第九章 惨劇の始まり 9月 1日 午前 8時
私はその夜ずっと法子の部屋にいて、話をしたり本を読んだりして過ごした。そして自分の部屋に戻るのが面倒臭くなり( 決して怖かったのではない )、彼女と一緒に一つのベッドで寝させてもらった。
彼女の寝顔はドキドキするくらい可愛らしく、寝息はホントにかすかに聞こえる程度であった。そして長いまつげが月明かりに照らされて、何とも言えない美しさを放っていた。私はそんな彼女の顔に見とれているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
「うん?」
朝の日ざしが顔に当たるのを感じて私は目を覚ました。もう少しでベッドから転げ落ちそうになっているのに気づき、ハッとして身を起こした。気がつくと法子はすでに起きており、バスルームの洗面台の前で髪をとかしているのがチラッと見えた。
「お目覚め?」
彼女はニッコリ微笑んでバスルームから出て来た。私はクシャクシャになった髪をサッサッと手ぐしで直して、
「う、うん。ちょっとお手洗い、借りるね」
バスルームに飛び込んだ。
「フーッ」
昨日の朝はもっと早く起きていたので、今日は八時に起きてもそう眠くはない。
「あら、藤堂さんと皇さん、ゴルフに出かけるみたいね」
私は窓の外に目をやって法子に言った。法子は私を見て、
「いえ、違うわ。今戻って来たところよ。朝食前に軽く打ちっ放しに行っていたのよ」
夜型人間の私はすっかりびっくりして、
「えっ、もう行って来たの? 何時に出かけたのかしら? 」
「六時くらいよ。話し声がしたので、気づいたの」
法子は何でも知っている。まるでポアロの名セリフみたいだ。
「そうなの」
私は窓から離れて、ベッドに腰を下ろした。そしてちょっと恥ずかしかったが、
「ねェ、夕べ私、寝相悪かったでしょ?」
尋ねてみた。すると法子はクスクス笑いながら、
「別に気にしない方がいいわよ。私達、友達でしょ?」
「あっ、その言い方、私、すごかったんだ?」
私は目をウルウルさせて言った。法子はますますおかしそうに笑いながら、
「女同士なんだもの、気にしなくていいんじゃない? 私だって寝相悪いんだから」
「ウッソォッ! 中津さんなんて、死んだように静かに眠ってたよ」
私がハイテンションな声で言うと、法子は、
「ねェ、その『中津さん』ていうの、やめにしない?」
「えっ?」
それは私も思っていたことだった。でもなかなか口に出せなかったのだ。法子はまたニッコリして、
「法子でいいわよ」
私もそれを聞いてホッとした。そして、
「じゃ、私も律子でいいよ」
私達はお互いにニッコリした。
「もう朝食の用意ができてるわ。階下(した)へ行きましょ、律子」
法子が言ったので、私はベッドから立ち上がって、
「そうね、法子」
そして私達は部屋を出て、ダイニングルームに向かった。
私達が階段を降り切ったところへ、藤堂さんと皇さんが外から入って来た。
「藤堂さん、ホントにいいんですか?」
皇さんが尋ねた。藤堂さんはさわやかな笑顔で頷いて、
「仕方ないよ。お気に入りだったけどさ」
何の話かな。私は興味が湧いたので、
「おはようございます。どうしたんですか?」
口をはさんだ。すると皇さんが、
「やァ、おはよう。実はさ、藤堂さんがお気に入りのアイアンを折っちゃったんだよ。それで、持っていると気が滅入るからって練習場に処分してくれるように頼んで来たんだ。もったいないだろう?」
私は藤堂さんに尋ねたのに。
「もういいよ、その話は」
藤堂さんが言った。そして、
「おはよう、中津さん。夕べはよく眠れた?」
法子に声をかけて来た。ああ、やっぱり藤堂さん、法子に気があるのか。ま、華子先輩だとシャクにさわるけど、法子なら諦めがつくな。
「はい、おかげさまで。殺人鬼はここには来なかったみたいですね」
法子はニッコリして応えた。
「ハハハ」
藤堂さんと皇さんは顔を見合わせて笑い、ダイニングルームの方へ歩いて行った。
「さっ、私達も行きましょ」
