第6話
朝、日も昇らないうちにビアンカ婆さんの家に来た俺は、既に起きて待っていたビアンカ婆さんの指示のもと儀式の準備を整えていた。年配のビアンカ婆さんに作業してもらう訳にもいかないので、作業は完全に俺一人だ。俺はビアンカ婆さんに言われた通りに魔法陣と、その周りに組み立てられたオブジェを配置する。
「これでよし、と」
「上出来、上出来」
後ろで見ていたビアンカ婆さんが満足げに頷く。俺は額から流れる汗を手で拭い、ほっと一息ついた。
いくら部屋の片隅に収まる程度の小規模な儀式場とはいえ、この小さい体には結構な重労働だ。俺はビアンカ婆さんが用意していた神樹様の恵みを受け取ると、神樹様に感謝を捧げてから口にした。疲労がみるみる癒えていくのが実感できる。やっぱすげーわこれ。
果実を平らげ人心地つくと、俺は先ほど組み上げた儀式場に目をやった。
部屋の片隅に作り上げられた儀式場は贔屓目に見てもそれはもう立派なもので、本当に魔法でも飛び出してきそうな祭壇に仕上がっている。これから本当に魔法を使えるようになるのだと思うと心が躍るのを抑えられない。
「儀式って、あの中でお祈りするんだよね。どれくらいかかるの?」
逸る気持ちを抑えられず、俺はビアンカ婆さんに聞いた。
「それは、人によるとしか言えないねぇ。あたしの時は2日くらいだったかね」
「そんなにかかるの?」
てっきり数時間で終わるものと思っていたので、ビアンカ婆さんの言葉に思わず聞き返した。ビアンカ婆さんは愉快そうに頬を緩め、俺の頭に手を置くと、大丈夫さ、と言った。
「儀式の時間は加護を得る神様の数によるんだ。あたしの場合はちょっと特殊だっただけで、普通は一柱か二柱の神様から加護を得られりゃいい方さ。そうなれば、ほんの一時間程度で終わるよ」
あ、神様って一人じゃないんだ、と今更な感想。普段は神樹様にしか祈りを捧げたりしないのですっかり失念していた。俺は「そうなんだ」と呟いて、再度完成した祭壇を見遣る。つまり、ここで何の神様から加護を得られるかというのが使える魔法の種類に影響するのだろう。ファンタジーの定番といえば定番だ。
「私はどんな神様から加護が貰えるんだろう」
個人的には火属性とか風属性とかがいいよね。ファンタジーの定番だし、実用性高めだし。
「そうだねぇ。ミカは元気だから、光の神の眷属神か、命の女神の眷属神か、もしかすると火の大神の眷属神ってことも考えられるね」
少し聞いたことのある名前が出てきて、俺はへぇ、と頷いた。命の女神様といえば、俺たちが普段崇めている神樹様の別名みたいなものだ。いや、正確に言うと、神樹様は命の女神様の化身で、神樹様への祈りは即ち命の女神様への祈りでー、とかってアンリエッタが言っていた気がする。今度その辺りもっと詳しく聞いてみてもいいかもしれない。それにしても、
「元気だからって、そんな適当なものなの?」
半分懐疑的にビアンカ婆さんに問い返す。流石にその理由付けはぞんざいじゃないの?という思いを込めた言葉は正しく伝わったようで、ビアンカ婆さんは少し困ったらしい顔をした。
「こればっかりはどんな神様が気に入って下さるかって話だからね。加護を受けてみなけりゃ分からんものよ」
確かにそうだ。神様なんて人知の及ばない存在なんだから、誰に気に入られるかは出たとこ勝負というのは何もおかしい事ではない。頷く俺を見て、ビアンカ婆さんがぽんと手を打った。
「それじゃ、手早く儀式を済ませてしまおう」
俺は素直に頷いて、円陣の中心に立った。俺の魔力が十分に染み付いた魔法陣は、俺が上に立つ事で薄ぼんやりとした白色の光を放つ。ここからどうすれば良いのかと、俺はビアンカ婆さんの方を振り返る。
「それじゃあ、魔力を魔法陣に流し込みながら祈りを捧げるんだ。そして、時が来たら呪文を唱えなさい」
何でもないことのように言うビアンカ婆さん。いや、そんなん言われても呪文なんか知らないんですけども?
