第二章 探偵の議論 8月31日 午前10時
私達は保養所を出ると、徒歩で湖畔にいくつもある貸しボート屋に向かい、大型のボートを一艘借りて全員で乗り込んだ。
漕ぎ手はもちろん男性陣で、私達女性陣は「ガンバレ! 」とか言いながら、湖面を渡るさざ波に目をやっていた。
「何か、退屈だな。誰か話題提供してよ」
オールを動かしていた手を休めて、武さんが言った。すると美砂江が、
「ハイハイ!」
手を挙げた。藤堂さんも手を休めて、
「何かな、大和さん?」
美砂江は大きな目をクリクリさせながら、
「自分の中の世界の名探偵ベストワンは誰か言って、それについて議論しましょうよ」
武さんがニヤッとして、
「そいつはいいな。やりましょうよ、藤堂さん」
藤堂さんも頷いて、
「そうだね。会のメンバーが全員揃ったのは久しぶりだから、推理小説同好会らしい話題がいいね」
今の言葉、幽霊会員である私の耳にはとても痛い。
「はーい!」
また美砂江が手を挙げた。藤堂さんはちょっと面喰らったような顔をして、
「はい、大和さん」
美砂江はニコニコして、
「私にとって世界の名探偵ベストワンは、誰が何と言おうと、エルキュール・ポアロです。彼は数々の難事件に出会い、それをことごとく解決し、その推理の鮮やかなことと言ったら、他の探偵の比ではありません。彼こそ、まさにベストオブディティクティヴです」
自信満々の口調で言った。すると武さんが
「そうかなァ。ポアロの登場する事件には、オリエント急行殺人事件のような不合理きわまりないものや、三幕の殺人のような詐欺的事件もあるぜ」
美砂江はムッとして武さんを睨みつけ、
「そんなことありません! どちらも論理的で、合理的に犯人がわかるものです。それは武さんの偏見というものでしょ」
しかし武さんはヘラヘラ笑いながら、
「そうかねェ……」
とぼけた返事をした。美砂江はプーッと頬をふくらませて、そっぽを向いてしまった。藤堂さんは苦笑いをして、
「まァ、あまり過激なことは言いっこなしにしようよ。ボートの上でケンカになったら、湖に落ちてしまうから」
美砂江をなだめるように言った。そして今度は静枝を見て、
「草薙さんは、誰がベストワンだと思う? 」
静枝は待っていたかのように得意満面の顔で、
「もっちろん、エラリー・クイーンです。その推理が論理的で不合理でないところ、さらに読者への挑戦という実に面白い試みを考え出したところなど、作品の完成度が高い上に主人公エラリーの明快な推理は、すばらしいの一語に尽きます」
するとまたしても武さんが、
「でもさァ、結局のところエラリー・クイーンて、その前に出て来たヴァン・ダインのモノマネなんだよね。作風も似通っているけど、エラリーもヴァン・ダインのファイロ・ヴァンスの焼き直しに過ぎないしさ」
早速チャチャを入れた。この人、ホントに嫌な性格だな。何でこんな人がもてるんだろ? 当然静枝は怒り出して、
「何よ、尊通さん、美砂江はともかく私にまでそんなこと言うの!?」
武さんに食ってかかった。彼女が一歩前に踏み出したせいでボートが少し揺れ、私はギョッとして縁にしがみついた。
「美砂江はともかくって何よ?」
美砂江までが大声を出し始めた。静枝は怒りの鉾先を美砂江に変えて、
「何よ、何か文句あるの!?」
「あるわよ!!」
二人がケンカを始めてしまったので、張本人の武さんはシラけたように空を見上げていた。
「まァまァ、そう熱くならないで。武君、そこまで言うなら君のベストワンは誰なんだい?」
藤堂さんが割って入って、話を元に戻してくれた。一同の視線が武さんに注がれた。すると武さんは空を見上げたままで、
「俺が最高だと思っているのは、もちろん、ヴァン・ダインの創作した、ファイロ・ヴァンスですよ。あの高慢ちきなところが、何とも言えずいいんですよねェ」
せせら笑うようにして応えた。すると美砂江がフフンと鼻で笑って、
「でもヴァンスがあんまり自分の知識や教養をひけらかすので、犯人を捕まえるのが遅くなっているんじゃないかっていう説もありますよね」
すぐさま反撃に転じた。今度は武さんがムッとする番だった。しかし彼は美砂江の挑発には乗らず、彼女をチラッと見てバカにしたような笑みを一瞬見せただけだった。さっすが、ファイロ・ヴァンスの信奉者だ。とんでもないひねくれ者なのかも知れない。
