・1-2 前半 はじめまして
・五月十六日 月曜日 六時十三分
ヒロヤ:「ん、ぅん……あ、朝か」
目覚めたのは自室ではなく、リビングの隣にある和室だった。
黒髪の女性:「あっ、起きられたのですね。お体にどこか違和感はないですか?」
隣にはで尻尾が生えた女性が手拭いを持って正座していた。
ヒロヤ:「あれ? 君は……」
綺麗な女性は笑顔で首を縦に振った。
黒髪の女性:「ええ、そうですよ。少し見た目が少々変わってしまいましたけど」
あははとハニカミ、毛先を指先で遊ばせる。
そう言われてみれば毛色が違う。昨夜の輝きが嘘だったかのようだ。
黒髪の女性:「大丈夫でしょうか?」
指先をもじもじとしながら上目づかいで見つめてくる。
ヒロヤ:「ん?」
その潤んだ瞳に思わず胸が高鳴る。可愛い、何かを考えるよりもこの言葉が浮かび上がった。
ヒロヤ:「ああ大丈夫だよ。可愛いなんて一言じゃ足りないくらいだ」
自信満々に力強く親指を立てる。
黒髪の女性:「そんな、もったいないですよ。私なんかにそのようなお言葉は……」
もじもじするその仕草も可愛い。
ヒロヤ:「いやいや、そんなことはないよ。僕は今まで君のような可愛い、いや美しい人に出会ったことがないよ」
黒髪の女性:「で、でも私はそんな存在じゃ……」
目を下に向けて、またしても悲しげに表情が曇る。俺は彼女の手をがっしり握りしめる。
ヒロヤ:「いや、そんなことは関係ない! 君が誰だろうが、人間じゃ無かろうが、君は美しいんだ!」
黒髪の女性:「あ、ああ、あの、あのあのあの……」
テンパってしまって言葉がまともに出ていない。そろそろやめてあげるか。
手を離しお互いの距離を元に戻す。彼女はまだ目をぱちくりさせている。
ヒロヤ:「ところで君が看病をしてくれたのかい?」
黒髪の女性:「看病という程の事はしていませんよ」
ヒロヤ:「いやいや、俺、気を失ってたんでしょ?」
黒髪の女性:「あれほどの霧でしたから。きっとたくさん吸ってしまったんでしょう」
ヒロヤ:「やっぱりあれが原因だったのか」
黒髪の女性:「ええ。ですが体に残った毒は浄化させておきましたので安心してください」
すこし頬が赤くなってる。
ヒロヤ:「そっか。ありがとうね」
黒髪の女性:「いえいえ、当然のことをしたまでです。それにとても可愛らしい寝顔も見られましたので」
にこっと今まで見た事もないくらいの綺麗で美しい笑顔だ。ああ、この子にはやっぱり笑顔が似合うな、最高だな。昨日の気の落ちた顔よりもこっちの明るい顔の方がよっぽど良い。
ヒロヤ:「あはは、これは恥ずかしいな。あんまり見ても良いものじゃないよ」
黒髪の女性:「いえいえ、それはもう良い寝顔でした。とても可愛らしくて……うふふ」
ヒロヤ:「ところでもう足を崩してもいいんだぜ? 流石に痺れたりしないか?」
黒髪の女性:「大丈夫です! なれてますので!」
ヒロヤ:「ならいいんだけどね」
美金:「はい!」
彼女がいいならいいけど……ん? 彼女?
ヒロヤ:「ところで、あー、えっと……」
あれ、彼女って何て名前なんだろう……こんだけ話していて一度も自己紹介していないとかありえねぇだろ。忘れてたぜ。
ヒロヤ:「そういや、名前をまだ聞いてなかったね。君の名前を教えてもらってもいいかな?」
黒髪の女性:「名前ですか……」
ヒロヤ:「うん、お互いに呼び時に困るでしょ? あ、先に名乗るのが礼儀だね、僕の名前はヒロヤ、よろしくね」
黒髪の女性:「ヒロヤ様ですか……」
ヒロヤ:「うん、それが僕の名前。で、君は何て名前なの?」
しかし彼女はまたもや俯いて困ったような表情を浮かべる。
黒髪の女性:「え~っと、無いです」
ヒロヤ:「え?」
黒髪の女性:「えぇと、それがですね……困ったことにまだ無いのですよ」
名がないとはどういうことだろうか、文献などでは名前はあるはずだが……
ヒロヤ:「でも、今までは何かしらの名前はあったんだよね?」
黒髪の女性:「はい、確かに今までも名はありましたが、それらはどれも誰かから名を授けて頂いたものなのです。」
ヒロヤ:「ごめん……つまりどういう事?」
あるじゃないか。それでは何がだめなんだろう?
