第十章 湯の町の切り裂きジャック 9月 1日 午前 9時
それからしばらくして、町のおまわりさんがやって来て死体を検分した。どうやら死体はそのほとんどが湖水に浸かっているらしく、おまわりさんは死体を湖から引き上げた。
「わァッ!」
おまわりさんとは思えない、すごい叫び声が聞こえたのはその直後だった。
「く、首がない!」
「ええっ!?」
私はやっと法子に手を貸してもらって歩き始めたところだったのに、またとんでもないことを聞いて腰が抜けてしまった。
「こ、こいつは、あいつの手口、あいつの犯行だァ!」
おまわりさんは大声で言い、パトカーへ走って行った。
一方静枝は、救急隊員が駆けつけた時には意識を回復しており、受け答えもできるようになっていたので、もう大丈夫と言われていたところだった。
「た、尊通さん……」
彼女は呟き、再び気を失ってしまったのだ。法子は私から離れ、死体にまた近づいた。ゲッ。何て娘なのかしら……。
「衣服は何も身に着けていない……。首が斬られている……。ホントに湯の町の切り裂きジャックが……」
うひゃー! そこまで見てるの!? し、信じられないよォ。
「君、近づいちゃいかん! 現場が荒らされてしまう!」
戻って来たおまわりさんが、興奮気味に注意した。しかし法子は、
「もう荒らされていますよ、ほら」
桟橋を指差した。( 私は死体を視界に入れないようにして法子を見ているのだ! )
「えっ?」
おまわりさんはキョトンとして法子に近づき、桟橋を見た。
「ああっ、これは……」
「犯人が湖水をかけて桟橋の泥をすっかり洗い流してしまったようです。ここに残っている足跡はおまわりさんのものと、あと草薙さんのものしかありません」
「草薙さん?」
おまわりさんは再びキョトンとして法子を見た。法子は気を失っている静枝に目を向けて、
「その娘です」
おまわりさんは救急隊員に支えられている静枝に近づいた。
「どうですか?」
おまわりさんは、救急隊員に尋ねた。隊員は、
「脈拍も呼吸も心配するような状態ではないので、我々はこのまま引き上げます」
「わかりました。御苦労さまです」
「いえ、お互い様ですよ」
救急車はサイレンも鳴らさず赤色灯も消して、静かに走り去った。
「君達、大学生だそうだね?」
おまわりさんは藤堂さんを見て言った。藤堂さんは頷いて、
「はい。湖のそばにある、大学の保養所に来ているんです」
「なるほど」
おまわりさんは再び死体に目をやり、
「とにかく一旦保養所に戻って、本署の人間が行くまで待っていてくれたまえ。事情聴取をするから」
藤堂さんを見ないで言った。藤堂さんは法子と顔を見合わせてから、
「はァ、わかりました」
と答えた。
私達は保養所に戻った。その途中で、法子はこんなことを私に言った。
「何故草薙さんはあんなところに行ったのかしら? そして何故、気を失ったのかしら?」
「うーん。何故行ったのかはわからないけど、気を失ったのは死体を見たからじゃないの?」
私は死体のことを思い出して、ゾッとしながら答えた。しかし法子は、
「でも、死体を見ただけで気を失うかしら?」
「気の弱い人は、気を失うんじゃないの?」
「そうね。でも、草薙さんは桟橋を渡って、死体のすぐそばまで行っているのよ」
「そこで初めて死体に気がついたんじゃないの?」
私が言うと、法子は首を横に振って、
「いいえ、もしそこで初めて死体に気がついたのなら、桟橋の上で倒れているはずよ。でも、彼女は桟橋の手前で倒れていたわ」
「そうだね。どういうことかな?」
私は腕組みをして考えた。
私達が保養所に戻り、遅い朝食にありつこうとダイニングルームの方へ行った時、裕子先輩が蒼ざめた顔で私達を出迎えた。
「武君がどこにもいないの……」
「えっ?」
裕子先輩はすっかり涙声になっていた。
「部屋にいるのかと思って気にかけていなかったのだけれど、いくら声をかけても応えがないので、マスターキーを借りて来て中に入ったのよ。でも、中には誰もいなかったわ。バスルームのドアが開いていてバスタブにはすっかり冷めたお湯が張られたままで……」
「まさか……」
私は思わずそう口にした。あの桟橋の死体、武さんなの……? そんな……。
「そうしたら、湖の方で男の人の死体が発見されたという話を聞いて、びっくりして……」
裕子先輩はホントに悲しそうだ。やっぱり武さんのこと、まだ好きなんだ。
「何か手がかりがないか、部屋を探してみましょう」
法子が提案した。裕子先輩は小さく頷いた。
私達三人は、他の人達に気づかれないようにそっとダイニングルームを出た。ロビーのソファには静枝が横になっており、そのそばに行子が座っていたが、二人に気づかれる心配はなかった。私達は階段を上がり、武さんの部屋に行った。
「カギはかかってないわ」
裕子先輩はドアノブに手をかけようとした法子が振り向いたので、そう応えた。法子は頷いてノブを回し、ドアを開いて中に入った。裕子先輩がその後に続き、私は外を窺いながらドアを静かに閉じた。
「昨日とほとんど変わっていませんね」
法子は部屋を見回して言った。確かに昨日この部屋に入った時と同じように、衣服があたりに脱ぎ散らかされており、荷物も雑然と置かれていた。
「この服、昨日武さんが着ていたものですよね?」
