第7話
数ある神樹の枝の中でも一際高い所にある一枝。特別に女神の枝と呼称されるその枝の根元に埋まるような形で古い神殿が存在していた。神樹様の祠と、枝に住まう民達が呼称する遺跡である。
石のようにも、植物のようにも見える材質の建材で建てられたその神殿は、この世界の御伽噺や神話でも語られる事のある神代の頃から存在する世界最古の建造物の一つだ。
「はー、流石神域だ。空気からして違う」
アンリエッタの後ろに続いて歩きながら、カウルは感嘆の声を漏らした。
アンリエッタは隣を歩くヴィスベルを見る。二人並んだヴィスベルとアンリエッタの間に、バンが憮然とした表情で割り込んだ。
「なに、もしもの時のために俺がいるんだ。アンリ、危なくなったら存分に頼ってくれよな」
剣に手をやって宣言するバン。アンリエッタがどう答えて良いものかと思考していると、横合いから伸びた白魚の如き指先がバンの耳を掴んで引っ張った。バンの体ががくんと揺れる。
「もう、あなたったら。貴方は私の護衛なんですから歩く場所は考えてくださいな」
バンの耳を引っ張りながなら、クリスは満面の笑みでバンを見つめる。見る者全てを魅了するような笑みだったが、一点、目だけが笑っていない。しまった、とバンは慌てて頭を下げる。
「悪い悪い、俺は最前列だものな、あまり後ろに行ってはいけないな、うむ」
よろしい、と、クリスがバンの耳から手を離した。バンは恨みがましい様子でアンリエッタの隣に立つヴィスベルを見て、すぐに皆を先導するクリスの隣に戻る。クリスが迷子になりそうな子供にするようにバンの手を握っているのを、アンリエッタは見なかった事にして目を逸らす。恥ずかしげなアンリエッタの隣で、ヴィスベルは苦笑した。
「はは、仲が良いんですね。……そういえば、ミカエラちゃんは良かったんですか?朝食の時にも居ませんでしたけど」
ヴィスベルが聞くと、クリスはええ、と小さく頷く。
「あの子は今日はビアンカおばあさんに魔法を教わるために朝早くから出ていますから。それに、私やアンリと違ってあの子は命の女神様の加護を得ていませんから、祠には連れていけないんです。祠に入れるのは、高き枝の戦士と巫女だけですからね。お二人は特別なんですよ」
クリスはなにせ光の御子とそのお仲間ですから、と付け加えた。
「それにしても、まさか光の御子がこの大樹を訪れるのがこんなに早いとは思いませんでした」
しみじみとしたクリスの態度に、ヴィスベルの中でつい先日も感じた疑問が再燃する。意を決したヴィスベルは、それについてクリスに聞いた。
「昨日も思いましたけど、二人は何で僕達が来る事を知っていたんです?」
クリスがちらり、ヴィスベルの方を見た。「お母さん、私が」とアンリエッタが咳払いをすると、ヴィスベルは隣のアンリエッタに目をやった。
「預言があるのです。『世界に魔の手が伸びる時、神の御心により勇なる者が命の大樹を訪れる』。私たち命の巫女の役目は、訪れた勇なる者、光の御子を命の女神様の元へ誘うこと。私たちはそのための術を伝え聞いております」
アンリエッタが言うと、クリスが満足げに頷き、立ち止まる。釣られて立ち止まった一行の眼前には大きな扉が聳えていた。
木材か石材かの区別もつかない不思議な白い材質の扉。無数の蔦に覆われてなお、その下にある純白はその存在を強く主張している。悠久の時を刻んできたであろう純白からは不可侵の気配が感じられ、ヴィスベルは自然、その背を伸ばした。
「神秘の花園。これより先は命の女神様が住まう聖域です。アンリ、扉の開け方は分かるわね?」
「はい、お母さん」
アンリエッタが前に出る。アンリエッタは目を瞑って精神を集中すると、そっとその手を扉にかざした。アンリエッタの体が白く輝き、その光が扉の表面に刻まれていた無色の刻印に伝播する。やがてその光が扉の全体に駆け巡ると、重い扉は音もなく開いた。開いた扉の奥から微かな涼風が吹き、純白の花弁がはらりと舞った。