私は法子を促した。しかし、彼女は階段の上に目を向けて、
「どうしたのかしら、戸塚さんと裕子先輩……」
私も階段の上に目をやった。そこには不安そうな行子と裕子先輩が立っていた。二人は何か話をしているらしい。行子が時々静枝の部屋の方に目をやりながら、裕子先輩に説明しているようだ。先輩はしきりに頷きながら、聞き返している。
「何かあったんですか?」
私はちょっと大きめの声で階下から二人に呼びかけた。二人は同時に私に目を向け、階段を降りて来た。
「静ちゃんが部屋にいないの」
行子が泣き出しそうな顔で言った。この娘、ちょい心配症だな。私は、
「ダイニングルームにいるんじゃないの?」
しかし、裕子先輩が首を横に振りながら、
「いいえ、ダイニングルームにはいないわ。保養所の中はほとんど探したそうよ。昨日の話を思い出して、戸塚さん、ひどく心配して……」
あっさり否定した。行子はさらに、
「念のために他の人の部屋にいるかも知れないと思って声をかけてみたんだけど、どこにも……」
口籠ってしまった。裕子先輩はそんな行子を気遣いながら、
「武君の部屋だけは、確認していないんだけど」
「なァんだ、じゃあ二人は仲直りして熱い夜を過ごしたんじゃないですか?」
私がそう言うと、裕子先輩は私を見て、
「それも考えられないのよ。大和さんが偶然階段のところで草薙さんとすれ違っているの。草薙さん、ひどく慌てた様子で階段を駆け降りて行ったらしわ」
「大和さんは草薙さんがどこへ行ったのか、知らないんですか?」
法子が口をはさんだ。行子が首を横に振り、
「ええ。大和さんはすぐに部屋に入ってしまったので、静ちゃんが階段を降りて行くのを見ただけなの」
裕子先輩は玄関の扉を見て、
「外に行ったのかも知れないわね」
「その可能性はありますね」
法子が同意した。
「武さんが何か知ってるんじゃないかしら」
私が言うと、裕子先輩が頷いて、
「私もそう思ったのだけど、武君たらいくら声をかけても返事もしないのよ。まだ寝ているのかしら?」
呆れ気味に言った。そしてフッと溜息をついて、
「とにかく藤堂さんに話して、草薙さんのこと探さないとね。普通の身体じゃないんだし」
裕子先輩の言葉に、私はハッとした。そうだ、静枝は妊娠しているんだ。
裕子先輩は私達に目配せして、ダイニングルームの方へ歩いて行った。
「夕べは、いつ頃まで草薙さんと一緒だったの?」
法子が行子に尋ねた。行子は法子を見て、
「夕食を一緒に食べて、食器をキッチンに運んでから静ちゃんの部屋に戻ったら、『一人にして』って言われて、部屋を出たの。九時頃だったんじゃないかしら」
法子は頷いてから、
「その時、草薙さんの様子、変じゃなかった?」
「変て言うほどじゃないけど、何か沈んだ感じだったわ。私、だから余計心配なの。思いつめて、自殺なんて考えているんじゃないかって……」
行子はまた涙声になった。私が肩をすくめて、
「草薙さんて、自殺するようなタイプじゃないと思うけど」
口をはさむと、行子はムッとして私を睨み、
「神村さん、静ちゃんのこと、何も知らないのにそんなこと言わないで!」
私は、しまった、と思い、
「ご、ごめんなさい、不謹慎だったわ」
と謝った。
「草薙さんが、いないんだって?」
藤堂さんより先に皇さんが現れた。藤堂さんはその後ろから裕子先輩と話しながらやって来た。法子が、
「ええ。皇さんは、草薙さんを見かけていないんですか?」
「ああ、見かけていないよ。て言うより、俺と藤堂さんはまだ薄暗いうちに保養所を出たから、見かけてもわからなかったのかも知れないけどね」
皇さんは心配そうだ。静枝に気があるのはまず間違いないな。
「とにかく、みんなで手分けして探そう。中にはいないみたいだから、外だね」
藤堂さんが言った。裕子先輩は作り笑いをして、
「案外、ただフラッと散歩に出かけただけかも知れないけどね」
と言ったが、静枝と武さんのケンカの原因を知っている私と法子や、全ての事情を知っている行子には気休めにはならなかった。