黒髪の女性:「つまりはですね、私が肉体を得るという事は前までとは違うものになるという事なのです。もちろん、記憶などは共有しております。違う点を挙げるなら、それぞれ性格が異なったり趣味や味の好みなども違ったりします」
味の好み……妖狐って事は狐ってことだろ? 油揚げとか好きなのかな?
ヒロヤ:「ということは、君はあくまでこの世代の君であり、過去の君ではないってこと?」
黒髪の女性:「まあそんなところです。ですから、私にはまだ名がないのです」
ヒロヤ:「つまりは、昔の凶暴な一面はないかもしれないってこと?」
黒髪の女性:「そうですね、今はまだわかりませんが、まだ野心や人を襲いたいとかそういった欲求はないですね。ですが、いつまた人間たちを襲ってしまうか自分でもわかりません」
ということは、完全には安心できないということか。
ヒロヤ:「そうか……」
黒髪の女性:「それでもしよければ、私に名前を付けてくださいませんか?」
ヒロヤ:「え? 俺が⁉ 俺なんかでいいの?」
黒髪の女性:「はい。名付け親となってください」
先ほどの真剣な顔はどこに行ったのか、今は期待に満ちた目で俺を見つめてくる。
ヒロヤ:「う~ん」
どうしたものか、彼女に似合うふさわしい名前なんて思いつかないぞ……大和撫子っぽい雰囲気を帯びているし和服だから日本名の方が良いに決まってるよな。
頭をひねる内に俺はふと昨夜の出来事が脳裏を過った。
ヒロヤ:「金、色……」
金色に、黄金色に輝く彼女。その姿は今まで見てきた女性の中で一番と言ってもいいほど綺麗と言っても過言ではなかった。美しい、この言葉がふさわしいだろう。
ヒロヤ:「美金なんてどうかな?」
黒髪の女性:「みかね……ですか」
ヒロヤ:「うん、『美しい黄金色』って書いて美金。君の事考えていたらあの綺麗な黄金色を思い出してしまって、どうかな?」
頭上の狐耳がピクンと動く。
美金:「ま、またそのようなことを言って、か、からかわないでください」
やはり、褒められることが苦手なのだろうか。でも、その頬を赤く染めた表情が良い、俺の好みをついてくる。
ヒロヤ:「自分を卑下するのはやめよう、君の魅力は幼い子供のような可愛さでなく、大人の綺麗さと美しさだっ! もし通りすがりに君がいたら僕だったら思わず振り向いてしまうね」
これは決して言い過ぎでも社交辞令でもなく、全て俺の本心だ。
美金:「そっそんなっ、褒めすぎですよ! もったいないですよ」
ヒロヤ:「いやいや、勿体なくなんかない!」
恥ずかしさが達したのか、上気した頬を隠すように背を向けられてしまう。少し言いすぎてしまったのだろうか。
ヒロヤ:「ごめんごめん、もう言わないからこっちを向いてよ」
美金:「約束ですよ?」
口を拗ねたように尖らせている。
ヒロヤ:「言わないから、ほら約束」
差し出した小指をみて見かねも小指を絡ませる。それにしても、昔にもあったんだな。指切りって。
指切りを終えると深呼吸を二回ほどして、ようやく振り返ってくれた。
美金:「まったく、ヒロヤ様は口がお上手なんですから」
ヒロヤ:「いやいや、正直に言っているだけなんだけどね、それと、様なんて付けなくていいよ、そんな大層なものを付けてもらえるような人間じゃないから」
美金:「いえ、そういう訳にはいきません。居候までさせて頂いて、しかもご主人様に『様』を付けないなんて無礼にも程があります!」