「そう言えば、戸塚さんもエラリー・クイーンが好きよね。何かご意見は?」
裕子先輩が言った。戸塚行子はずっと下を向いたままで、ここに来てからまだ一言も発言していない。と言うか、私、彼女の声を聞いたことがない。顔からもとてもおとなしいという印象を受ける。男の子には好かれる可愛い顔立ちで、髪型も少女マンガの主人公みたいな、セミロングのフワフワしたものだが、ちょっとイジワルな女子にはいじめられそうなタイプだ。服装も少女趣味というか、女子大生というより、女子中学生といった感じの白のブラウスに紺の巻きスカートを履いていて、靴は静枝と同じアンクルブーツだが、ちょっと大きめのリボンが着いている。
「あの……」
行子が顔を上げて喋りかけた時、静枝が、
「神村さんはどうなの? 」
いきなり私にふって来た。行子はホッとしたような顔をしてまた下を向いた。
「わ、私は……」
どうしよう……? 私、推理小説同好会に入ったのって全くの成り行きだし、今まで読んだことのある推理小説なんてただの一冊もなく、もっぱら名探偵事典とか、世界推理小説大全とかいうような、所謂読みかじりしかできない人達専用の本しか読んだことがないのだ。だから、今まで出て来た探偵の名前と性格くらいは知っているが、彼等が解決した事件など全然知らないのである。
「あら、貴女、無口な人だっけ?」
イジワルなことを言ったのは、須美恵先輩だ。彼女は江戸川乱歩のファンで、明智小五郎の出て来る作品は全て読んでいる。どちらかというと、オドロオドロしい作品が好みらしい。ショートカットの髪をボリュームを持たせてセットしている顔は女性裁判官というのが一番当たっている表現だろう。いかにも法学部法律学科で司法試験を目指していますって感じだ。しかし、服の趣味はそれとはうって変わって、グレーのベルト付きのブラウススーツを着ている。光沢のある素材なので、後ろから見ると「イケイケのネエちゃん」という雰囲気だ。
「いえ、あのその、私、そんなにいろいろ読んでいないので、誰が一番かなんて……」
私がやっと口に出して言うと、今度は、
「そういうのって、ヒキョウよね。ちゃんと自分の意見を述べるべきよ」
華子先輩だった。この人もオドロオドロが大好きらしいが、須美恵先輩とは違って横溝正史の大ファンである。それ故金田一モノは全て読んでいる。この前、大学で耕助の格好をしていたのはこの人だ。長い髪を後ろで束ねて三つ編みにし、丸い大きなメガネをかけていて一見優しそうだが、結構きつい人だ。服装は親友である須美恵先輩と違って、ココアブラウンのワイドパンツを履き、白地に黒のノースリーブのボーダーTシャツを着ている。
「で、でも……」
私は困ってしまって法子に救いを求めて目を向けた。すると法子はすぐに私の思いに気づいてくれて、小さく頷いてから口を開いた。
「神村さんより先に私が話していいですか?」
「ええ、いいですよ」
藤堂さんも、私の目がウルウルしているのに気づいたらしくそう言ってくれた。須美恵先輩と華子先輩は顔を見合わせて肩をすくめ、次に射るような目で法子を見た。彼女が何と言うのか聞いて、やり込めてやろうという敵意が見え見えだ。それは静枝と美砂江、そして武さんも同じだった。優しい視線を向けているのは、藤堂さんと裕子先輩のみ。行子はまだ下を向いていたし。皇さんは敵意こそ見せていなかったが、ニヤニヤしながら法子が話すのを待っていた。
「その前に、ボートを降りませんか。戸塚さんが船酔いしています。それに武さんも少し気分が悪いのではないですか? 」
法子は言った。一同はポカンとしたが、私はハッとして行子に目をやった。よく見ると彼女は額に脂汗をかいており、息遣いも苦しそうだった。
「大丈夫、戸塚さん?」
私は行子に近づき背中をさすってあげた。彼女はかすかに頷き、少しだけ微笑んでみせた。
「俺は気分なんか悪くないぜ」
武さんが言った。しかし法子はニッコリして、
「いいえ、そんなはずはありません。貴方はさっきから全然湖面を見ていません。水が苦手だからです。でもそんなことは口にできないから、わざと尊大ぶって上を見たまま話をしたのです」