「私そんなの知らないよ?」
「その時になればわかるさ。呪文は心の中でも、口に出しても構わない。とにかくはっきり唱えるんだ」
まぁ、ビアンカ婆さんがそういうならそうなんだろう。俺は少し怪訝に思いつつも魔法陣の上に座り込んで、言われた通りに祈りを捧げる。魔力を捧げれば捧げるだけ、代わりに体の内に神聖な何かが湧き上がってくるのを感じた。
その何かが俺の体を完全に満たすと、俺自身の根源的な部分とどこか遠い所が直接繋がったような奇妙な感覚を感じた。それと同時に、心の中に言葉が浮かぶ。なるほど、たしかにその時になればわかる、だ。俺は心に浮かんだ呪文を、噛みしめるように唱える。
「アニマ・プロト」
体内の魔力が更に消費される感覚。祈りで捧げた時とはまた違う感触だ。魔法陣が一際明るい光を放つ。
そのあまりの眩しさに俺は思わず目を瞑った。一瞬の浮遊感。次いで柔らかい風の感触を感じ、俺は閉じていた目を開く。そこはビアンカ婆さんの家の中ではなく、どこか広い場所だった。神樹様の枝の上であることは間違いあるまいが、こんな場所には来たことがない、気がする。遠くの方には辛うじて雲海が広がっているのが見えるが、他の枝は見えない。そのままぐるりと辺りを見渡そうと振り返り、俺は驚いて立ち尽くした。
視界に入ったのは、豪奢な神殿だった。
大樹の幹と一体化しているような黄金の神殿は、おおまかな形はかつて見た神樹様の祠に似ている。しかし、神樹様の祠が長い年月を感じさせる歴史的建造物であるのに対し、この神殿は全く新しいもののように見える。
いや、悠久の時を過ごして来たような、ある種の気配は感じるのだ。であるにも関わらず、この神殿には劣化の形跡が不自然なほどに見られない。
その神殿の奥にいる何者かに呼ばれたような気がして、俺は神殿の中に足を踏み入れた。知らない筈の建物だったが、何故だか何処に進めば良いのかが分かる。階段を登り、廊下を歩く。どれくらい歩いたのか、俺は一際大きな扉の前にたどり着いた。
清浄な気配を漂わせる、材質不明の白扉。表面に指を這わせると、ずっしりとした重みと冷たい、しかしどこか生命の息遣いを感じる感触。少し押すと、扉は何の抵抗もなく、俺を迎え入れるかのように開いた。
扉が開いた先、一面に広がる眩い純白に、俺はしばし目を奪われた。
魂の花が、広い空間を埋め尽くすほどに咲き誇っている。天上から降り注ぐ光はその神聖な輝きで花々を照らし、散った花弁が光る風に誘われて空へと還る。幻想的な風景だった。
しばらくそれを眺めていると、花園の中心に小さなテーブルと椅子が置かれているのに気が付いた。植物の蔓や花弁で形作られたそのテーブルには、魂の花と同じ透き通るような白い髪の女性が座っており、ニコニコと美しい笑みを浮かべてこちらを見ていた。
雪のように白い肌に、端正な顔立ち。その瞳は今まで見たこともない程に高貴な金色。瑞々しい桜色の玉唇は、僅かな笑みを浮かべているに過ぎないにも関わらず、どうしようもなく俺の心を奪ってしまう。しかし、どうしてだろうか。俺は、彼女を見るのは初めてではないような気がした。
しばし呆然と眺めていると、女性が俺に手招きをした。
俺は魂の花の隙間を縫ってテーブルの近くまで進むと、女性に促されるまま空いた椅子に座った。
『この花園に誰かを招くなんて、いつぶりかしら』
一瞬、それが目の前の女性から放たれた声だと気付かなかった。声は俺の心の中に直接響いたようで、これまで聞いた事のあるどんな声よりも清らかで、澄んでいて、神々しい。
気付けば、俺は手を組んで目の前の女性に……否、女神様に祈りを捧げていた。
少しして顔を上げると、俺の目の前には純白の果実が一つ。神樹様の恵みに似た形の果実だ。改めて女神様を見ると、彼女は慈母の如き笑みを浮かべて俺を見ていた。
『その果実をお食べなさい、我が愛子よ。それは私の加護が形を成したもの。それを食べれば、貴女は私の加護を得ることができます。ふふ、まさか、貴女に私の加護を与える日が来るなんて思いもしなかったわ』
懐かしむような女神様の言葉に、俺は違和感を覚える。この女神様に会うのはこれが初めての筈なのだ。しかし、女神様から感じる空気は長年の友人知人や家族に接する時のそれであり、あまりにフレンドリーな態度に拍子抜けを通り越して疑念が湧く。
『そんなに警戒しなくてもいいのに』
拗ねたような女神様の声。俺は慌てて滅相も無いと首を振る。
「警戒だなんてそんな!俺は、別に……」
別に、の後に何を続けようとしたのか、自分でも分からなくなる。そんな混乱が面白いのか、女神様は口元を押さえてクスクスと小さく笑った。