彼女の中では俺はもうご主人様になっているのか……これでは立場が入れ替わってしまっているではないか。
お礼がしたいのは俺なんだ。小間使いの様な事はしなくてもいいのだ。と何度言っても返ってくるのは、
美金:「いえ、これは何と言われても引けません。住まわせて頂いているのに雑用をしない生き恥をさらしているのも同然です! それに昨日、ヒロヤ様は仰りました。『何でも言ってくれていい。できる範囲以内なら何でもして見せるから』と、ですからヒロヤ様の家で家事手伝いをさせてください」
との一点張り、なかなか頑固な人でもあるようだ。
ヒロヤ:「いや、確かにそういったけど、俺がするのであって美金が……」
する必要はない、と言いかけた時だった。玄関から一つの足音が近づいてくる。
その気配は一度リビングを過ぎ去ったが、すぐに戻ってき、扉を開けた。
ひなり:「おはよ~。ヒロ君、今日は早起きなの、ね……」
無邪気とも言える笑顔が固まっている。まるで浮気現場を女房に見つかってしまったかのような気まずさだ。
いや、浮気以前に彼女なんていないけど……
ヒロヤ:「あ、お、おはよう」
窓から差し込む朝日は痛いほどに眩しかった。
………………
…………
……
午前七時、ご近所の方々はもうとっくに起きて出勤し始める頃だ。俺の家は通う高校からは比較的近いからギリギリまでぐずっていても十分間に合う。だからまだ家を出る必要はない。八時過ぎまでに出れば余裕なのだ。
そう、余裕なのだ……
ひなり:「ヒロ君?」
目の前にあるのは笑顔、優しくない笑顔が俺を見つめている。
ヒロヤ:「は、はい」
高圧的な笑みに見下ろされながら俺は畳の上で正座をしている。
ひなり:「その子は誰かな? なんであんなに距離が近かったのかな?」
ヒロヤ:「いや、これに色々と深いわけがあって……ひっ」
威圧という黒い存在感が膨れ上がる。でも決して崩すことのいない笑顔が泣きたくなるくらいに怖い。
ひなり:「へぇ、一体どんな訳かな? 気になるなぁ、聞かせてくれるかしら?」
目線を座る俺の高さに合わせて、常に閉じられたているように見える細い目、美金に負けず劣らずの白く細い指で俺の頬を優しくくすぐるように撫でる。全身の毛が逆立った。
美金:「ヒロヤ様? この方はどなたでしょうか?」
美金が俺の袖をクイクイとつまむ。
可愛い、この申し訳なさげに下から見上げてくる瞳、悩むように下がる眉毛。しゅんと寂しげに垂れ下がった耳が愛くるしい。もう抱きしめてしまいたくなる。
ヒロヤ:「大丈夫、怖……悪い人ではないから」
ごめん、怖くないとは言えなかった……
ヒロヤ:「この人はね『ひなり』っていって、お隣さんで一つ上のお姉さんだよ。僕が小さい時からの付き合いで幼馴染みたいな関係だよ」
美金:「なるほど、解りました」
美金は俺の隣で指をついて正座をする。その姿はどこぞのお嬢様を思わせるような綺麗な姿勢だった、大和撫子というべきか、和の美人を絵に描いたかのように思えた。
ひなり:「な、なに?」
ひな姉は思わず後ずさる。
美金:「初めまして。今日からこちらのヒロヤ様のお家で仕えさせていただくことになりました。美金と申します」
ひなり:「ひ、ひろ君? 仕えるってどういうこと? お姉ちゃんに解るように説明してほしいなー」
ひな姉が両肩を前後に揺らしながら聞いてくる。激しく揺らされるもんだからマシュマロのような柔らかいものが何度もあたった。
あかん、体が密着した状態だからひな姉の胸元が……っ!
