第五章 殺人鬼の存在  8月31日 午後 2時

 しばらくして私達は藤堂さんの叔父さんの運転するマイクロバスに乗り込み、まず最初に裕子先輩の希望を尊重して、榛名神社に向かった。

 私達のいる保養所は湖の西側にあり、裏手を高崎榛名吾妻線が走っている。ここから榛名神社に行くには、一旦東に向かい、鋭角のカーブを曲がって登り上げて渋川松井田線に入り、再び下る。マイクロバスでこの道を走るのはこれで二度目。保養所に来た時通ったのだ。朝は何ともなかったのに、今は何やら酸っぱいものが込み上げて来そうになっている。

「神村さん、大丈夫?」

 隣に座っている法子が私の異変に気づいて声をかけてくれた。私は作り笑いをして、

「大丈夫。ここで戻したら、死ぬほど恥ずかしいから、何とか堪えるわ」

 法子はニコッとして、

「無理しないでね。我慢できなかったら、すぐにバスを停めてもらうから」

 優しいなァ。でもさ、正直な話、こんないい子に彼がいない方が不思議よね。どんな彼なんだろ? 神社に着いたら、それとなく聞いてみるか。やっぱりやめとこかなァ……。

 バスは神社の入り口にさしかかり、再び鋭角のカーブを曲がった。私は何とか気持ち悪さを堪えて、外に目をやった。

「ここからさらに登り上げるんだよな」

 皇さんが言った。バスはしばらく走って、ついに「榛名神社」と彫られた大きな石塔のあるところに着いた。

「さっ、ここからは歩きだよ」

 藤堂さんが立ち上がって一同に言った。私は何とか気持ち悪さを抑え、法子と共に席を立ち、バスから降りた。

やっぱりだ。バスの恐怖から逃れたと思ったら、今度は坂道と階段の恐怖である。私は山門の脇にある神社の案内図を見ただけで、あまりの広さに足がすくんでしまった。

「ここまで来て、帰るなんて言わないでよ、神村さん」

 法子に言われ、私は仕方なく神社の本殿まで行くことにした。

 階段を登ったり橋を渡ったりしながら、私達は奥へと進んだ。途中、七福神の像があったり、「ハケ ブラシノ塚」とかいう不思議な石碑もあったりした。

 そんなこんなで、私達はようやく本殿に辿り着いた。もう、ヘトヘト(なのは私だけらしい……)。

「わァ……」

 裕子先輩は本殿と岩がまるで生き物のようにからみ合っているのを見て、感動しているようだ。

「私、あまり信仰心はない方だけど、やっぱり神社の建築物って荘厳で神聖な感じがするわね」

「そうですね。よォし、この本殿をバックに一枚写真を撮りましょう」

 美砂江が使い捨てカメラを取り出した。彼女以外の者が本殿の前に並び、思い思いのポーズをとった。

「いきまァす!」

 美砂江はそうかけ声をかけて、シャッターを押した。すると皇さんが、

「あっ、今の、カメラが動いちゃったよ」

 美砂江はペロッと舌を出して、

「ハハハ、そうみたいですね。皇さん、タッチ!」

 カメラを皇さんに放った。皇さんはそれを受け取って、

「まっかせなさァい。高校ではプロ並みと言われたこの皇 実が、皆さんを実物以上にきれいに写して上げましょう」

 すかさず須美恵先輩が、

「あら、それだと私、どんなに美人に写るのかしら?」

 目をパチパチさせたので、皆ドッと笑ってしまった。

「記念に絵馬でも買おう」

 藤堂さんが言い、巫女さんから絵馬を一つ買った。そして、

「みんなの名前を入れようか」

 巫女さんにサインペンを借りて来た。

「私一番!」

 美砂江がサインペンを受け取り、絵馬に自分の名前を書いた。すると華子先輩が、

「藤堂さん、お互いに名前を書きっこしましょうよ」

 美砂江からペンを受け取って言った。藤堂さんは苦笑いをして、

「ああ、いいよ」

 華子先輩の名前を書いた。すると華子先輩は、

「やだ、藤堂さん、私、『華子』ですよ。『樺子』じゃないですよ」

 絵馬を覗いてみると、確かに、

「音 樺子」

となっている。藤堂さんは頭を掻いて、

「あっ、ごめん。木ヘンは余分だったか」

 「樺」の「木」をペンで塗りつぶした。華子先輩はそれでも嬉しそうだ。よっぽど藤堂さんが好きなんだな。

「じゃ、次私ね」

 須美恵先輩がペンを取った。

 やがて全員が名前を書き終わり、絵馬を奉納することになった。

「草薙さんと、武君の名前も入れましょうよ」

 裕子先輩が提案した。皇さんは嫌そうな顔をしたが、他の人は誰も異義を唱えなかったので、二人の名前も入れることになった。

「さてと。さっきみたいな恥をかかないようにしないとね」

 藤堂さんは言いながら、まずは武さんの名前を書いた。あれっ?