『貴女は変わらないわね。〇〇……失礼、今はミカエラね』
一瞬、女神様の言葉にノイズが入った気がした。ともかく、俺は純白の果実に手を伸ばし、自分の前まで持ってくる。果実からは神々しい気配が感じられ、一種の芸術品にも思えた。これを食べるなんてとんでもない気がするが、これを食べないなんてそれこそもっととんでもないことだ。俺はゴクリと生唾を飲み込んで、一旦果実から目を離す。目を離した先には、先程と変わらず慈母の笑みを浮かべる女神様がいる。やはり、見覚えがある気がした。
「……あの、一つ良いですか?」
堪えきれず、俺は女神様に問いかける。
『あら、何かしら。なんでも聞いて頂戴、ミカエラ』
嬉しそうに目を細める女神様。先程はあまりに自然で気が付かなかったが、当然のように俺の名前を知っている辺り、やはり彼女は人智を超えた存在なのだろうと確信する。
「俺は、どこかで貴女とお会いした事があるのでしょうか」
『ふふ……。今のあなたと、こうして会うのは初めてですよ。……ですが、私は貴女の事をよく知っています。そして、貴女も私の事をよく知っている。それは、果実を食べればわかる事です』
そう言って、女神様は悪戯っぽく唇に人差し指を当てた。俺は再度、目の前の果実に視線を移す。未だ神々しい気配を放つ純白は、やはり食べるには惜しい。まぁ、食べるんだけど。
「神樹様に感謝と祈りを。頂きます」
俺は手を合わせて祈りを捧げ、果実を手に取り、口にした。瞬間、俺は自分がとても深い湖に落着したかのような錯覚を覚えた。
命の力の奔流が、俺の全身を包み込む。その力は目の前で微笑む女神様の気配と同じものだ。巨大な力の奔流が、俺の内側を満たさんとばかりに侵入してくる。その力強さは、とても人間に抗えるようなものではない。
『安心して、受け入れなさい。それは私の力。私の加護。決して、あなたを傷付けるものではないわ』
女神様の言葉が聞こえる。いやね、それは理屈では理解しているんだけどさ。なんかこう、俺の容量を簡単にオーバーしそうな量っていうか、押し潰されそうっていうか。あ、はい。受け入れます。受け入れますからそんなあからさまに落ち込まないで罪悪感がー!
俺は意を決して、力の奔流に対する抵抗を辞めた。これまでの抵抗のせいからか、やはり俺を押し潰してしまいそうな程の力が俺の中に入ってくる。最初は潰されないかと不安だったが、少しするとその不安は霧散した。
力が内部に入って来るたび、体がその力に耐えられるように変化している……というか、書き換えられている、と表現するのが的確なのだろうか。力を受け入れるたび、体はその力を受け入れるに充分な容量を拡充していく。やがて体の変化が終わると、今度こそ力の奔流が俺の中を満たそうと入り込んで来た。今回は押し潰されそうな感覚はない。俺は安心してその力の奔流に身を任せた。
先程までとは比べ物にならないくらいの力が俺の中に入って来る。全身をこれまで感じたことの無いような感覚が走り抜けた。
電流を思わせる、脳髄が麻痺するかと思う程の刺激の波。初めての感覚に、一瞬で頭の中が真っ白になる。だが、それは痛みや不快感といったものでは無く、むしろ快い感覚だ。
身体中に大きな力の奔流が溢れ、流れ、俺の身体が、そして魂が、女神の
しばらくして力が完全に体を満たしきると、俺は椅子の背もたれに体を預けてすっかり荒くなった息を吐き出した。
先程の余韻からか頭の後ろの方はまだビリビリと痺れているような感覚がある。落ち着いて深呼吸をすると、その痺れは多少薄れ、徐々に思考がクリアになる。
呼吸が落ち着いた頃、俺は自身と女神様の間に深い繋がりができているのを感じた。それと同時、目の前の女神様が誰なのかも理解する。
そりゃあ、お互いによく知っているはずだ。驚きに目を見開いていると、命の女神、アニマ・アンフィナが小さく微笑んだ。
『もう時間のようです。それではミカエラ、貴女が私の加護のもと、その生命を明るく灯すことを願います』
儀礼的な言葉。似たような言葉を聞いた事がある。あれは、春先のお祭りの締めだったか。あの時のアンリエッタを思い出しながら、俺は跪いてアニマ・アンフィナに頭を垂れた。
「——全ては我が母なる女神様の御心のままに」
うまくできたかな。ちょっとした不安が首をもたげたが、俺は弱気な自分に大丈夫だと言い聞かせる。
夢から目が覚める時の独特の感覚。もう一度アニマ・アンフィナの顔を見ようと見上げた時には、既に女神の姿は無かった。
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