ひな姉の襟元の隙間からはピンク色の布がちらりと見える。
ヒロヤ:「近い近い近い近い! ひな姉、少し離れて!」
ひなり:「そんなこと言って、ちゃんと話すまで逃がさないよ」
ひな姉のホールドが強くなる。
ヒロヤ:「ちがっ、お願いだから、離れ……」
ひなり:「だぁめよ、逃がさないんだから」
ひな姉は俺の頭を事もあろうにおっぱいの谷間に埋めた。
ヒロヤ「もご! うごおおおおお⁉」
ひなり:「ほらほら、言いなさいよヒロ君、言わないと押しつぶしちゃうよぉ」
そう言うと俺の頭をホールドしている力がぐっと強くなって動けなくなる。
わざとやってるだろこれ⁉ あ、でもいい匂い、しかも柔らかい……力が抜ける、もう身を、おっぱいに任せてもいいかな。そうだ、思い切って深呼吸しよう。
ヒロヤ:「すぅ、はぁ」
洗剤の香りとひな姉の香りが鼻の中で混ざりあって、気持ちいいです。
あぁ、良きかな、おっぱい。
ひなり:「ちょっちょちょちょちょっとヒロ君何やってるの⁉」
ひな姉自ら俺を引き離した。流石に抵抗されないのは恥ずかしかったみたいだ。
あぁ、おっぱいが……俺の楽園が……
美金:「あ、あのヒロヤ様?」
声の方を見るとすっかり取り残されていた美金が口元を引きつらせながらじっとこちらを見ていた。
ヒロヤ:「ああ、ごめん。ほったらかしにしてしまったね」
美金:「いえ、別にいいといますか、混ざらなくてよかったといいますか……」
あかん、完璧に引かれちゃってるよ、これ。
ヒロヤ:「話を戻すけど、長くなるけどいい?」
ひな姉は何も言わずに一つ頷いた。
俺は昨日から今朝に至るまでの事を残さず話した。隠そうかと思ったけど隠したところでいつかは話す時がくるだろう。
ひな姉も話している間は口を挟むことなく黙って聞いてくれていた。
ヒロヤ:「これが昨日の晩から今日の朝に至るまでに起きた出来事だ」
ひなり:「じゃあ、この子は学校の裏山の殺生石に封印されていた九尾さんだっていうの? それを私に信じろって言うの?」
ヒロヤ:「この状況をすぐに理解してくれって言うつもりはないよ。でも、言った事は嘘じゃないって事は信じてくれよ」
いきなりこんなこと言われて訳が分からなくなるのは仕方がないだろう。眉唾な話だ。山に行って妖狐さんを連れて帰ってきました~。なんて誰が信じるというんだ。
ひな姉は真面目な顔をしてじっと俺を見つめてる。
ヒロヤ:「な、なんだよ」
ひなり:「ヒロ君が嘘をついてないっていうのは目を見れば解るから。でも、お姉ちゃんは……」
何かを言おうとした時、リビングの扉が開いた。
親父:「ふわぁ……眠いわ、やっぱり徹夜はつらいわ~」
入ってきたのは上下をよれよれで灰色のトレーナーという『ザ・おっさん』セットを着こなした親父だった。
ヒロヤ:「父さん、また徹夜してたのか?」
親父:「ああ、締め切りが近いんでな。詰め込んでやらなきゃ間にあわねぇ」
頭をボリボリと掻きながらテレビの前のソファーに座った。
ひなり:「おじさん、おはようございます」
ひな姉がすばやく牛乳を差し出す。
親父:「お、ありがとうよ。息子のために今日も悪いね~」
ひなり:「いえ、いつものことですので」
そう、いつもの。こうやってひな姉が毎朝俺の家に迎いに来てくれるのは俺たちが同じ学校に通っていて、家が隣同士の幼馴染だからだ。この関係はもう小学校の頃より前から続いている。
親父:「で、どうすんだ?」
ヒロヤ:「どう、とは?」
親父:「とぼけんじゃねぇよ。そこの美金ちゃんだっけか、お前が連れてきたんだろ?」
なんで父さんが知っているんだ? まだ何も言ってないのに。
親父:「別に俺はどうこう言うつもりはねぇよ。確かにその子がどこぞの家様の子だって言うのなら話は別だがよぉ。」
ヒロヤ:「ちょ、ちょっと待ってよ。なんで俺が連れてきたって……」
親父:「お前さっき必死になってひなちゃんに説明していたじゃないか」
ヒロヤ:「盗み聞きしてたのかよ……ってことは」