法子はドアの開けられたままのバスルームの前に脱ぎ捨てられているジーパンとTシャツに近づいた。裕子先輩もそれを見て、
「ええ、そうね。下着まで一緒に脱いであるわ」
と言った。なるほど、ジーパンと一緒に、トランクスが脱がれている。武さん、横着な人なんだな。
「ということは、お風呂に入った、あるいは入ろうとしていた……」
法子はバスルームに入って行った。私と裕子先輩もそれに続いた。
「バスタオルがなくなっていますね。でも石鹸は使っていない……。カミソリは使ったみたい……」
法子はバスルームのあちこちを見て回り、最後に湯加減まで調べた。
「まだ冷たいというほどではない。鏡は曇っていないし、部屋の方へ湯気が出た形跡はないようだから、このバスルームのドアが開けられたのは、湯気もほとんど出なくなった頃ですね」
「私がこの部屋に入ったのは、草薙さんを探しに行って、貴女達が戻って来るまでの間だから、九時三十分頃かしら。その時もバスルームの鏡は曇っていなかったわよ」
裕子先輩がそう言うと、法子はハンカチで手を拭きながら、
「でしょうね。武さんがお風呂に入ろうとしてバスタブにお湯を入れ、服を脱いでバスルームに入り、お湯がたまるまでひげをそっていた。逆かな? ひげをそってからお湯をため始めた」
「ええ……」
裕子先輩は何とも言えない悲しそうな表情でバスタブを見つめていたが、
「二人は私が武君とつき合っていたこと、知っているようだから話すんだけど、私、この旅行に参加したのは彼の本心を知るためだったの。彼は、口は悪いけどホントはとても寂しがりやで、強がっているだけなのよ。だから中津さんに水が怖いことを指摘された時、とても狼狽えたんだと思うの。いえ、そう思いたいのかな。私、まだ彼が好きなのね、きっと……」
裕子先輩のきれいな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ち始めた。私はハッとして、
「どうぞ、先輩」
ハンカチを差し出した。しかし裕子先輩はそれを右手で制して自分のハンカチを出し、涙を拭った。そしてニコッとして、
「ごめんなさいね。涙なんかこぼして、バカみたいよね」
言い添えた。法子もニコッとして、
「とんでもない。人間は感情豊かな動物なのですから、それを抑制するようなことはしない方がいいんです。泣きたい時は泣いて、笑いたい時は笑う。それでいいと思います」
「ありがとう」
裕子先輩はそう言ってから、大きく深呼吸をして目をつぶって心を落ち着けようとした。そして再び目を開いて、
「武君、どこに行ったのかしら?」
法子に尋ねた。法子はバスルームを見回し、
「この状態だと、武さんは何も身に着けていないか、バスタオルを巻いているだけかのどちらかですね。昨日着ていた服は床にありますし、他の服もバッグやベッドの上にあるようですから」
私はまたギクッとした。あの死体、確か何も身に着けていなかったはず……。当然法子もそのことは覚えているはずだ。
「これ、夕食の残りですね」
法子はテーブルに置かれたトレイに目をやり、近づいた。裕子先輩もテーブルに近づき、
「ええ、そうね」
トレイを覗き込んだ。トレイの上には食器がいくつかと、ナイフとフォーク、それにスプーンが載っていたが、スープの残りが少しあるだけで、武さんは夕食をきれいにたいらげたようだった。
「先輩が食事を運んだ時は、武さんはドアを開けてくれたんですか?」
法子は先輩を見た。先輩はトレイを見たままで、
「ええ。ムスッとしているかと思ったら、意外にケロッとしていて嬉しそうにトレイを受け取ったわ。私、部屋に入るように勧められたんだけど、遠慮しといたの」
「ということは、その頃すでに武さんは別に怒ってはいなかったのですね?」
「と思うわ。ただ、草薙さんと顔を合わせるのは気が退けたのかも知れないけど」
「そうですね」
法子は腕組みをして考え込んだ。そして、
「先輩、実は湖のほとりで発見された男性の死体、何も身に着けていなかったんです」
「えっ?」
裕子先輩はピクンと身を動かし、法子を見た。しばらく沈黙の時が流れた。
「そ、それ、どういう意味?」
先輩がやっと口に出した言葉に、法子は実に慎重な顔をして、
「今言った通りです。もしかすると、その死体が武さんかも知れません」
「そ、そんな……。だって……」
先輩は蒼い顔で法子を見て、唇を震わせた。法子は部屋を見回して、
「断定はできません。でも、武さんの姿が見えなくなったこと、そしてこの不自然きわまりない部屋の様子。何かあったと考える方が正しいと思います」
裕子先輩に目を向けた。先輩は硬直してしまったかのように動きを止めてしまい、しばらく何も言わなかった。
「ここだったの。もう朝食の用意、できたわよ」
美砂江がドアを開いて顔を出した。法子は彼女を見て、
「わかりました。すぐ行きます」
美砂江は不審そうに部屋の中を見回してから廊下を歩いて行った。
「とにかく食事にしましょう。武さんのことは、その後で藤堂さん達に話すことにして」
法子が提案した。裕子先輩は黙って頷いた。しかし、私達の朝食は結局昼食と一緒になってしまった。階下に降りて行くと、さっきのおまわりさんと私服の刑事らしき人が二人、ロビーに立っていたのである。
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