第232話「ブラックレイン」

 2000年、ドイツ統一から10年が経過していたものの、東西の格差は解消されておらず、東ドイツの、しかも母子家庭の4人家族であったノイマン家は、かなり貧しかった。

 それは、息子に高等教育はおろか、中等教育でさえ続けさせられないほどに――。


 中等教育は、ドイツでも義務教育であったことから、当然、教師からの反対もあったのだが、母親から涙ながらに出された答えは、みじめなモノだった。


「聞こえなかったの? この子も働かないと、食べて行けないのよ! それとも、貴方が代わりに、お金をくれるの?」


 とはいえ、13歳で働けるような職場は早々に見つからず、やっとの思いで見つけた職場は、マフィアが経営するレストランでの皿洗いだった。

 13歳で働いているという弱味があるため、1日14時間働いても50マルク(およそ3300円)と、かなりの薄給だったが、それでも、毎日休まず働き続けた。


 貧しさは、心も貧しくする。

 いいか、ヨハン、お前だけはそうなるなよ。


 病で他界した父の最後の言葉を胸に、今まで強く生きてきた。

 母のために、まだ幼い弟たちのために、必死で生きた。

 流れてくる喰い掛けの残り物にも、躊躇わず口にしたり、ビニールに入れて持ち帰ったりもした。

 しかし、そんな或る日、それが店長に見つかってしまう。


「ヨハン! テメー、ナニ店のモン喰ってんだ!」


「すみません! 捨てるモノだから、いいかと思って……」


「今日から、40マルクだ」


「え! やめます! やめますから、それだけは……」


 だが、許してはもらえず、さらに殴られもした。


「その辺にしてやってくださいよ。明日も働かせるんだから」


 止めてくれた他の従業員に、お礼を言ったのだが「5マルクでいいぞ」と金を要求され、仕方なく手渡した。

 血を流しているのか、涙を流しているのか判らないままにトボトボと歩き、母を心配させないために、川で顔を冷やしてから帰宅したのだが、母はそれでも未だ腫れ上がる息子の顔よりも、35マルクしかないことを責め立てた。


「アンタ! 何に使ったの!」


「ち、違うんだよ、母さん」


 事情を説明したのだが、理解してもらえず、腫れている頬をさらにたれた。

 母に信じてもらえなかった悲しみ、お金を奪われた怒り、貧しさへの憎悪、様々な負の感情が溢れ、俺は家を飛び出したんだ。

 橋の上から川の水面みなもを眺め、この世界から消えたいと思い、欄干をよじ登った。

 その時、一人の男が俺に声を掛けて来た。


「坊主、泳ぐには未だ早いぞ」


「泳ぐんじゃない! 死ぬんだ!」


「坊主、幾つだ?」


「13……」


「13年しか生きてないのに、もう死ぬのか?」


「歳は関係ないだろ! もう嫌なんだよ!」


「明日、良いことが起こるかもしれんぞ」


「俺に、そんな明日なんて来ないんだよ!」


「お前にとって、この世界は地獄か?」


「そうだよ!」


「そうか、止めて悪かったな」


 そう言って男が立ち去るや否や、俺は川へ飛び込んだんだ。


「マジかよ、クソガキーッ!」


 俺を追うように、男は川へ飛び込み、俺を担いで岸まで泳いだ。

 男は、寒さに震えながら、川の水を飲んで咳き込む俺に、


「まだ早いって、言っただろーが!」


「なんで、助けたんだよ!」


「お前は未だ、天国も、本当の地獄も知らねーからだよ」


「今より酷い、地獄なんて在るもんか!」


「それが在るんだよ。知りたいか? 坊主」


「在るんなら、見せてみろよ!」


「解った、見せてやる」


 男の名は、パトリック・ポドルスキー傭兵を生業としていた。

 パトリックは、俺を養子にするため、母に20000マルクを提示したのだが、母はその値を吊り上げようとした。


「この子には、もっと価値がある! 50000マルクは頂かないと!」


「そうか、じゃ、この話は無かったことに」


「解った! じゃ、30000で! これ以上は、まからないよ!」


 聞きしに勝るクズだな……コイツが死にたくなる訳だ。

 もう一度、断ってみたくもなるが、残された弟たちが可哀想だな。


「いいだろう」


 こうして、俺はパトリック・ポドルスキーの養子になったんだ。


「オジサン、これからどこ行くの?」


「オジサンじゃねーだろ? 今日から、俺はお前の親父だ」


「えッ……オ、ヤ、ジ……」


 俺は、オヤジと幾つもの戦場を渡り歩いた。

 だが、俺にとって、それでも、ノイマンの家と比べたら、天国に見えた。

 それをオヤジに伝えたら、オヤジは俺を中東へ連れて行った。

 何が他と違うんだろうと、思っていたが、

 オヤジは、一人の少年兵を捕らえ、縛り上げると、俺の前に転がし、俺に銃を渡したんだ。


「撃て」


「えッ……」


「いいから、撃て。命令だ」


「で、出来ないよ! お、俺より、小さいじゃないか!」


「歳は関係ない、そいつは兵士だ」


「ダメだ、出来ないよ……」


「なら、ノイマンの家に戻るか?」


 そう言われると、俺は撃つしかなかった。

 俺は目を瞑り、泣きながら、引き金を引いた。

 パンッと乾いた銃声が鳴ったが、弾は出なかった。

 俺は、腰が砕け、その場に座り込んだ。

 オヤジは、俺から銃を奪うと、それをテーブルの上に置き、


「忘れるな、これは練習だが、いつか撃つ日が来る。躊躇えば、お前や大切な仲間が代わりに死ぬことになる。例え、女子供のでも、仲間だったとしても、それが俺だったとしてもなって、言ったんだ」


 珍しく昔話をするヨハンをフレデリカは、そっと抱きしめた。


「どうしたの?」


「急に昔を思い出してな。オヤジが所属していたブラックレインが近いからかもしれない」



 ノースカロライナに広大な訓練施設を持つ民間軍事会社ブラックレインは、アメリカ陸軍特殊部隊(グリーンベレー)を退役したアーノルド・フィッシュバーンによって、1986年に警備会社として誕生する。

 そんな警備会社が軍事ビジネスにシフトしたのは、1990年8月2日に起きたイラクがクウェートへ侵攻したことから始まる湾岸戦争だった。

 政府の要人となった陸軍時代の仲間から「志願者が足りなくて困っている。兵士を、出来れば一流を集められないか?」と依頼されたアーノルドは、高級をうたって一般人を募ると、厳しい訓練を行い、それを卒業した者を一人、また一人と戦地へ送った。

 すると、ブラックレイン所属の兵士たちが、次々に戦場で活躍を見せて行き、


 ただの民間人が、一流の兵士になる。


 そのキャッチフレーズは、瞬く間にアメリカだけでなく世界へと広がり、今では各国の正規軍の育成まで依頼されるようになった。

 現在では、息子であるエリックが会社を受け継ぎ、兵士の育成や派遣だけでなく、軍事品(武器など)の開発、その販売やレンタルなど、多岐にわたっている。

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