美金が妖狐だってことも。
親父:「ああ、もちろん聞いていたぜ。お前が助けられたこともな」
父さんは美金の方に向いて頭を下げた。
親父:「二度目になるが、愚息を助けてくれてありがとうな。これでも俺の一人息子なんだ」
父さんが人に頭を下げるとこを見たのは何時ぶりだろうか。いつも勝手で我が道を行く父さんだが、通すべき筋は通すというところは数少ない父さんの尊敬できるところだ。
美金:「そんな、おやめください。私は当然の事をしたまでです。頭をお上げください」
美金はあたふたしていた。
ヒロヤ:「俺もだよ。見ず知らずの、初対面の俺なんかを助けてくれて。もう何て言ったらいいかわからないけど、感謝の気持ちで一杯だよ。本当にありがとう……」
俺も父さんに並んで深々と頭を下げた。
昨日命を助けてもらっただけでなく、今日の朝にかけてまで看病をしてくれた美金にはいくら頭を下げても足りない。
美金:「ヒロヤ様まで、おやめください! 私だってあの石から出たかっただけなのですから……」
ひなり:「まったく、親子二人して何やっているんですか。美金ちゃんが困っちゃてるじゃないですか」
ヒロヤ:「痛い痛い、痛いよひな姉」
ひな姉に首元を掴まれて無理やり頭を上げさせられる。
ひなり:「ほら、おじさんも」
父さんも顔を上げた。
ひなり:「で、おじさんは信じるんですか? この子が妖狐だって……」
親父:「息子を信用できねぇようじゃ親失格だよ。金の事なら気にすんな。これでも一応は売れっ子作家だ。何とかなるくらいの蓄えはある」
父さんは微妙な笑顔を浮かべ、筋肉のない力こぶを作って見せた。
美金:「あの、お父様」
そんな父さんに今度は美金が頭を下げ、「改めまして、美金と申します」と、名乗った。
見事な三つ指だった。下げた頭から垂れ落ちる髪が描く円弧の奇跡が日の光を受けて星々をちらつかせる。横の髪からは白い頬と、赤く潤った唇が見えた。
親父:「おう、その名前はヒロヤが付けたんだってな」
美金:「はい、私なんかの為にヒロヤ様がそう名付けてくださいました。この名を一生などと私なんかが言うとおかしいかもしれませんが、この命がある限り大切にし、わが魂と共に在り続けるつもりです」
それはさすがに言い過ぎではないだろうか。
親父:「ほう、俺の息子にしては良い名じゃないか」
俺の方を向いて嫌味に笑いやがる。
ヒロヤ:「うるせえよ。誰の息子だと思ってんだよ」
親父:「俺の息子の割に皆無だったじゃねえかよ、昔飼ってた猫の名前とかさぁ」
ひなり:「おじさんそれは……」
ひな姉が申し訳無さそうに止めに入る。
親父:「あー……」
父さんは頭をボリボリと掻いた
親父:「すまん、今のは俺が悪い」
ヒロヤ:「いや、いいよ。昔のことだし……」
何とも言えない暗い空気が生まれてしまった。
そう、これは昔のこと。
もう過ぎてしまったことだ。
親父:「ま、まあ、お前にネーミングセンスがあったなんて父さん驚きを隠せんぞ」
父さんは盛り上げようと努めて笑いながら話を進める。
親父:「美金ちゃん、自由に住んでもらっても構わない」
美金:「はい、ありがとうございます」
ひな姉が何かを言おうとしたのが視界の隅に映る。
親父:「行く所が無いなら当然だ。ただし、家の事は全てしてもらうぞ」
ヒロヤ:「待ってくれ父さん。この子は俺の命の恩人なんだ。彼女に働かせるなんて反対だよ」
何を言い出すかと思えば働けだって? それじゃ意味がないじゃないか
親父:「甘いな、いくら命の恩人だからといって働かなくていいという訳ではないだろう?」
ヒロヤ:「だ、だけど……」
親父:「まあ聞けよ、話を聞く限りではこの子は社会の仕事をすることは不可能だ」
たしかにそうだ。いきなり現れた人が働くなんて事は難しいはずだ。
親父:「だったら家で住む限りはしっかりと家事手伝いをしてもらわなければ、タダ飯喰らいの居候だ。嬢ちゃんもそんなのは嫌だろう?」
