第5話 たくあんと赤ワイン 2
カウンセリングが終わると今度は母さんが先生としばらく話している間、近所のドトールでアイスコーヒーを飲んだ。母さんがちょっと余計にお金をくれたのでミルクレープを注文した。美味しかったけど、フォークで切るのがとても難しかったし、一人で喫茶店に座っているのは初めてだったので、かなり緊張した。カチコチになるあまり、備え付けのガムシロップを全部入れて、30回ぐらいストローでかき混ぜたんじゃないかと思う。
それから母さんと私は家に向かった。
「疲れたねー」
と、母さんが言う。
「今日はもう、お夕ご飯焼肉にしちゃおうか」
「うん……」
私はつま先を見つめて歩く。ホットプレートの焼肉だったら野菜を切ってならべるだけだ。お肉がいっぱい食べられてタケシが喜びそうだ。
「ユキノ」
母さんがぽつん、と口を開く。
「吉田さんのおばあちゃんのところ、行くといいわ。今日、帰りにちょっと寄ってご挨拶していきましょう」
「え」
私は慌てる。
「いいよ、挨拶なんて」
「何言ってるの。そんなわけにはいかないわよ。ご飯までご馳走になったんですって? ちゃんと言ってくれなくちゃ困るわ」
「あ……うん」
あの日、お好み焼きを食べて帰ってきた後、私はすっかりお母さんが作った昼ごはんの入ったタッパーのことを忘れてしまったのだった。それで、お母さんに見つかってしまった。だからご飯のことを持ち出されるとちょっと弱い。
「ユキノ」
「なあに」
「あなたはお母さんの自慢の娘よ」
「……うん。知ってる」
「あなたは私の宝ものなの」
母さんは私のことが大好きで、私のためにいつもいつもいろいろなことをしてくれている。自分の新しい服を買わないで私の服を買ってくれる。
それなのに、私は学校にいけない。
そして、私は母さんが買ってくれた服を、カウンセリングに行くときにしか着れない。
玄関を開けたのは、今日はキワコさんだった。
「あらあら、ユキノちゃん!」と、微笑んだあと、母さんに気がついて「あらあらあら」と大人の女の人がよく出す声を出した。
「まあ、なんかユキノがすっかりごちそうになっちゃったみたいで……」
「いえいえ、ユキノちゃんが来てくれて本当に楽しかったんですよ」
二人はものすごいスピードで世間話を始めた。キワコさんがそんなことをするところは見たことがなかったのでびっくりしてしまう。
「もう、気の利かない子で、ご迷惑をおかけしてるんじゃないかと」
「いえいえ、しっかりしたお嬢さんに育っていて。本当、子供が大きくなるのは早いわねえ」
「本当ですねえ」
「あっという間ですよ。気がついたらうちの子なんてニューヨークにぽーんと飛んでっちゃって永住するんですって」
大人の女の人の喋り方には、なんだか不思議なメロディーがある。先っぽからシャボン玉がものすごいスピードで出てくる鉄砲みたいだ。
大量に何かが発射されているのに、その「何か」はふわふわ空気中を漂っていて、お互いに届くかどうかは運次第。
母さんの口から出てくる大量の言葉に気圧されて少しずつ後ずさりをしていたら、「あれ?」と背中から声がした。
「ユキノちゃんじゃない? 今日はどうしたの?」
「ニワトコさん」
近所のスーパー亀丸屋のビニール袋を下げて、ニワトコさんが私の後ろに立っていた。こんなに接近されて初めて、実はかなり背が高い人だと気づく。
「あら、こちらは?」
「ユキノちゃんのお母さんですか?」
ニワトコさんはにっこり頭を下げた。
「ニワトコ・スティーブンです。キワコさんのところに今お世話になっています」
「あ、ユキノが言っていたイギリスからの……」
母さんは、ちょっとびっくりしたように目をパチパチさせた。わかる。だって、見た目そのまんま日本人なのだもの。
「そうです。日本はこれが初めてです」
「……日本語上手ですね」
母さんはちょっと何を言っていいのか戸惑っているようだった。
「父が日本人だったんです。母は子供のときにイギリスに来たけれど帰化するまでは日系ブラジル人だったので」
ニワトコさんがお母さんの話をするのは初めて聞いた。
「だから僕の名前はポルトガル語がルーツなんですよ」
「え、ニワトコってポルトガル語なの?!」
私は思わずびっくりして大きな声を出してしまった。日本語の、木の名前だと思っていたよ。
「ううん。そうじゃなくて、Helderっていうのが本名。Hがつくんだけど発音は<エルダー>だから英語ではニワトコの木ってこと」
「なんか、ややこしい名前だね」
思わずそう言うと、そうかなあ、とニワトコさんは頭をかいた。
「まあまあ、立ち話もなんだし、お茶でもいかが?」
キワコさんが、そんな私たちをみて面白そうに笑った。
「あ! ありがとうございます!」
と、私が言ったのと
「ありがたいんですけど、そろそろ帰って夕飯の支度をしないと……」
と、母さんが言ったのが一緒だった。
私たちの声が重なった途端に、母さんはぎょっとした表情で私の方をみた。
——あ、やっちゃった。
体のどこかがぎゅっとすくむ感じがする。
……また、怒られる。
「それじゃあ、ユキノちゃんはキワコさんと僕と少しお茶を飲んで行ったら? 夕ご飯に遅れないように1時間ぐらいでそちらに送ってくよ」
ニワトコさんは穏やかに言った。
「スーパーで買物をしてきたんだ。ひらがなとカタカナしか読めないでしょ。なかなかスリリングな体験だった!」
ニワトコさんは上機嫌でビニール袋の中身を出した。赤ワイン。クリームチーズ。油揚げ。パック入りの鰹節。ネギ。たくあん。かまぼこ。
「見たことないものばっかりだし、読めないし。ブランドがわからないからやたら普段買わないような企業のロゴばっか目に入るし」
これとか、あれとか。
ニワトコさんが上げた具体名はどれも多国籍企業のものだった。
「しかも、油揚げが、全部平べったいんだよね! 形が同じだからびっくりしたよ」
そ、そうなの?
