第七章 尊通の話  8月31日 午後5時

「武君、いる?」

 裕子先輩がノックしながら声をかけた。しかし、何の応答もない。

「いないのかしら?」

 私が法子に言った時、ドアのカギが開く音がしてやがてドア自体が開き、武さんが顔を出した。

「何だ、裕子ちゃんか。何か用?」

 彼は眠そうな顔をして尋ねて来た。裕子先輩は呆れ顔で、

「眠ってたの、武君?」

 すると武さんは生あくびをして、

「ああ……。ちょっとね」

 その時私達「金魚のフン」がいることに気づき、

「何だ、団体さんか」

「中に入れてくれない?  廊下で話すようなことじゃないから」

「おいおい、穏やかじゃないな。何の話だい?」

「とにかく入るわよ」

 裕子先輩は半ば強引にドアを開き、武さんを押し退けるようにして部屋の中に入った。法子、私、行子と続き、行子が後ろ手にドアを閉じた。

「きたないわね。少しは片付けなさいよ」

 裕子先輩が言った。無理もない。まだここに来て一日も経っていないのに、部屋の中はベッドと言わず、テーブルと言わず、ところかまわず服が脱ぎ散らかしてある。下着まであった。私は思わず目のやり場に困り、下を向いた。

「まァ、いいじゃないの。帰る時にはきれいにしてくからさ」

 武さんは相変わらずノホホンとしていた。裕子先輩はキッとして、

「そういう問題じゃないでしょ」

 たしなめるように言った。武さんはペロッと舌を出したが、すぐさま、

「それより、何か話があったんじゃないの? 」

 話題を切り替える作戦に出て来た。裕子先輩は、仕方ないわね、という顔で、

「そうね。それじゃあ、どこかに座らせていただけないかしら?」

「あっ、これは失礼」

 武さんはニヤッとして、その辺に散らばっている服をかき集め、隅の方に放り投げた。そして、

「とりあえず、椅子とベッドには腰掛けられるようにしたぜ」

 私達は呆れて、背もたれのない丸椅子に腰を下ろした。武さんはニヤニヤしながらベッドに腰を下ろした。

「さてと。一体何の話かな?」

「草薙さんのことよ」

 裕子先輩がそう言うと、にやけていた武さんの顔が急に険しくなった。

「静枝のこと? あいつから何か聞いたのか?」

「貴方、彼女に別れ話をしたんですって?」

 裕子先輩の言い方には、いくらか怒りが込められているような気がした。武さんは、

「そんなこと、君らに関係ないだろう?」

 強い調子で言い返して来た。ふだんの武さんからは想像もつかないほどの重々しい声だった。

「関係なくないわ。貴方、同好会のメンバーの中に、好きな子ができたって聞いたわよ」

 裕子先輩の声もさっきよりトーンが高い。すると武さんは、フッと笑って、

「何だ、裕子ちゃん、ヤキモチ妬いてるの?」

 裕子先輩はムッとして、

「うぬぼれないでよ。貴方とつき合っていたのはもう過去の話よ」

 武さんはまたニヤニヤし始めて、

「なるほど、俺が静枝から今度誰に乗り換えるのか、それが知りたいのか」

「そんなことじゃないの! 私達が心配してるのは、草薙さんのことよ」

 裕子先輩はますます声を張り上げて言った。裕子先輩もこんなに興奮することってあるんだ。

「彼女、どちらかと言うとカッとなりやすいタイプでしょう? だからケンカになったんだと思うけど」

 裕子先輩が確認するように話すと、武さんは、

「ケンカの原因については、静枝の奴、正確に話していないみたいだな。原因は、俺が別れ話を切り出したからじゃないよ」

 意外なことを言い出した。裕子先輩は私達と顔を見合わせてから、

「じゃあ、何が原因なのよ?」

 しかし武さんは、

「そのことについては、静枝が口にしていないのなら俺も話すべきじゃないだろうから、言えないよ」

と答えただけだった。裕子先輩も、そう言われてしまっては、二の句が継げない。

 静枝が話していないのなら、話すべきではないって、一体どういうことだろう? 二人の間に何があったのだろうか?

「もしかして、静ちゃんの妊娠のことですか?」

 行子が唐突に言った。裕子先輩と私はびっくりして行子を見た。武さんも何で知ってるんだ、という顔で行子を見た。法子はごく冷静に行子の爆弾発言を受け止めているようだ。

「そうなんですね」

 行子は言い、悲しそうにうつむいた。ようやく武さんが、

「言っとくけどな、行子ちゃん、俺じゃないぜ」

と言い逃れにしか聞こえないことを言った。 当然裕子先輩の反応は、

「貴方は草薙さんに何もしていないと言いたいの?」

という問いだった。武さんはフフンと笑って、

「そうは言わないけどさ。でも俺じゃないよ。根拠はないんだけどな」

 すると行子は、

「静ちゃんは武さんのことがホントに好きなんです。そんな言い方しないで! 静ちゃんが可哀想……」

と今までで一番大きな声を出した。これには武さんも驚いたようだ。

「へェ、行子ちゃん、そんな大きな声も出せるんだ。びっくりしたな」

 行子は武さんの言葉で耳まで赤くなり、下を向いてしまった。武さんは肩をすくめて、

「ここまで言えば、わかるだろ、裕子ちゃん。静枝は、責任を取ってくれって言って来たんだよ。でも俺はそれに応じなかった。だからあいつ、切れちまったのさ」

「……」

 裕子先輩は返す言葉もないほど呆れてしまったようだ。どうやら武さんの「無実」を全く信じていないらしい。

「信じてくれなくてもかまわないけど、俺だって身に覚えのないことを言われたって、はいそうですか、とは言えないよ」

 武さんは立ち上がった。そして全くの真顔のままで、

「悪いが、出て行ってくれないか。俺の言葉を信じられないのなら、ここにいられるのは不愉快だからね」

と言い添えた。

「わかったわ。失礼するわよ」

 裕子先輩も憤然として言い返して立ち上がった。私達もそれに応じて立ち上がった。

「お帰りはこちらでございます、お嬢様方」

 武さんは嫌味な笑みを浮かべて、ドアを開いた。裕子先輩は武さんを睨みつけてから、部屋を出た。私達もそれに続いて部屋を出た。


「草薙さんの話、びっくりしたわ。戸塚さんはいつ知ったの?」

 裕子先輩は自分の部屋の前まで来た時、振り返って尋ねた。行子は裕子先輩を見て、

「昨日です。静ちゃん、私のアパートで吐いたんです」

 行子の答えに、私はびっくりした。と言うことはつわりが始まっているってことか。

「静ちゃん、武さんに全てを話して、認めてもらって、結婚を考えてもらうって……」

と行子は続けた。裕子先輩は頷いて、

「とにかく、草薙さんにもう一度話を聞いてみるしかないわね。武君の話、すぐには信じられないし」

「そうですね」

 法子が応えた。すると行子が、

「私が静ちゃんに聞いてみます。そして、皆さんに改めて相談します」

「わかったわ。やっぱりそれがいいわね。お願いね、戸塚さん」

 裕子先輩の言葉に行子はゆっくり頷き、静枝の部屋に向かった。

「私達は下のリヴィングで、コーヒーでも飲んで待ちましょうか」

「はい」

 法子と私は裕子先輩に続いて階段を降りた。

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