ほぅと、誰もが感嘆のため息を吐いた。それほど美しい光景だった。真っ白な魂の花達が大輪の花を咲かせ、その無数の花々から発せられた魔力が黄色い光の粒となってそこら中を漂っている。すぅと息を吸い込めば、身体中に活力が湧いてくるような気さえしてくる。女神が住む場所という言葉に誰もが納得した頃、アンリエッタは花園の中央になにかがあることに気が付いた。
目を凝らすと、それは地面に倒れた人影らしいことがわかる。ピリリ、アンリエッタの脳裏にある予感が過ぎる。
「ミカ!?」
遠目で判断もつかない筈なのに、アンリエッタは直感でその人影が自身の妹のものと悟った。アンリエッタは驚き駆け寄る。他の面々も一拍遅れてそれに続いた。
アンリエッタが花園の中央に辿り着くと、やはり人影の正体はミカエラだった。ミカエラは少し頰を上気させてこそいるが安らかな顔で眠っている。知っている筈の顔。知っている筈の表情。しかし、アンリエッタにはその顔が一瞬別の誰かに見えて、その肩を揺らすのを躊躇した。
う、と小さな声がミカエラの口から漏れ出し、ミカエラはゆったりとした動きでその体を起こす。彼女が体を起こすのに合わせ、そのさらりとした長い銀の髪が水のように流れた。
髪が伸びているのだと、そこで初めて、アンリエッタは違和感の正体に気が付いた。
ミカエラの髪は、本人が動き回るのに邪魔だからと肩ほどで切り揃えられていた筈だった。しかし、今の彼女の髪は胸の下あたりまである。実は似ているだけで全くの別人なのではないかと、アンリエッタの中で疑念が湧く。
目を覚ましたらしい少女は大きな欠伸をしてからぐっと大きく伸びをする。ぱちり、開いた彼女の目とアンリエッタの目が合った。母や自分とは違う、透き通った銀の瞳。その目は間違いなくアンリエッタの知るミカエラのもので、しかしやはり、どこか違っているような気がする。
何と声をかけて良いものか、アンリエッタは逡巡した。惚けた様子の少女はしばらく焦点の合わない目でアンリエッタを眺めていたが、やがてぽそりと口を開いた。
「あれ……アンリエッタだ。何でこんな所に」
とぼけたような、間の抜けた声。長年住み慣れた日常の気配。ぽかんと口を開けて間抜け面を晒しているミカエラの顔を見て、アンリエッタの緊張は霧散した。アンリエッタは呆れた目でミカエラを見ると、内心でホッと胸を撫で下ろした。
目を覚ますと、アンリエッタが俺の顔を覗き込んでいた。
「あれ……アンリエッタだ。何でこんな所に」
寝ぼけ頭で出てきたのはそんな言葉だった。アンリエッタの驚き顔が、見慣れた呆れ顔に変わる。
「こんな所にはこっちのセリフよ。何でミカが此処にいるの?今日はビアンカおばあさまの所に行ってたんじゃ?」
言われ、俺は首を傾げた。俺は確かにビアンカ婆さんの元で儀式をしていた筈である。そうだ、しかもアンリエッタとて今朝から何やら儀式を行う予定だった筈。それがどうしてこんな場所にいるというのだろうか。
状況が飲み込めず、寝起きの上手く回らない頭でビアンカ婆さんを探してみるが、周りにいるのはヴィスベルさん達と両親、そしてアンリエッタのみ。ビアンカ婆さんは見当たらない。
「あれ?ビアンカ婆さんの所で儀式やって……神殿で女神様から、加護を……っ!」
そこまで口に出して整理して、俺は初めて、自分の所在地がビアンカ婆さんの家でないことに気がついた。俺は思わず飛び上がり、自分の周りを囲う面々を見た。
「え?ここどこ?何で、私こんな所に?」
圧倒的な場違い感とでも言おうか、何だか居てはいけない場に居合わせたような居心地の悪さを感じる。どうすれば良いものか。必死で考えていると、クリスにそっと抱き寄せられて頭を撫でられた。成人済みの大人として恥ずかしくなる反面、彼女の娘としての自分が落ち着くのを感じる。
「落ち着いて、ミカ。簡単にでいいから、覚えていることを教えてくれる?」
クリスが耳元で優しく囁いた。普段から混乱するミカエラを宥める時にクリスがよく使う方法だ。いつもなら本当にそれだけなのだが、加護受けた直後だからかはたまた寝起きだからか、クリスの声はいつも以上に蠱惑的な雰囲気を纏っているように感じられた。