美金:「はい、そんなの自分が許せません」
美金が強く主張する。
親父:「だったらお互いの意見を尊重し合うしかないだろう。そうしないと話が終わらん」
ヒロヤ:「だったら、俺はどうしたらいいんだ?」
親父:「知らん」
父さんは短く言った。
親父:「分からないのなら自分で考えろ。もう小さくないのなら自分で考えて自分で行動しろ。お前が連れてきた女の子だろう? なら責任は自分でとれ」
珍しく真面目なことを言われた。いつものちゃらんぽらんからは全く想像できない位に「父さん」をしていた。
ヒロヤ「分かったよ。美金、意見がいろいろ変ってしまって申し訳ないがこれからよろしくお願いします。困ったことがあったら何でも言ってくれ。力になって見せる」
改めて深々と頭を下げた。
美金:「はい、誠心誠意頑張らせていただきます」
美金も深々と、俺よりも深く頭を下げた。
これで綺麗にまとまって話が終わると思ったが、
ひなり:「ちょ、ちょっと待ってください!」
ひな姉が声を上げた。
ひなり:「おじさん! そんな簡単でいいんですか⁉」
親父:「んー? どうしたんだい、ひなりちゃん」
ひなり:「だって女の子が一つ屋根の下で暮らすんですよ? 何か問題があってからでは……!」
そんなひな姉に父さんは我が子をあやすように頭を撫でた。
親父:「ひなりちゃんもいつもウチに通り来たらいいんだよ。別に君の場所を取り上げるって言っているわけじゃないからね」
ひなり:「でも、でも……」
何かを言おうと必死に言葉を紡ごうとするひな姉の姿は子供のようにも見えた。
親父:「それに、ヒロヤの事を一番理解してくれているのはひなりちゃんだからね、これか
らも任せたよ」
ひなり:「おじさん……」
親父:「という訳で、おじさんは寝るわ。流石にもう瞼が重くて重くて……」
ひな姉の肩を叩いて、リビングを後にしようとしたが首だけ振り返った。
親父:「あ、ヒロヤ」
ヒロヤ:「ん? なんだい父さん」
親父:「お前は今日学校を休め」
それは突然の命令だった。
ヒロヤ:「え?なんで?」
唐突すぎて何を言われているのか、意図を掴めなかった。
親父:「なんでってそりゃあお前、誰が美金ちゃんに現代の事を教えて我が家の事を教えるっていうんだよ」
あ、そういうことか。
なろほどと手をぽんと打つ。
ヒロヤ:「分かった。という訳でひな姉、今日は一緒に行けないよ」
ひなり:「はーい、そういうことならなら仕方ないね。じゃあ行くわね」
床に転がった鞄を拾い上げて立ち上がるひな姉を玄関まで見送りに向かう。
ヒロヤ:「いってらっしゃい」
ひなり:「行ってきまーす」
ひな姉は笑顔で学校に行った。
翻ったスカートから伸びた足は晴天の陽光を受けてキラキラと煌めいていた。
親父:「じゃあ俺も今度こそ寝るからな。任せたぞ」
ヒロヤ:「あいよ。おやすみ」
父さんもリンゴが入ってしまいそうなくらいの大きな欠伸をして自分の部屋へと帰って行った。
嵐が過ぎ去った部屋は先程までの騒がしさが嘘のように静まり返っていた。そこに残されたのは俺と美金だけ。
美金は何をしたらいいのかと指示待ち状態だ。
辺りを見渡す余裕ができたからだろうか家具を見ては珍しそうに目をキラキラさせている。
ヒロヤ:「で、これからどうしようか?」
さて、まず何からしたものか……家事と言ってやることは山のようにある。
昼はまだ先だから料理は後でいいとして、洗濯や掃除の時に使う機械の使い方を説明しなくてはならない。
美金:「ご指導の程よろしくお願いします」
やる気は満々のようだ。
ヒロヤ:「そんなに気負わなくても……ま、まずは現代の物についての説明と、我が家の説明から始めようか」
俺は現代について軽く説明した。電気が発明されたこと、それによって様々な用途の機械が普及したこと。それらのおかげで生活が発展したことを美金に話した。
美金:「ふむふむ、私の生きていた時代からは考えられないくらいに人間は進歩をしたのですね」