「藤堂さん、それ、違ってますよ」

 皇さんが口をはさんだ。藤堂さんはハッとして、

「えっ、どこ? 」

 皇さんは絵馬を指差して、

「ここですよ。武の『たけ』は、中が『止める』ですよ。それ、『上』になってますよ」

 藤堂さんは、

「ああ、そうだっけ。どうも漢字は苦手なんだよね」

 照れながら言った。私は藤堂さんの欠点がわかって、少し安心してしまった。何でだろ。すると法子が、

「もう一ケ所違ってるわ」

 私に囁いた。私は法子を見て、

「えっ? どこどこ?」

「武さんの名前の方よ。『尊通』の『通』の『よう』が、『かく』になっているわ」

 私は法子の指摘がなければ見過ごしていた。確かに「通」の字も違っていた。しかし、ここは漢字の書き取りテストの会場ではないので、藤堂さんに教えるのはやめにした。私、皇さんみたいにズケズケした性格じゃないもん。なァんてただ惚れた弱味かもね。わっ、自分で認めちゃった。

 それから絵馬は無事奉納され、私達は榛名神社を後にして次に榛名富士に向かった。

 榛名富士は標高1391mの、あまり高い山ではないが、前述したとおりその形はまさにプリンである。

マイクロバスは馬車を追い越し、自転車をかわしながら、榛名富士の麓にあるロープウェイ乗り場を目指した。

 乗り場に到着すると、華子先輩は実に嬉しそうにロープウェイに乗り込み、藤堂さんの隣をしっかりキープし、腕を組んだ。やるなァ。私には到底できないことだ。藤堂さんは迷惑そうだったが(決して私の思い込みではない)、その腕を振りほどくほどひどい人ではないので、そのままである。その時だ。藤堂さんは華子先輩でも裕子先輩でもなく、法子をチラチラと見ていたのである。当の法子は行子と窓の外を見ながら話しているので、藤堂さんの視線には気づいていないようだ。もちろん、華子先輩も気づいた様子はない。

「どうしたの、神村さん、ボンヤリして。また気分でも悪いの?」

 法子に声をかけられて、私は妄想を破られた。そしてハッとして彼女に目を向け、

「ハハハ、べ、別に何でもないのよ」

 妙に焦りながら応えた。そして彼女の耳元に口を近づけて、

「藤堂さんが、貴女を見てるわよ」

「知ってるわ」

「えっ?」

 法子は私に言われるまでもなく、藤堂さんの視線に気づいていた。彼女は外を見たままで、

「実はね、藤堂さんからは、何度かお手紙やお電話を頂いてるの」

「ええっ? 」

 私は小さいながら、驚きの声をあげてしまった。行子が私達のヒソヒソ話に気づき、

「どうしたんですか? 」

 声をかけて来た。法子は微笑んで行子を見て、

「ごめんなさい、何でもないの」

 行子は納得していないようだったが、それ以上は何も言わなかった。

 ロープウェイが山頂に着いた。街ではまだ残暑が厳しいのに、ここは別世界だった。頬に触れる風は、涼しいと言うより寒いくらいだ。

「さすがにここまで来ると、涼しいなァ」

 皇さんが言った。藤堂さんも周りに見えるたくさんの山々を眺めながら、

「そうだね。しかし、いい景色だな」

「ホントですねェ、藤堂さん」

 華子先輩はニコニコしながら言った。腕は相変わらず藤堂さんと組んだままだ。すると美砂江が、

「ロープウェイって、密室になるから嫌いよ」

と吐き捨てるように言った。身震いまでしているから、相当嫌いなのだろう。

「そう言えば、ロープウェイ殺人事件てあったっけ?」

 須美恵先輩が突拍子もないことを言い出した。華子先輩が、いい雰囲気を壊された、という顔で、

「何よ、バカなこと言って。他に考えることないの?」

 須美恵先輩は、

「あら、推理小説を共同執筆している貴女に言われたくないわね」

 さらに反論。すると藤堂さんが、

「へェ、君達、推理小説を書いてるの?」

 華子先輩は「やった! 」とガッツポーズをして、

「そうなんです。共同で構想を練って、登場人物の設定や、事件の概要、トリック、伏線と、いろいろアイディアを出し合ってるんです。で、二人で執筆するので、『江羅利九陰えらりくいん』にでもしようかって」

「エラリー・クイーンをもじったわけか。さすが、乱歩ファンだね」

 藤堂さんが感心したように言うと、華子先輩は、

「やだ、私、横溝正史ファンですよ。須美恵と間違えないで下さいよ」

とむくれた。藤堂さんはバツが悪そうに笑って、

「いや、ごめん」

「そう言えば、この当たり一帯で、連続殺人事件が起こったって聞いたな」

 皇さんが口にした。須美恵先輩がすかさず、

「知ってます、それ。ワイドショーでやってましたよ。『湯の町の切り裂きジャック』ってリポーターが言ってましたね」

 藤堂さんも頷きながら、

「今度のこの旅行を榛名湖畔にしたのも、そのことを調べてみたいという理由もあったからなんだ。事件の内容が、まるで推理小説みたいだからね」

 私は「湯の町の切り裂きジャック」についてほとんど知識らしいものはなかったが、名前は聞いたことがあった。そして今初めて、この辺りがその現場なのだということを知った。何か、怖くなって来たな。

