第8話
何が起こったのか、理解できなかった。理解したくなかった。男が消え去って、しばらく放心していた私の意識を現実に引き戻したのは、啜り哭くお母さんの声だった。
「あぁ、あなた!あなたッ!」
私よりも早く復帰していたらしいお母さんは、赤い絨毯の上で倒れ臥すお父さんの前で涙を流して泣いていた。私は震える足を何とか動かしてそちらに近付く。カウルさんがお父さんの胸元に刻まれた深い傷を塞ぐように手を当てていて、お母さんもその上に同じようにして手を重ねている。その掌は微かに光を帯びており、その光からは暖かい力を感じる。私は何が起こっているのか分からず、しばらく咽び泣くお母さんと何も言わないお父さんを見比べた。
いつもなら。お父さんはそっとお母さんの体に手を回して、やれやれといけすかない態度で抱きしめたろう。その目から流れる涙を、その無骨な手で拭っていただろう。そして、仕方ないなぁとでも言いたげな目でその頰に優しいキスを落としたに違いない。
——だが、そんなことは瀕死のバンにはできない。
そこでようやく、私は父の容態について理解した。動悸が激しくなる。私は急ぎ、倒れ伏した父の下に駆け出した。むせ返るような鉄錆の匂いが鼻を突く。
「カウルさん、父は、父は大丈夫なんですか?!」
無事な筈がない。そんな風に言ってくる俺の言葉に耳を貸さず、私はカウルさんに問いかけた。しかし、私の期待に反してカウルさんの表情は暗い。やがて彼は顔を顰め、悔しげに私から顔を背けた。その口から、小さく弱々しい声が流れ出る。
「かなり危険な状態だ。今、クリスさんと一緒に治癒魔法で傷口を塞ごうとしてはいるが……」
——俺達の技量では、助けられない。
ぼとり、唐突に落ちてきた言葉に、目の前が真っ暗になるような心地がした。
何で。何で。何で。益体も無い疑問符が頭の中を駆け巡る。
「どうすればいい。どうすればバンは助かる!」
何も考えられない私の思考に反し、私の口はカウルさんに向かって強い言葉を発していた。
——この世界はファンタジーだ。
ファンタジー。リアル。私は何を言っているのだろう。分からない。しかし、その内言に一縷の希望が指す。助ける方法があるかもしれない。折れかけた心を保つには、それだけで充分だった。
俺は逸る気持ちを落ち着けて、もう一度、静かな声でカウルに問う。
「父を助けるための方法は、無いんですか?何か、何でも良いんです」
カウルはその言葉に少し考えたような顔をすると、首を横に振ってポツリと口を開いた。
「俺には、簡単な傷を治す程度の魔法は使えても致命傷を完全に治す魔法は扱えない。今だって、クリスさんがいなけりゃ辛うじて命を繋ぐこともできなかっただろう。……クリスさんと二人力を合わせても、命を繋ぐことしかできてないんだ。それこそ、大神の加護を持つ術者が使う回復魔法でもなければ無理だ」
「そんな……」
がくり、膝から力が抜ける。父を失いたくない。ミカエラから父親を奪いたくない。何か無いか、何か。俺は頭を必死で回転させる。
何度も何度もカウルの言葉を反芻し、ある事に思い当たった。
命の女神から加護を受けた俺ならば、この傷を癒すこともできるのでは無いか?
俺は自身の拳を握る。内側には、女神の加護を受けて明らかに変質した俺の魔力が満ちている。俺には魔法は扱えないが、命の女神の加護を受けた人間の魔力ともなれば回復魔法とまではいかないまでも何か治癒の効果がありそうな気がしないでもない。ビアンカ婆さんの元で素材を魔力で染めていた感覚で魔力を集めてみると、魔力は上手い具合に掌から溢れてくる。
一か八か、俺はその溢れ出る魔力の塊を、カウルとクリスの手の上からバンの傷口に充てがった。手先から、失われかけた命の気配を感じる。
消えるな。俺は願い、その気配に向かって魔力を流す。気配は俺の魔力を受け取った瞬間、その力強さを少し増した、ような気がした。これなら、いける。俺は全身からありったけの魔力をかき集め、集中してその気配に向かって流し込む。
「なっ!これは……!」
「この感覚、アンフィナ様……?!」
カウルとクリスの驚いた声。だが、ここで集中を切らす訳にはいかない。俺は目を瞑り、深く集中して魔力を注ぐ。どれ程の時間が経ったか、ようやく気配が完全に、とはいかないまでも安定しだした頃、先に俺の魔力が尽きた。息を切らしながら目を開けると、確かに生きているバンの姿。大量失血のせいか少し顔色は悪いが、調べてみると呼吸も、脈拍もちゃんとあった。
それだけ確認すると、もう限界だった。全身の力が抜け、俺はその場にへたり込む。少し、息が苦しい。
「痛っ」
尻餅をついた先に出っ張りがあったようで、腰の辺りに激痛。その出っ張りの正体は何かと目をやると、先程まで見当たらなかった青々とした若枝が迫り出していた。それは何故か俺を囲うように伸びている。
ミカ、と、遠くで俺を呼ぶ声が聞こえた気がした。ふわり、甘い香りが鼻腔をくすぐる。クリスに抱きとめられたのだと気付いた時には、泣き腫らしたクリスの顔が目の前にあった。
何を言うべきなのだろう。朦朧としてきた意識を全力稼働させて考えるが、何も思いつかない。結局俺は曖昧な笑みを少し浮かべようとして、ぷつん、糸が切れたように意識を失った。
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