ヒロヤ:「そうだね、これらは全て今の人間にとって欠かせる事ができない物になっていて、日々の生活を支える物となっているよ。使い方とかは慣れてもらうしかないね」
美金:「はい、良ければ教えて頂いてもよろしいでしょうか?」
ヒロヤ:「うん、もちろんだよ。一番大事な火辺りの事から行こうか」
流石に家は燃やしてほしくはないからね。
それから俺は美金に火の熾し方、つまりはIHの使い方を教えた。稀に発火事故が起きているのをニュースで見かけるから油断はできない。
ましてや相手は現代の事に関しては赤ん坊の状態だ。いくら人と成りが良くても機材の扱い方を知らないのは論外か。
まずは電源の入れ方、スイッチ操作、コードの刺す場所、諸注意などをしたが俺の説明下手のせいで中々理解してははもらえなかった。
そんななか、雑貨物入れの中に取扱説明書の山を発見しとりあえずこれを読んでもらうことにした。
そして驚いたのは美金の読解力だった。取扱説明書の山を二十分もかけずに読み終えた。
それから彼女は見違えるように呑み込みが早くなっていた。俺は自分の説明力の無さを教えられたような気がした。ちくせう……
美金は逐一可愛かった。冷蔵庫を開けた時には、「すごいです! この箱の中だけ冬です! 極寒です!」と驚き、またテレビのバラエティー番組をを見た時には「この方々はこのような小さな箱の中でいったい何をなされているのでしょうか?」とモニターをコンコンと叩いてみたりとタイムスリッパーのようだった。
そして!
その時にピョコピョコと跳ねる耳がもう可愛いらしいのなんのってもう俺の純情を弄ぶ。あぁ、触りたい。あの愛らしい耳を摘まんでなでなでしたい! もっふもふでふっわふわの尻尾に頬ずりをしたい。俺の葛藤は長く続いたが自制心が勝利、我を忘れてもふるような醜態を晒すことは無かった。
その後、俺の中で「全俺我慢比べ選手権」を繰り広げながらの作業は一個ずつ終えていった。
全ての説明を終えた頃には、紅い日が空に滲み出していた。
俺はソファでお茶を飲みながら食器を洗っている美金を眺めている。美金はもう食器を一人で洗えるほどには成長していた。
ヒロヤ:「いやーすごいね。これほどの量を一日、いや半日で覚えてしまうなんて」
美金:「いえまだ全然ですよ。一つ一つを思い出しながらの作業になってしまっていますので……完璧に覚えて効率よく家事をできるようにならなければなりませんね」
ヒロヤ:「そうだね~」
それでも美金の作業スピードは中々のものだと思ったけどなぁ。
確かにちょいちょい手が止まる個所はあったけれども次第に見なくなっていた。
ヒロヤ:「でも、これから慣れていけばいいさ。時間はたくさんあるんだから。これもおねがい」
飲み干した湯呑をシンクに置く。
美金:「はい、これからも、ですか……そうですね。よろしくお願いしますね」
またしても、昨日見た不安そうな表情がちらりと見えた気がした。
十八時を半分近く回った頃、ひな姉がビニール袋を両手に下げて帰ってきた。
ひなり:「ただいま~。ヒロく~ん、言われた通り晩御飯の材料買ってきたわよ~」
美金に説明をしている間にひな姉が帰ってきた。帰ってくる前に晩御飯の買い出しをお願いしていた。
ヒロヤ:「お帰りひな姉。追加でお願いなんだけど、美金と一緒に夕飯を任せてもいいかな?」
ひなり:「うんいいわよ~。さっ、美金ちゃんこれ付けてこっちへおいで~」
エプロンを差し出すが、美金は手を差し出したまま動かない。恐らくこれが何なのか分かっていないのだろう。
美金:「よろしくお願いします。……これは何ですか?」
やはり、分かっていなかったようだ。
ヒロヤ:「あぁ。これはね――」
親父:「これはねエプロンって言ってな、料理の際に飛び散る汁から衣類を守るためのものだ。美金ちゃんの時代では前かけとかそんな類のものじゃなかったかな?」
ヒロヤ:「うぉぉっ⁉ 父さんいつの間に沸いてでた⁉」
