し始めて数十分。僕は歩みを止めていた。境内に通ずる細い道がどこにも見当たらなかったのだ。
――おかしいな。
僕は額に手を当てて考えた。
確かにここにあった筈なのだが。
その後数十分、同じ場所を、境内へ通ずる細い道があるべき場所をうろうろしたが、やはり見つからない。
考えに考えぬいた末、あの道と境内は僕の夢のなかのものに過ぎないのだと結論づけた。
そう結論づけただけで、僕の心はより一層重くなった。
医者の指示で、念のため一週間バイトを休むことになった。
これは、少し困ったことになった。非常に、困ったことになった。
何が困ったのかというと、絶望的にすることがないのだ。
特別、これといった趣味があるわけでもないし、勉強をするにも成績は中の中をキープしており、それ以上を目指す気力もやる気もなかった。それに、今まで休みはバイト漬けだったせいか働くこと以外に時間の潰し方を知らなかった。
まあ、そのせいで今日倒れてしまったのだが。それ以上に困ることはシフトを減らされることだ。ただでさえ厳しいギリギリの生活をしているのにシフトを減らされるせいでよりいっそう厳しくなることだろう。
両親の反対を押し切ってまで都内の大学に通っているのだ。生活費を恵んでもらうわけにはいかない。財布や通帳の残高を思い出すとより一層虚しくなってくる。
突然手に入れたありがたくもない休みに溜息を吐きながら自宅の玄関を開け、靴を脱ぎ、鞄を床に放り投げ、ベッドに身を投げた。
具合が悪かったせいもあって、病院でしっかりと寝たはずなのにすぐに睡魔が襲ってきた。
――もう寝よう。いっそ寝てしまおう。一時的でもいいから現実を忘れてしまおう。
僕は、目を閉じ、やがて深い眠りについた。
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