えも言われぬ甘い感覚に背筋になにやらむず痒いものが走り、先程女神様の加護を受けた時に感じた感覚が思い出される。
あ、これダメなやつだ。俺には刺激が強すぎる。
何か新しい扉を開きそうになっていると、頭のどこかで「ダメー!」という叫びが聞こえた気がして、俺ははっと我に返った。
俺はクリスの体から何とか離れると、うん、と頷いて指折り数えつつ自身の覚えているまま話す。
「えーと、おばあちゃんの所で儀式をして、綺麗な神殿みたいな所で女神様から加護を頂いて、気が付いたら今……なんだけど」
だめだ、全く何の答えにもなっていない。いや、俺の身に起きたことはこれで全てなのだが、この状況を説明するには明らかに情報が不足している。
「そう。なら、その女神様の気まぐれかしらね……」
何だその便利な言葉、と思わずクリスの顔を見上げると、クリスは困り顔でこちらを見ていた。言葉通りの意味ではなく、慣用句的な使い方の気配。周囲の面々からも諦めとか呆れとかに近い空気を感じる。ほぼほぼ初対面の筈のヴィスベルさんやカウルさんまで呆れムードで、俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
許して皆、俺も本当に何が起こったのか理解してないから。
そんな風に内心で弁解していると、クリスがとうとう小さなため息を吐き出した。俺を責める意図は無かろうが、それでも胸に何かが突き刺さる感じがした。
「まぁ、いいわ。後でビアンカおばあさんに聞けば分かるでしょう」
「お母さん、どうする?日を改める?」
アンリエッタがクリスの服の袖を掴み恐る恐るといった風に聞いた。日を改めるというのは恐らく、今日行う予定だった儀式の事だろう。具体的にどんな儀式かは知らないが、重要なものであろうことは想像に易い。何せ、神樹様に仕える巫女を引っ張り出しての儀式だ。
そんなものが俺のせいで中止になどなってしまえば申し訳なさで死ねる。ビクつきながらクリスの顔色を伺うと、幸いにもクリスは首を横に振った。
「いいえ、あなたは早く光の御子様と神託を授かりに行きなさい。ミカは私達で見ておくから。ミカ、今からアンリ達は大事な儀式をするから、少し離れてじっとしていましょう」
言って、クリスは俺の手を引いた。これ以上邪魔をしてたまるか。俺は大人しくクリスに従ってその場を離れる。それに続くようにほかの面子もアンリエッタ達から離れ、その場にはアンリエッタとヴィスベルだけが残る。
アンリエッタは緊張した面持ちで一度深呼吸をすると、しゃがみ込んで地面に手をついた。
「我らが母なる神、命の女神、アニマ・アンフィナに祈りを」
女神に祈りを捧げる時の祝詞だ。感謝祭や鎮魂祭、生誕祭といったお祭りの始まりにいつも聞く祝詞で、俺、というか、ミカエラにも馴染みのある祝詞。
ただ普段と異なっているのは、場所故にか女神の加護を得たからか、言葉そのものに神聖な力を感じるという事。祝詞も、それを唱えるアンリエッタも、自然に首を垂れてしまいそうになるようなある種の威厳が感じられる。
そこから先の祝詞は聞き覚えのないものばかりだ。祝詞を重ねる度、アンリエッタの体が薄い光を纏う。ふわふわとした光の粒まで舞いだして、さながら神話や御伽噺の一ページを覗いているような気分になる。
しばらくその光景を眺めていると、視界の端に何かが映った。何だろうかと目をやると、入り口であろう門の前に人影が一つ、こちらに手を向けている。その手には周囲を塗り潰そうとするような黒い光が灯っていた。
刹那、本能が警鐘を鳴らす。アレは人に向けられてはいけないナニカだ。
光が一瞬大きく膨らむのが、遠くからでも分かった。光が飛来する。目標は、祈りを捧げているアンリエッタ。それを認識した瞬間、俺はほとんど何も考える間もなく駆け出していた。
「お姉ちゃん、危ない!」
「え?」
集中し、祈りを捧げていたアンリエッタに抱きつくように突き飛ばす。意識の外からの突進だったからだろう、体格差にも関わらず、アンリエッタはなすすべもなく体勢を崩した。光の粒子達が散り散りになる。
「ミカ!何をっ!」
