第2話

 ——……カ!ミカ!大丈夫なの!?ミカ!」


「うひゃあ!?」


 突然耳元で大きな声。俺は慌てて飛び起きた。目の前にはぷっくりと怒り心頭の様子の少女……恐らくは十四、五というところだろうか……が立っていた。


 辺りの景色は、見慣れた大学の中庭ではない。大きな木の枝の上、そう表現すべきだろうか。地面に触れるとゴツゴツとした木の感触と、ひんやりとした湿った感触。見ると、苔か何かの緑色が表面を覆っているようだった。


 惚ける俺を、少女、アンリエッタが心配そうに見下ろす。


「立てる?」

「あ、はい……」


 アンリエッタの手を取って立ち上がる。しかし、妙だ。いつもより視界が低い気がする。


「まさか、頭でも打ったんじゃないでしょうね?」

「え?」


 突然、顔全体に暖かくて柔らかい感触。気が付くと、目の前にはこれまで拝んだ事もない肌色の渓谷が広がっていた。なんというか、すごく柔らかい。


「んー……ぶつけた感じはないかしら?」


 頭上からアンリエッタの声が降ってくる。と同時に、後頭部に冷たい手の感触を感じた。そこで初めて、俺は彼女の腕の中で後頭部を観察されているのだと思い当たった。


 何という役得……なんて、堪能している場合ではない。今がどういう状況か、よくよく考えなければ。俺は天国に頭を預けつつ、努めて冷静に考えた。しっかし見事な感触だ。一家に一台欲しくなる。


 さて、順を追って考えよう。ここはどこだ。少なくとも我が学び舎の中庭ではあるまい。地面の感触から、神樹様の枝の一つである事は間違いないだろう。次、この状況は何だ。おそらく、俺が木から落ちたのでアンリエッタが介抱してくれているのであろうが……。


 あれ、そういえば、何で俺はこの子の事を知っているんだ?


 いや、子の事ばかりではない。この場所についても、まるで、長年この地で暮らしてきたかのような土地勘がある。


 俺はがばりと天国から顔を離し、少女の顔をまじまじと見つめた。視界の端で綺麗な銀の髪が揺れ、アメジスト色の目が少し驚いたように見開かれている。とてもじゃないが、日本人のようには見えない。


 面識は無いはずだ。何せ俺は日本の一般的な大学生で、海外留学なんて経験はない。だから、こんな銀髪美少女とは面識があるはずがないのである。ましてやこんな姉など……姉?


「……お姉ちゃん?いや、お姉様?」

「ああ、ミカ。やっぱりどこかぶつけてしまったのかしら。私が分かる?自分のことは?」


 自分のこと……。言われて思考を巡らした。

 俺の名前はミカエラ。大樹様の上で暮らす、バンとクリスの娘でアンリエッタの妹……。ではなく、俺は一般的な男子大学生の上木かみき 三日月みかづきだった筈。生まれた日がちょうど綺麗な三日月の夜だったからと母が名付けてくれた名前だ。


 今日はお姉ちゃんが好きな魂の花を間近で見せてあげようと思って、この間見つけたこの枝に来て——いやまて。俺は、古大木から落下して……くそ、記憶が混濁しているのかうまく思い出せない。


 悩むおれを見て、お姉ちゃんアンリエッタがますます心配そうな顔をした。そんな顔をさせるつもりはなかったのに。何かしなければという焦りに突き動かされて、俺は手に握りしめていた魂の花をアンリエッタに差し出した。


「これ、お姉ちゃんが好きな魂の花。近くで見せてあげたくて……」

「っ!このバカッ!それでミカが危ない目にあったらどうするのッ!」


 がばり、アンリエッタが俺の身体を抱き締めた。俺はほとんど反射的に、その小さな背中に手を伸ばす。両腕で包み込めそうな程小さい筈のアンリエッタの身体は思った以上に大きい。


 いや、当然か。いくらアンリエッタが小柄とはいえ、十五歳と十二歳では体格で劣るのは致し方あるまい。


 今の俺は、上木 三日月ではなくミカエラ・ライフウッドなのだから、と。自分でも驚くほどその言葉が腑に落ちた。


 俺はミカエラとして、泣きじゃくる姉の背中を「もう大丈夫だから」と小さく叩いて宥める。しばらくして落ち着いたらしいアンリエッタが俺の身体を離す。俺も、少し名残惜しく思いながらもアンリエッタの身体を離した。


「あっ……」


 ふと手元に目をやると、いつの間にか魂の花は萎れてしまっていた。美しい半透明だった花弁は完全に白く濁りきっており、緑色で瑞々しい活力に溢れていた茎も、完全に脱力してしまっている。


「花が……」

「……きっと、神樹様とこの花がミカを護ってくれたのよ。神樹様に、深く感謝を捧げます」


 アンリエッタが居住まいを正して手を組んだ。彼女が命の大樹の巫女として、大樹に祈りを捧げる時の姿勢だ。並んで、俺もそれを真似る。大樹に祈りを捧げるのは、アンリエッタを真似て幼少の頃から何度もやってきた事だ。今更違和感は無い。


 祈りを捧げると、すっと、胸の奥から何かが抜けていくような感覚がした。


「……。帰るわよ、ミカ。一度ドミニク先生に診てもらって、今日はお父さんとお母さんにもたっぷり怒ってもらいますからね」


 安心したような、怒ったような、複雑な顔でアンリエッタが言った。俺は思わずいつものように、眉を顰めて肩を落とす。


「うへぇ、ヤダなぁ」

「それだけの事をしたんだから、しっかり悔い改めなさい」


 言って、アンリエッタが俺にデコピンをする。痛い。俺はジンジンと痛む額を手で押さえた。


「分かってます、反省します」


 しっかり反省を表明すると、アンリエッタは少しだけ驚いたように目を見張った。


「あら、今日は随分聞き分けがいいのね。やっぱり早くドミニク先生に診てもらわないと、頭を打ってないか心配だわ」

「えぇ……。私が素直に反省したらそういうこという?」


 なんて、恨み言を言ってみると、アンリエッタはくすりと笑って俺の頭を撫で始めた。それは不思議と心地良く、思わず目を細めてしまう。俺はアンリエッタに手を引かれてその場を後にした。

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