すると武さんは口を開きかけたまま何も言えなくなってしまった。恐らく図星なのだ。藤堂さんが、
「はァ、こいつは驚いた。まるで……」
と言いかけると、法子は藤堂さんを見て、
「まるでホームズみたいだ、ですか?」
まただ。当然のことながら、私と行子を除く人達は、仰天して法子を見つめた。
私達のボートは桟橋に戻った。行子は私と法子が肩を貸してボートから降ろした。武さんも最初は強がっていたが、降りる時にボートが大きく揺れたのですっかり気が動転し、藤堂さんと皇さんに助けられて降りた。
「さすがね。世田谷にすごい女子高生がいるっていう噂を父の会社の人に聞いたことがあるの」
保養所に戻る道すがら、裕子先輩が法子に話しかけた。法子は少し驚いたような顔をして、
「恥ずかしいなァ。どんな女子高生だと思われてたのかな」
ポニーテールを触りながら呟いた。この仕草、後で知ったのだが、彼女が照れている時のクセらしい。
「私の父の会社の一つが警視庁に出入りしているのよ。刑事調査官(俗に言う検死官)をなさっている方が、中津さんの実家の近所におられるんでしょ?」
裕子先輩がそう言うと、法子は苦笑いをして、
「そんなことまで御存じなんですか。びっくりしました」
なァるほどォ。法子が推理小説好きで、ホームズばりの観察眼を見せているのは、その辺に答えがありそうだ。
「でも、それはあくまで貴女の知識面を補う程度のものであって、戸塚さんや武君のことに気づいたのは、やはり貴女の感性の鋭さなのよね」
裕子先輩は感心したように話した。法子はますますポニーテールをクルクル回すように触りながら、
「そんなことないですよ。私、人の動きを観察するクセがあるので、たまたま気づいただけです」
「まァ、そういうことにしておきましょうか」
裕子先輩はにこやかに言った。
それから私達は保養所の庭先にあるカフェテラスのような趣のあるところで、それぞれ白い木製の椅子に座り、これまた白い大きな円卓を囲んでさっきの続きを始めるべく、法子の話し出すのを待った。
「さてと。仕返しをしてやりたいから、早いとこ君のベストワンの探偵を言ってみなよ」
武さんが脚と腕をそれぞれ組んで言い放った。法子は武さんを見て、
「わかりました。私が最高の名探偵と思っているのは、やっぱり推理小説の始祖であるエドガー・アラン・ポオが生み出した、C・オーギュスト・デュパンですね」
すると武さんが早速ニヤリとして、
「ほォ。世界で最初の推理小説に登場したデュパンを選ぶとは、なかなか手堅いな。しかし、後にドイルがホームズに指摘させているように、デュパンのやり方は『見栄を張った浅薄なやり方』だよ。名探偵かどうかははかりかねるね」
そして当然のように藤堂さんも、
「武君に賛成だな。デュパンはホームズに比べれば、ずっと劣っていると思う」
シャーロキアンを自ら標榜する人らしく、意見を述べた。藤堂さんにしてみれば、「ホームズみたいだ」と誉めたのに、デュパンを選んだ法子に納得しかねるものがあるのだろう。ところが法子の再反撃は、世界中のシャーロキアンを激怒させるようなものだった。
「それはドイルがホームズの口を借りて言った、単なる負け惜しみです」
全く、この娘、何てこと言うの? あの穏やかな藤堂さんの顔が一瞬だけどひどく険しくなったわよ。
「人は自分に似ているもの、あるいは真似たものを自分とは違うと言いたがるものです。でないと、自分の存在を否定されてしまうと思うからです。ドイルがデュパンのやり方を非難させたのは、ホームズがデュパンの借り物であるからに他なりません」
法子は全く反撃の手を緩めなかった。藤堂さんは顔は笑っていたが目が笑っていなかった。
「し、しかしね、知名度から言えばホームズの方がずっと上だし、世界中の人に愛され、読まれているよ」
藤堂さんの声は、少々うわずっていた。そのくらい、彼は感情が高ぶっていたのだ。これに対して法子は実に冷静に、
「知名度と名探偵の能力と、何か関係があるのですか?」
藤堂さんはグッとつまり、俯いてしまった。すると武さんが愉快そうに大声で笑い出し、
「すごいね、新入生の君。シャーロキアンの藤堂さんを相手に、ここまでホームズをこきおろせるとはね」
手を叩いた。しかし法子は武さんを見て、