アンリエッタが俺を叱りつけようと声を上げた直後、俺の背後を冷たい塊が通り抜けた。
アンリエッタにも見えたのだろう、その視線は眼前に残された黒い軌跡を辿っていた。
俺もアンリエッタと同じようにそちらに目をやる。入り口にいたはずの人影は、既に声が届く所にまで近寄っていた。闇を溶かしたように真っ黒な金属の鎧。その相貌は、同色のフルフェイスに覆われてうかがい知る事は出来ない。
その全身から放たれる禍々しい気配に全身が粟立った。俺たちを庇うように、一番近くにいたヴィスベルが剣を抜いて男の前に立つ。
「光の御子。貴様を命の女神の下には行かせん」
男は腰に帯びた二振りの剣を抜き、その黒く輝く切っ先をヴィスベルに向ける。その漆黒の兜の下の眼光はヴィスベルを超え、アンリエッタを捉えていた。俺自身に向けられていないはずなのに、恐怖に手が震えてしまう。
男はこちらに一歩踏み出そうとして、即座に後方へと跳んだ。直前まで男が居た所に、バンが弾丸の如き速度で切り込む。
「邪魔立てするか」
「娘に手出しはさせん!」
言って、バンの姿が一瞬霞んだ。次いで、周囲に甲高い音が響く。それがバンの振るった剣と男の黒剣がぶつかった音だと気付いた頃には、二人はもう何合目になるかわからない打ち合いを続けていた。
だが、それも長くは続かない。一瞬の剣戟は、バンが地面に力なく倒れ伏したことで終局を迎えた。
「え……?」
何が起こったのか分からない。ただ、うつ伏せに倒れたバンの体から夥しい量の赤い液体が流れ出ているのが見えた。ひっ、という悲鳴が|ミカエラ(おれ)の口から漏れ出る。
バンの戦闘不能に真っ先に反応したのはヴィスベルとカウルだった。男が体勢を完全に戻し切る前に、二人は男を攻め立てる。しかし、男は不均衡な姿勢でありながらもそれを難なく捌くと、真っ黒な波動を放って二人を吹き飛ばした。
「あまりに虚弱。あまりに脆弱。光の御子も高き枝の戦士も所詮はこの程度か」
吐き捨てるように言って、男がさらに進む。その視線はアンリエッタに真っ直ぐと伸びていた。その進行を阻むように、クリスが両手を広げて立ち塞がる。
「……貴様も巫女か?いや、違うな。それは残り香か」
クリスに剣を向け、男が言った。俺たちに背を向けたクリスの表情を伺う事は出来ない。脳裏にバンが倒れた光景がフラッシュバックする。俺は震え上がる体を抑えつけ、頭の中でパニックを起こしている自分を何とか宥める。
「ええ、そう。私の巫女としての力の殆どはアンリエッタが受け継いだわ。……でも、力が全て無くなった訳じゃない。何としても、この子は守る」
クリスの身体が光を帯びる。先程のアンリエッタ程では無いにせよ、濃密な女神の気配が感じられた。男は退屈だと言わんばかりにその手に持った剣を無造作に振る。その剣がクリスの首を落とす場面を想像してしまい、俺は思わず目を背けた。
しかし、後に続いたのは甲高い、弾かれるような音。はっとして視線を戻すと、男の剣はクリスの眼前で光の壁に阻まれていた。
「それが女神の加護か。成る程、巫女は傷付けられんとあの方が仰る訳だ。よもや、抜け殻にすらこれほどの防御を与えるとは、な!」
ばきり、何かが砕けるような音が聞こえた。クリスの身体が吹き飛ぶ。クリスは遠くで何度か跳ねると、地面に倒れてぐったりと動かなくなった。身体に怪我は無いようだが、地面に落ちた衝撃で気絶してしまったようだ。
いよいよもって、アンリエッタの下に男の魔手が伸びる。一体何が起こっているのか理解できなかったが、ここでアンリエッタに彼の手が伸びる事が良くない事であるのは俺にも理解できた。
俺は震える足に力を込めて、先のクリスのようにアンリエッタを庇って前に立つ。視界にぐったりと倒れ、どこかから血を流すバンの姿が入る。一歩間違えば自分もそうなる。そう考えると足がすくんだ。何をしているんだ、俺は。こんなにも非力な少女が、どうしてこの男の前に立てる。
そんな自分の疑問に答えたのは、『俺』ではない誰かの内言だった。
——ここで退くなんて選択肢、私(・)には無い。何としてもお姉ちゃんを守らないと!