しばらくして、美砂江、そして華子、須美恵の両先輩もロビーにやって来て、静枝がいないことを聞き、全員で(但し武さんはいないが)探すことにした。
「どこに行ったのかしら? 」
華子先輩は迷惑そうな顔で言った。須美恵先輩が、
「昨日武さんとケンカしてフテくされて、一人でブラブラ外を歩いてるんじゃないの? 放っておけばいいって気もするなァ」
すると裕子先輩が、
「そんなこと言うもんじゃないわ、吾妻さん。同好会の仲間でしょ」
「はいはい」
須美恵先輩はさも申し訳なさそうに言いながら肩をすくめ、裕子先輩が背を向けるとペロッと舌を出した。何て人だ、全く。
「草薙さんを最後に見かけたのは、大和さんだったよね。何か気づいたことはないかな? 」
藤堂さんが、美砂江に尋ねた。しかし美砂江は首を横に振って、
「いいえ、別に。ちょっと慌ててるなって思っただけで、他には何も……」
「そうか……」
私達は保養所の敷地を出て、付近の林や湖の周りを探すことにした。
皇さんを中心に、裕子先輩、華子先輩、須美恵先輩。そして藤堂さんを中心に、美砂江、法子、行子、私。皇さん達は林の方を、藤堂さんと私達は湖の周りを探すことになった。
私達はほどなく湖のほとりに出て辺りを見回し、静枝を探した。しかしそれらしき姿は、視界には入らなかった。
「こっちの方を探してみよう」
藤堂さんは湖の北に向かって歩き出し、私達もそれに続いた。
「いないみたいね」
美砂江はその大きな目をキョロキョロさせて周りを見ながらそう言った。その時法子が、
「あっ、あそこに人が倒れてます!」
藤堂さんもすぐに法子が見つけた人物に気づき、
「ホントだ。行ってみよう」
駆け出した。法子がそれに続いた。私と行子、そして美砂江も歩を速めた。そこは周りに何もない腐りかけた桟橋のそばだった。
桟橋に近づくにつれて、倒れている人が静枝だとはっきりわかった。行子は顔面蒼白で今にも倒れそうだ。
「こんな人気のないところで、一体……」
法子が呟いて静枝に近づくと、藤堂さんが法子を手で制して、
「中津さん、医者を呼んでくれないか。できれば、救急車を呼んでもらえるともっとありがたい」
静枝に近づいた。行子は藤堂さんの後ろからついて行き、ジッと静枝の様子を見ている。藤堂さんは静枝の手首に手を当て、
「大丈夫だ。気を失っているだけだ」
私達の方を見て言った。行子はホッとしたのか、少し微笑んだ。法子が、
「さっ、行きましょ」
私と美砂江を促して立ち去ろうとした時、藤堂さんが、
「待ってくれ!」
大声を出した。私達はびっくりして藤堂さんを見た。彼は桟橋の方を指差して、
「あれ、人間の足じゃないか?」
問いかけたのか、同意を求めたのかわからないような感じで言った。
「えっ?」
私達も桟橋に目をやった。改めて見てみると、桟橋の先端に人間の足のようなものが見えているような気がした。
「あれは……」
法子はスッと桟橋のすぐそばまで駆け寄り、その足を間近に見た。そして彼女は深呼吸してから、
「人間の、それも男の人の足のようですね。しかも死んでいます」
「ええっ!?」
私と美砂江は顔を見合わせた。法子は藤堂さんを見て、
「救急車の他に、警察も呼ばないといけませんね」
「ああ、頼む。僕はここに残って人が寄って来ないようにするよ」
「お願いします」
法子は私を見た。私はもう、死体があると聞いただけで歯の根も合わないほど震えて、
「わ、私、当分動けそうにないから、ここで待ってるわ」
やっと口に出して言った。法子は私の肩に手をかけて、
「わかったわ。すぐに戻るから」
これまた半分失神寸前の美砂江の手を引いて、保養所の方へ走って行った。
( 静枝が無事見つかったのに死体を発見しちゃうなんて、なーんてアンラッキーなんだろ、私ってば )
などと我が身の不幸を呪ったりした。
「静ちゃん……」
行子は静枝のことで頭がいっぱいなのか、全然怯えた様子がなかった。
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