第四章 昼食時のもめごと  8月31日 午後12時20分

 私は法子に付き従うようにして、静枝の部屋に向かった。

「昼食の用意ができてるみたいだよ」

 階段のところで、藤堂さんと皇さんに出会った。法子は微笑んで、

「わかりました。すぐに行きます」

 藤堂さんが、

「じゃ、先に行ってるね」

と言い、階段を降りて行った。皇さんもそれに続いた。二人が階段を降り切るのを待ってから、法子と私は静枝のいる11号室の前に立った。

「どうぞ」

 ノックの音に応えた静枝の声は、すっかり怒りがおさまっているようであった。

「お邪魔します」

 法子は言い、ドアを開いた。私達が中に入ると、静枝と行子はニコニコ笑いながらベッドの端に仲良く並んで座っていた。

「さっきはごめんなさい、中津さん」

 静枝は意外にもペコリと頭を下げた。法子もすぐさま、

「こちらこそ。戸塚さんがあまり可哀想なので、つい言い過ぎてしまいました。ごめんなさい」

 頭を下げた。すると静枝は苦笑いをして、

「さすが、中津さんね。裕子先輩がしきりに貴女のこと入会させたがっていた理由が、さっきよくわかったわ。私、完敗だったものね」

「そんなこと……」

 法子は微笑んで応じた。しかし静枝は、

「いえ、ホントよ。貴女の言った通りなの。私、尊通さんにエラリー・クイーンを批判されても反論するだけの知識がなかったの。だから行子がクイーンのことを話そうとした時、さえぎったのよ。全く、呆れるほどその通りだったの」

 やや自嘲気味に言った。その時行子が、

「静ちゃんにエラリー・クイーンを読むように薦めたのは私なんです。だから……」

 静枝をかばいたいのか、精一杯声を出しているという感じで言った。静枝は優しい目で行子を見て、

「ありがとう、行子。でもごめんね。尊通さんのことまで貴女に無理に言わせたのは、ホントに悪かったわ」

「もういいのよ。もうそのことは言わないで。武さんの耳に入ったら、私、死んじゃう」

 行子は恥ずかしそうに下を向いて言った。静枝は少し呆れた顔になり、

「どうしてよ。好きな人に好きだってわかってもらうことが、どうして貴女が死んじゃう理由になるのよ? 」

「だ、だって、私みたいな女が武さんのこと好きになったって、静ちゃんにかなうわけないし、武さんにも嫌われちゃいそうだし……」

 行子はどんどん下を向いてしまい、声も小さくなって行った。

「そんなこと、どうしてわかるのよ? 尊通さんと私、最近ケンカばっかりしてるのよ。これから先も今までのような関係が続くかどうかわからないし……」

 静枝の言葉に行子は顔を上げ、目を見開いた。静枝はいたずらっぽく笑って、

「そのケンカの原因がね、貴女なのよ、行子」

「えっ? 」

 行子はすっかりキョトンとしてしまい、私と法子を見て、それから再び静枝を見た。

「だって尊通さんたら、何かっていうと、『行子ちゃんを見習って、もっとおしとやかになれ』って言うの。だから今日は、そのことも手伝って、貴女をいじめちゃったのよね」

 行子はカーッと真っ赤になってしまった。

「う、嘘……」

「嘘じゃないわよ。彼の理想のタイプって、行子みたいな子らしいわよ」

「……」

 静枝の言葉は、行子を気絶させるのではないかというくらい衝撃的だった。

「さっ、もう行きましょ。お昼の時間よ」

 静枝は呆然としている行子の手を引いて立ち上がり、ドアに近づいた。私と法子は思わず顔を見合わせた。


 私達がダイニングルームに入って行くと、そこには大きな長いテーブルがあり、奥の方から藤堂さん、皇さん、武さん、そしてその反対側の奥から裕子先輩、須美恵先輩、華子先輩、美砂江が座っていた。静枝は武さんの隣に座り、行子はその隣に恥ずかしそうに座った。私は美砂江の隣に座り、法子は私の隣に座った。私はさっきの話を思い出し、藤堂さんと目が合った時、顔が火照るのを感じた。