その言葉から感じられたのは、どこまでも純粋な使命感。まっすぐな気持ちだった。
私は目の前に立ち塞がった黒鎧を睨みつける。お姉ちゃんを守りたい。私の中で、その気持ちだけがぐるぐると巡っていた。
「……死にたいか、小娘。我は無駄な殺生は好まん。どけ。そこな巫女を差し出せば、貴様は見逃してやる」
「死にたくない。けど、お姉ちゃんは渡さない」
言葉にすると、その気持ちは益々強くなった。だけど、それと同時にイヤな自分(おれ)の声も大きくなる。
——お前に何ができる。あの強い父親すら、あの黒鎧の前には為すすべもなく倒れたというのに。
関係ない。私はお姉ちゃんを守らなきゃいけないんだ。
——もっとできる事を考えるべきじゃないか?これは本当に最適解か?
考えてる時間なんて無い!
そう、自分の中の冷たい声に言い返し、私は男を睨み付けた。男はほう、感心した風な声を上げる。
「良い眼をしている。だが、邪魔立てするならば容赦はせん」
男が剣を振り上げる。それと同時に、明確な害意が私に向けられた。極寒の冬空に丸裸で放り出されるような、刺々しい気配。すうっと、全身から血の気が引いた。激情に熱されていた頭が一気に冷めるのを感じた。
時間の流れが妙に遅くなる。走馬灯という奴だろうか、などと逃避気味な思考が過るが、その逃避すらもこの圧倒的な恐怖の前には殆ど意味をなさない。濃密な死の気配。背筋が縮み上がるかと思うほど冷たくて、暗い。
振り上げられたその剣は、そのまま俺の首を切り裂くような軌道で振り下ろされる。それはさながら死刑執行人が振り下ろす斧か死神が持つ大鎌か。どちらにせよ、それが俺の命を刈り取るに充分な威力を秘めていることは明らかだった。
女神の加護を受けたとはいえ、俺はクリスやアンリエッタと違って命の巫女ではない。先程クリスを護ったような守護が俺に備わっている保証はないのだ。
『無謀な正義感に駆られたお前の行動がミカエラの幼い命を奪うんだ』
自分を責める冷たい声。ならどうすればよかったと、今更自問した所でもう遅い。刃が迫る。俺は迫ってくる刃を直視できず、その刃が俺自身の首を落とすその直前に、自分の両眼をきつく瞑った。
しかし、予想に反していつまで経っても訪れる筈の痛みや衝撃は訪れない。きつく瞑っていた目を恐る恐る開くと、俺を庇うように、アンリエッタの背が俺と男の間に割り込んでいるのが見えた。
剣が男の手から離れ、カランと音を立てて地面に転がる。男は焼け焦げた手とアンリエッタを見比べた後、くつくつと小さな笑い声を上げた。
「想像以上に硬いな。割り込まれたとはいえ、こうも弾かれるか。殺せないなら仕方あるまいな」
そう言って、男は懐から鎖のような物を取り出した。嫌な感じがする鎖だ。男がそれを放り投げると、鎖は生き物のような動きでアンリエッタに絡みつき、その肢体を拘束する。
「魔神の鎖。神々を封じる我らの叡智の結晶だ。貴様ほど神に近い性質の存在には、さぞ効果があろう」
「く……」
俺の目の前で、アンリエッタが力なくその場にうずくまった。俺は駆け寄ってアンリエッタの鎖を解こうとするが、鎖に触れようとした瞬間手に激痛が走る。俺は慌てて手を引っ込めた。
俺が再度アンリエッタの鎖に手を伸ばそうとした時、腹に鈍痛を感じ、気が付けば俺は地面に転がっていた。
ぐらぐらと揺れる視界に黒い鎧の足が見え、あの男に蹴り飛ばされたのだと悟る。男の腕が、鎖で縛り上げられたアンリエッタに伸びる。
やめろ。連れて行くな。連れて行かないで!どれだけ必死に叫ぼうと思っても、口から出るのは嗚咽にも似たため息ばかり。俺はアンリエッタを担ぎ上げた男の足にしがみつき、その歩みを少しでも止めようと試みる。しかし、男は俺をいとも容易く引き剥がすと、黒い靄を纏って宙に浮いた。
「命の巫女は頂いて行く。」
「っ、お姉ちゃん!」
再び男に向かって手を伸ばした時には、男の姿も、アンリエッタの姿も、影も形もなく消え去っていた。
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