 その事件の概要は大体次のようなものである。もちろんこれは後で私が調べたのであるが。


 榛名山麓から伊香保にかけて三件の殺人事件が発生した。そのどれもがまさに猟奇殺人というべきものであった。

 どの事件の被害者も首を斬られ、衣服を剥がされていたのだ。警察は異常者、怨恨など、様々な面から捜査を進めていたが、三つの殺人事件の被害者はどこから調べてもつながりがなく、犯行の動機にも一貫性がないように思われたし、殺害はされなかったが、犯人に追いかけられた人は数十人にも上り、通り魔殺人の方向へと絞り込まれている段階だということだ。しかし犯人の絞り込みには至っておらず、事件は迷宮入りのきざしさえあった。


「なるほど。あの事件は、犯罪学的にも、刑事事件的にも、とても興味をそそられるものですからね」

 皇さんが腕組みをして言った。少々考え込んでいるようである。

「でも、警察はいないし、観光客も別にふだんと変わらないような感じで楽しそうにしてるじゃないですか。ホントにこの辺が、殺人事件があった所なんですか?」

 美砂江が疑問を投げかけた。すると藤堂さんが、

「叔父に聞いた話では、観光協会が、警察にあまり表立って捜査をしたり観光客が不安がるような情報を流したりしないように要望したらしいんだ。まァ、そればかりじゃなく、ここ何週間か事件が起こっていないせいもあるだろうけどね。だから、警察はいないし、観光客もふだんと変わらずってことなのさ」

「へェ。そういうことなんですか」

 美砂江は妙に感心して言った。どうもこの子、人をバカにしたような言動が多いな。

「戸塚さん、元気ないわね?」

 私は行子がまたすっかり修行僧のように黙っているのに気づいて、声をかけた。行子は作り笑いを浮かべて、

「大丈夫。何でもないの」

 きっと静枝と武さんのことを心配しているのだろう。すると法子が、

「戸塚さん、何か知ってるのね?」

 行子はピクンとして法子を見た。法子は他の人達に聞こえないように行子に近づき、

「バスに乗る前に、何か見たの?」

「……」

 法子は行子の前に回り込み、

「さっきから気になっていたんだけど、武さんと草薙さんの間で、何かあったのね?」

 重ねて尋ねた。すると行子はようやく頷いてうつむいた。法子はニコッとして、

「一体何があったの、戸塚さん?」

「その……」

 行子は顔を上げた。しかし法子の顔を見ると、また下を向いてしまった。これじゃ静枝でなくても怒りたくなる。

「私も二人が言い争うのを見かけたのよ。それを貴女が見ていたのもね。だから気になって、貴女に話しかけていたの」

 法子はまるで心理学者が話すように言った。行子は再び顔を上げて、

「静ちゃん、いつもと違ってホントに怒ってた。武さんと本気でケンカしていたの。私、怖くなっちゃって。でもどうすることもできなくて……」

 そこへ裕子先輩が近づいて来て、

「どうしたの? 何かあったの?」

 法子は裕子先輩を見て、それから行子を見た。行子は法子に頷いてみせてから、

「裕子先輩、武さんと静ちゃんがケンカしてたんです。あの二人を放っておいたら、もっと大ゲンカになってしまうかも知れません」

 裕子先輩はびっくりしたようだ。

「そうなの? でも、私、武君と草薙さんがそんなふうに話しているのを見てないわ」

「先輩達が外に出た後、ロビーで言い争っていたようです。私も窓の外からチラッと見かけただけで、何を言い争っていたのかはわからないんですけど」

 法子が答えると、裕子先輩は法子に目を転じて、

「戻った方が良さそうね」

「ええ。最初は放っておいた方がいいと思ったんですけど、戸塚さんがとても心配しているので」

 法子は行子を見た。

「どうしたの? 」

 皇さんも私達の妙な雰囲気に気づき、近づいて来た。藤堂さんや華子先輩、須美恵先輩もである。

「武君と草薙さんがケンカしていたらしいの。それを戸塚さんが心配して、放っておいたら、大ゲンカになるって……」

 裕子先輩が説明すると、皇さんはムッとして、

「武の奴のことなんか、放っておけばいいじゃないか」

 しかし裕子先輩は、

「でも、武君はともかく草薙さんが心配だわ。あの子、結構カッとなるタイプみたいだから」

 皇さんは腕組みして藤堂さんを見た。藤堂さんは行子に目をやり、

「二人は何を言い争っていたの?」

 行子は上目遣いで藤堂さんを見て、

「よくわからないんですけど、静ちゃんは武さんの態度を責めていたようでした。みんなと協調しなさいって……」

「そうか。武のことだ、きっとそれが面白くなくて、草薙さんに言い返したんだろう。それで口論になったんだな」

 藤堂さんが分析するように言った。皇さんは、

「武のことはどうでもいいけど、草薙さんが心配だな。戻りましょう、藤堂さん」

「そうだな」

 皆に異存はなく、私達は保養所に戻ることにした。

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