「さっきは失礼。僕も大人げない行動をしてしまったみたいだ。中津さん、悪く思わないでね」

 藤堂さんが言うと、法子はニコッとして、

「いえ、別に。私の方こそ、ごめんなさいと謝らなければならないのに、藤堂さんに先に謝られてしまって……」

 藤堂さんもニッコリしてから、

「さァ、この旅行で最初の会食だから、楽しくいただこうね」

 一同を見渡した。

「はーい」

 私と法子、それに他の何人かが返事をしたが、武さんと皇さんは口を動かすのも面倒だという感じで、何も言わなかった。

 そんな雰囲気だったから、食事中は食器の音とかコーヒーを注ぐ音、給仕のおばさん達がパタパタ歩き回る音ばかりが聞こえるほど、皆口をきこうとしなかった。

「何よ、まるでお通夜みたいじゃないの。もう少し楽しく食事しましょうよ」

 こういう妙な静けさに耐えられないのか、須美恵先輩が口を開いた。すると武さんが目の前の食器を重ねながら、

「そうだな。みんな、何か喋れよ」

 同意した。華子先輩が藤堂さんを見て、

「そう言えば、これからの予定はどうなっているんですか?」

 藤堂さんは華子先輩に目をやり、

「特別にどこへ行くとかは決めていないよ。希望があれば言ってもらいたいのだけれど。ただし、予算の許す範囲でだけどね」

 さわやかな笑顔で答えた。華子先輩は実に嬉しそうな顔をして、

「私、榛名富士に登ってみたいな。ロープウェイがあるんでしょ。それに山頂からの景色もきれいだって言うし」

 しかし武さんが、

「それなら歩いて登るのをお勧めするよ。その方が山頂に着いた時の感動も一入だろうからね」

 皮肉を言った。華子先輩はそれを無視して、

「ねェ、藤堂さん、予定に入れて下さい。ロープウェイのお金なんて大した額じゃないでしょ?」

「わかった。そうしよう。他にどこか行きたいところはあるかな?」

 藤堂さんは再び一同を見た。すると美砂江が、

「私、伊香保に行ってみたいな。来る時は高崎から回り込んで来たから、通らなかったでしょ。あそこ、露天風呂があるのよね」

 嬉しそうに言った。こいつ、温泉好きなのかな?

「はいはい。じゃあ、伊香保にも行ってみようか」

「私は、榛名神社に行ってみたいわ。千四百年も前に創建されたそうよ。それに、本殿が岩にはめ込むように造られていて、とても神秘的らしいわ」

 裕子先輩が発言した。皇さんが頷いて、

「そうだね。君はどう、草薙さん?」

 静枝は意表を突かれたように皇さんを見て、

「ええ、そうですね。榛名神社もいいですけど、私、馬車に乗ってみたいです」

「そうか。馬車もいいな」

 皇さんは感心したように頷いた。やはり彼は静枝に気があるようだ。すると早速須美恵先輩が、

「皇さん、自転車を借りて湖を一周するっていうのもいいですよ。馬車なんか、馬のフンで臭いだけですから」

 静枝は別に須美恵先輩と争うつもりがないので、

「そうですね。二人乗りの自転車もあるみたいだし。その方が楽しいですね」

 しかし、須美恵先輩はそれには応えなかった。そこへ武さんが、

「俺は水沢まで下って、うどんを食べたいな。水沢寺にお参りして鐘も突いてみたいし」

 年寄りじみた喋り方で言った。静枝が呆れたように、

「今昼食を食べたばかりなのに、まだ何か食べるつもりなの?」

「すぐに食べるんじゃないよ。小腹のすく三時か四時頃さ。軽く、スルスルッとうどんを食べるんだ。水沢うどんはうまいんだぜ。知らないのか?」

 武さんは陽気に応えた。しかし、静枝はもう相手にはしていない。

「とにかく、少し休んだら外に出よう。すぐに出発できるように、親戚の叔父に連絡しとくから」

 藤堂さんは立ち上がった。すると武さんがすかさず、

「一体どこへ行く気ですか、藤堂さん? 俺はシンキ臭い神社には行く気はないし、馬フンまみれの馬車に乗るつもりもない。かと言って露天風呂に入るほど、ジジイを決め込みたくない」

 チャチャを入れた。皇さんがムッとして武さんを睨み、

「じゃあ、お前は一人でうどんでも何でも食べに行けばいいだろう! いつもそうだな。お前はそうやって他人の提案をけなすだけけなすんだ」

 声を荒らげた。武さんは全く動じていない。皇さんはなおも、

「いくらヴァン・ダインのファンだからって、何もファイロ・ヴァンスのマネをして、高慢ちきな態度をとることはないだろう」

「そんなに熱くなるなよ、皇。バッカじゃないの」

 武さんのその一言が、皇さんの理性のタガをブチ切ってしまった。

「このヤロウ!」

 皇さんは武さんのTシャツを掴み、殴りかかった。

「やめろ、二人共!」

 藤堂さんが間に入るのがあと少し遅かったら、皇さんの拳が武さんを捉えていたはずだ。

「争いごとは起こさないでくれ。何か問題を起こせば、ここは二度と使えなくなるんだぞ」

 藤堂さんは武さんと皇さんを叱りつけるように大声で言った。武さんはフンと笑って、

「じゃ、俺は午後は部屋でフテ寝してますので。皆様方は、どこへなりとお出かけ下さいな」

 ダイニングルームを出て行ってしまった。静枝が立ち上がって、

「待って、尊通さん!」

 追いかけようとすると、

「放っておきなよ、草薙さん。あんな奴、いない方がいいんだ」

 皇さんが言った。静枝はその言葉に立ち止まり、皇さんをチラッと見たが、再び歩き出し、ダイニングルームを出て行った。

「皇さん、あの二人は放っておきましょうよ」

 須美恵先輩が甘えたような声で言った。皇さんは彼女を見て、

「そ、そうだね」

 椅子に座った。藤堂さんは腕組みをして、

「とにかく武の奴、ちょっと調子に乗り過ぎだな。まァ、自分から行動を共にするのを辞退してくれたのだから、奴のことは草薙さんに任せて、僕達だけで出かけよう」

 すると、皇さんと行子は複雑な表情をし、須美恵先輩はにこやかに頷いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る