第14話 パン床漬け

 空の食器を載せたお盆を持って台所に戻ると、ニワトコさんが、ぼんやりと食パンをちぎってはボウルに入れていた。

 「キワコさん、寝ちゃいました」

 私が食器を流しに置くと、ニワトコさんは、「あ、俺が……」と立ち上がりかけた。

「少しだから大丈夫」

 私はそっと言う。

 私だってこのくらい洗えるよ。

 そう言いたかったけど、すぐとなりの部屋でキワコさんが眠っていると思うと、私は口をつぐんでしまう。

 外は、まだ雨だ。

 シトシトと降り続く雨に打たれて、坪庭の緑が鮮やかだ。

「キワコさん、疲れてたね」

「季節の変わり目だし……俺が来たことで色々張り切ってくれたから……」

 食器を全部水切りカゴに入れて、私はニワトコさんをふりかえる。

「ニワトコさん。大丈夫?」

「んー」

 ニワトコさんはまだぼんやりとした表情で、手元のパンを見つめていた。

「手伝う……」

 私はニワトコさんの前に座った。

「……」

 ニワトコさんは黙ってパンをちぎる。

 私も黙ってパンをちぎる。

 雨の音がポツンポツンと部屋を満たした。 

「俺の母親ね。今年の頭に死んだんだよね……」

 ニワトコさんはポツンと口を開いた。

「病気でね、覚悟はしてたんだけど……。うちは両親離婚してるから父親に連絡するのもなんか変な感じだったし、母親の親戚はみんなブラジルだし……まあ、俺も成人した大人だしで全部一人で葬式だとかやって……終わったら、なんか、ぼーっとしちゃって。それでキワコさんにメールしたんだよね」

「……うん」

「親父の知り合いだったから。そしたらおいでって、すぐ言ってくれて」

 私は何を言っていいのかわからなくて、小さな声で相槌を打った。

「それで大学休学してこっちきたんだけど……。キワコさん、もう70歳過ぎてるんだよな……」

 ニワトコさんの声があまりにも静かだ。

「ああやって、調子が悪そうだと……」

 ニワトコさんの声が途切れる。

 とても、心配だ。

 多分、そう言いたかったんだろうけれど、ニワトコさんは声を出さないでうつむく。

 私は思わず「あ、あの……」と声をかける。

「……お茶、入れましょうか?」

 本当は、何か食べ物を作りたかった。いつもニワトコさんがくれるみたいに、食べるだけで元気が出る、美味しいものを。でも、今私にできるのはお茶を入れることぐらい。

「……いや」

 大学生魔女(休学中)は、ふいっと顔を上げて笑った。

「さっさとこれを終わらせて食事にしよう。ユキノちゃんもお昼まだだよね?」

「……何を作ってるんですか?」

「これ?」

 ニワトコさんは小さく笑った。

「そりゃ、見ればわかるでしょ。漬物だよ」

 見てもわかんないよ!

 パン……が、お漬物に……なるの? 大丈夫? ニワトコさん?




 パンが小さくちぎれると、ニワトコさんは冷蔵庫からビールを持ってきて、じゃあっと勢いよくボウルの中に入れた。それから塩。

 左手で勢いよく混ぜ、均一になると満足そうな顔になってタッパーに移す。

「最初は昨日の焼きそばのキャベツの残りを漬けようかな。そのあとでズッキーニとか、赤ピーマンとか」

 ズッキーニのお漬物……。想像があまりつかないよ、ニワトコさん。

 怪訝な顔をしていると、何がおかしかったのかニワトコさんはクスクス笑って、洗った手を拭くと、小さな小皿にお漬物を乗せて出してくれた。ナスと胡瓜。

 意外と普通なチョイスだ。

「ちょっと待ってね。お粥温め直すから」

 薄暗い台所でコトコトとお鍋の蓋が音を立てる。ニワトコさんの包丁がまな板の上でリズミカルに動く。やがて、小さな赤い漆塗りのお椀に真っ白なおかゆが入れられて、私の前にとん、と置かれた。添えてあるのはお漬物と、ごま。それに細く千切りにされたミョウガ。

「めしあがれ」

「いただきまーす!」

 小さく切った胡瓜のお漬物を口に入れると懐かしい味がする。

「ぬか漬けだー」

「食パン床漬け」

 ニワトコさんが訂正する。

「さっき作ってた、あれに入れておくと、この味になるんだよね」

 親父ね、最初イギリスにきた時に一生懸命、ぬかを探したらしいんだよね。ぬか漬けが食べたくて。でも、なくてね。それでこれに落ち着いたんだって。

 小さい頃は、俺、嫌いだったんだけどね。親父、セロリの漬物とか作るから。でも、今は好きだよ。美味しいし——いいよね。信じて待ってると勝手に美味しくなっていく料理って。


「ジンジャーエールも信じて待つだけのお料理だね」

「あれは俺の母親のレシピ」


 少しずつ、少しずつ、ニワトコさんのことがわかってくる。

 ニワトコさんのお料理の向こう側に、まだ子供だったニワトコさんのためにご飯を作っていたニワトコさんのお父さんやお母さんが見える。


 お粥は熱々で、舌の上でとろり、ととろけてから、お腹の底にじん、と熱く落ちていった。

 大丈夫だよ、ニワトコさん。キワコさん、元気になるよ。

 熱々の美味しいお粥を食べて、ニワトコさんのお漬物食べたもん。元気になるよ。ご飯の魔法だよ。

 でも、私はそんなこと、うまく言えなかった。そのかわり、はふはふお粥を食べて、お箸を置いた。

「おいしい」

「熱いね」

 ニワトコさんは勢い良くかきこんで、ふうってため息をついた。

「ありがとう。ユキノちゃん」

「え」

「おかげで、だいぶ——おちついた」



 私はなんて言って良いのかわからなくて、とてもとても、わたわたしてしまった。私が、ニワトコさんの助けになれるんだったら、私はとても嬉しい。とてもとても、心の底から嬉しい。

 私が、誰かを心配させるんじゃなくて、ヤキモキさせるんじゃなくて、ほっとさせたり、安心させたり、できるんだったら、すごく、すごくいいことだ。今まで私が持ってなかった新たなパワーだ。

「お、お椀洗いますね!」

 立ち上がろうとする私をニワトコさんが止めた。

「もうちょっと座っていよう」

 雨の音を聞こうよ、と、ニワトコさんが言った。


 私とニワトコさんはずっと、坪庭のミョウガの葉っぱの上に跳ねる雨の音を聞いていた。

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