「別にホームズをこきおろしたわけではありません。デュパンに対する正当な評価をドイルがしていないことを指摘しただけです」
今度は華子先輩がメガネをクイッと上げて、
「中津さんの言う通りですよ、藤堂さん。ドイルは後に、ホームズのモデルは恩師の教授だと言っていたようだけど、それはポオの模倣と言われたくないから考え出した作り話だって、横溝正史も書いてますよ」
さらに追い討ちをかけるように、
「そうね。それ、結構有名よね。だってさ、デュパンには『私』というどうやらポオの分身らしい人が語り手として一緒に暮らしているし、ホームズにも『ワトソン』というドイルの分身らしい人がついてる。話の進め方も一人称で似ているし、ボケとツッコミのような関係もよく似てる。むしろ、ホームズがモノマネだと誰も言わないのが不思議なくらいよね」
須美恵先輩が言い立てた。藤堂さんは必死に感情を抑えているらしく、手を震わせている。
「そうなんですか。知らなかったわ。その点、ポアロはデュパンとは全然似ていないし、語り手のヘイスティングスは出て来ないこともあるから、デュパンの呪縛からかなり解放されているわよね」
美砂江までがよせばいいのに火に油を注ぐようなことを言い出す。皇さんがそれに輪をかけて、
「僕はペリー・メイスン物が好きで、今までに四十册以上読んでいるけど、作者のE・S・ガードナーは、その呪縛から最も遠いところにいたと思うよ。何しろボケとツッコミ役はいないし、一人称モノは一冊もないし、ホームズのような超人的推理はしないし。すごく現実的で、論理的な作品ばかりさ」
と言い出す始末だ。もうどうしようもない。すると藤堂さんの「異変」に気づいた武さんが、
「モノマネと言えば、金田一耕助のモジャモジャ頭とヨレヨレの着物姿だって、初期の明智小五郎にそっくりなんだぜ。横溝正史もドイルのことなんか言える立場かってとこだな」
藤堂さんの援護をした。今度は華子先輩がムッとして、
「フーンだ!」
武さんに向かって舌を出した。それを見ていた須美恵先輩が、
「あっ、そう言えばそうね。金田一って、明智小五郎のモノマネなんだァ」
面白そうに言った。華子先輩は、キッとして須美恵先輩を睨み、
「何よ、裏切り者! 親友だと思ってたのに……」
「何言い出すのよ、華子。大袈裟よ、ちょっと」
須美恵先輩はやや呆れ気味に言った。 しかし華子先輩はツンとして須美恵先輩から顔を背けてしまった。
「みんな、ちょっと熱くなり過ぎよ。これは議論なの。ケンカじゃないんだから」
裕子先輩がたまりかねたように大声で言った。そして、
「じゃあ、私が自分の探偵のベストワンを言います」
話しかけると、藤堂さんが、
「いや、もうやめよう。僕は部屋に戻って少し休むよ」
立ち上がり、さっさと保養所の中に入って行ってしまった。武さんがそれを見送りながら小声で、
「全く、ホームズをけなされたもんだからすっかり本性を表して感情的になっちまったな。あの人の悪いところだ」
「武君、そういう言い方は良くないと思うけど」
裕子先輩が武さんをたしなめた。武さんは肩をすくめて、
「そりゃどうも悪うございました」
全然反省の色なしだな、この人。
「私、謝って来ます。藤堂さんが怒ったのは、私のせいですから」
法子が立ち上がった。すると裕子先輩は、
「いいのよ。藤堂さんも、ちょっと大人げないのだから。放っておいた方がいいわ」
「そうですか……?」
法子は保養所の玄関に目をやったままで呟いた。
座がすっかりシラけてしまったので、私達もそれぞれ、保養所に戻ることにした。
「ねェ、中津さん」
玄関のところまで来た時、須美恵先輩が声をかけて来た。法子は彼女に目を向けて、
「何でしょうか? 」
すると須美恵先輩は小声になって、
「これから私の部屋に来ない? 女だけで集まろうと思うんだけど」
法子は私に目を向けた。須美恵先輩はそれに気づき、
「もちろん、神村さんもよ」
私は何だろうと思い、
「集まってどうするんですか? 」
須美恵先輩はニヤリとして、
「そりゃもちろん、女同士でなきゃできない話をするのよ」
「はァ?」
私は思わず頭のテッペンから出たような声をあげてしまった。
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