というか、私にはいまひとつ、ニワトコさんのびっくりポイントがわからないよ。
「これが今日の晩酌のおつまみなの?」
キワコさんがニコニコ笑いながら聞くと、ニワトコさんは頷いた。
「坪庭にね、ニワトコが小さなベンチをおいたのよ。外に座ってお茶が飲めるようにって」
キワコさんの視線をたどると、キッチンの掃き出しの窓の向こう、本当に小さな中庭にベンチがおいてあった。
「そこに座るんだったら蚊取り線香を出してあげましょうね」
キワコさんはニコニコと立ち上がる。
「まだそんなに蚊が出るわけじゃないけど、今年は温かいから」
「ユキノちゃんは何を飲む? まだ16歳だよね。ハーブティーでも入れようか?」
「あ……はい」
私は玄関で靴をそろえていたのだけれど——ちょっと慌てて頭を下げた。
「ニワトコさんは何を飲むんですか?」
晩酌って言ってたけど——
「僕はね、赤ワイン。ちょっと時間が早いけどたくあんがあったから」
赤ワイン。
と。
たくあん。
「変な取り合わせでしょう」
キワコさんがクスクス笑いながらやってきて、蚊取り線香をつけてくれた。ぷうん、と夏休みの匂いがする。
「たくあんだけじゃないよ。今つまみを作るところだから。でも、ユキノちゃんは、夕飯前だから食べられなくなっちゃうと困るねー」
飄々とした感じでニワトコさんは言うと、慣れた手つきでたくあんを細く切り始めた。油揚げも細く切ってフライパンで炒り、小口切りのネギと鰹節をちらして醤油をちょろっと上にかける。
クリームチーズはちぎった海苔がかけられてわさびとお醤油がちょろっと。
お盆の上に3つの小さな小鉢が並ぶとニワトコさんは満足気に頷いて、今度は私のお盆に取り掛かった。
ガラスのポットに出窓のハーブを摘んで水洗いをしては入れていく。最後に食器棚から小さな銀色の缶を取り出して、何か少し加えた。しゅんしゅんと湧いているお湯をその上から注ぐと、また満足気に頷く。
「それじゃあ、中庭にいこうよ。キワコさんも赤ワイン飲むでしょ」
「ご相伴にあずかりましょうかね」
キワコさんが台所の丸いすを持ち上げようとするので私が慌てて立ってとりあげた。
丸いすを中庭に置くと、ニワトコさんがその上にお盆を載せて箸を私に手渡す。
「ハーブティーには合わないかもしれないけど味見してみて」
醤油皿ぐらいの小さな取り皿に油揚げとクリームチーズとたくあんを少しずつ乗せる。
「……美味しい」
フライパンで炙った油揚げが美味しかった。サクッとして、そのあとジュワッと油と豆の美味しさがにじみ出てくる。
「前も思ったけど、ユキノちゃん本当に美味しそうに食べるよね」
「そうですか」
「うん。ハーブティーも飲んでみて」
小さな粉引の白い湯のみにニワトコさんはハーブティを注いだ。
ふわ。
最初に届いたのはミントの匂いだった。それから、色々なハーブの匂い。淡い金色の熱いお茶を、私は恐る恐る口に含んだ。
「!」
複雑な香りが喉を通り抜ける。私にわかるのはミントだけだったけれど、何か花のような香りと……ほんの少し生姜?
「あったかい……」
熱いお茶を一口飲んだら、今まで汗ばんでいたのに、急にふるっと体が震えた。
「あれ、私寒かった?」
「なんか寒そうな顔してたよねー」
でも、体は少し汗ばんでいたのに。
「あったかくて嬉しいってことはきっと体がそれが欲しかったのね」
キワコさんがニコニコした。
「あ、あの」
「ん?」
「たくあんと赤ワインて、合うんですか?」
「興味ある?」
ニワトコさんはキワコさんの方を向いた。
「日本って、何歳からお酒飲んでいいの?」
「20歳からよ」
キワコさんは苦笑する。
「未成年のお嬢さんにお酒を飲ませるわけにはいきませんよ、ニワトコ」
「そうかー」
ニワトコさんはちょっと残念そうに言った。
「まあ、親御さんもいないしね」
……親がいれば未成年の飲酒が許されるのだろうか。はかりしれないな、イギリス。
「僕のね、親父が好きだったんだよね。たくあんと赤ワイン。多分本当は日本酒が飲みたかったんだろうけど……意外とあわないことも……ない、と僕は思うよ」
えらく微妙な説明だな、と思いながら私は残りのハーブティーを飲んだ。
何も入れていないのにほのかに甘かった。
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