先程までいなかったはずの父さんが何の前触れも気配も無く隣に現れた。これには流石のひな姉や美金も驚いて……
ひなり:「あ、おじさん。おはようございます」
美金:「お義父様。おはようございます」
あ、あれ? そんなに驚いてない……
親父:「どうしたヒロヤ。阿呆みたいに呆けて」
ヒロヤ:「な、なんでもねぇよ」
親父:「そうかい。おはよう、ありがとうよ。お二人ちゃん」
二人に感謝しつつ美金の背後へ回り込む。
親父:「そんでエプロンはな、こうやって、こうして……うん、これで完成!」
素早い手際で美金の体にエプロンを装着していく。美金は両手を広げて背中の方を見ようと右左と首を動かす。
美金:「なるほど、こういう感じになったのですね。これは昔とあまり変わって無いです」
親父:「ほほ~、やっぱり和服にはエプロンは似合うねぇ。うんうん、綺麗だ。特にきつめに締め付けられた腰にできるくびれが描く放物線が小川を連想させる。うん、素晴らしい……なあヒロヤよ」
ヒロヤ:「ああ、でもその締め付けのおかげで美金の控えめの胸が誇張されて、ささやかだった膨らみが柔らかな膨らみへと変化した。うん、ふつくしい……」
俺たちはジロジロと穴が開くほど美金を観察した。恥じらって胸とお腹を隠す仕草も素晴らしい。これが大和撫子というものか。
美金:「お、お戯れはお止めください」
ヒロヤ:「恥ずかしがることは無いよ。さぁもっとその可愛い姿を見せてはくれないかな」
指をワキワキしながら詰め寄ると
ひなり:「ヒロく~ん? いい加減にしないとお姉ちゃん怒るわよ」
ひな姉が眉間に皺を寄せた笑顔で禍々しい存在感を放っていた。
ヒロヤ:「じょ、冗談だよ~、あはは」
流石に冗談が過ぎたようだ。でもあの反応は可愛かったな。ひな姉がいない時にでもまたやってみるか……
ヒロヤ:「で、父さん、どうしたの? 飯はまだだよ」
親父:「少し喉が渇いてな。まだまだ仕事があるから今日もワンチャン徹夜の可能性があるんでな」
首に手を置いてゴキゴキと首を鳴らす。
ひなり:「おじさんまたそれをやって……痛めて知りませんよ」
ひな姉が呆れたようにため息を吐く。
親父:「あははごめんよ。癖になっちゃっててね」
詫びれた様子も無く軽く笑う。
親父:「んじゃ、おじさんもっかい仕事に戻るわ。美金ちゃんのごはん楽しみにしてるよー」
と手をひらひら振ってリビングを出ていった。
ひなり:「それじゃあ気を取り直して作りましょうか。準備はいい? 美金ちゃん」
美金:「はい。よろしくおねがいします」
ヒロヤ:「これからひな姉がコンロ……つまり火の熾し方を教えてくれるから、よく聞いて一緒に夕飯を作ってみて」
美金:「わかりました! 腕によりをかけて作ります」
腕まくりをして台所へ向かった。美金の背中は強めに締め付けられたエプロンのせいか引き締まって見え、一本の棒のような真っ直ぐな姿勢だった。
何の気もなしにふと窓の外を見ると、日は傾き、ほとんど沈んでいた。
ヒロヤ:「もう夜だな」
ふう、と一息をつく。
ご飯ができるまでもう少し時間がかかる。
それまでどうしようかと考える。
ヒロヤ:「ん?」
窓の外。家の小さな庭に小さな動く影に気が付く。
それも一つじゃない。一つ二つ、いや、もっといるな。
俺は窓を開けてその正体を確かめようと庭へ出る。
――コヤァーン
聞きなじみのある高い鳴き声とともに陰から姿を現した。
ヒロヤ:「おお!? なんでこんなところに」
鳴き声の正体は『狐』だった。その数およそ10匹。
この町にはしばしば狐が姿を見せる。
学校の裏山に生息しているのであろう彼らは稀にこうして山から下りてくることがある。
だが降りてくるといってもこんな住宅街のほうまで顔を出しに来るのは稀で、いつもはもっと山よりの場所まで会いに行かなければそうそう遭遇することもないのだ。
俺は暇があればマモルのところの山まで行き、よく戯れていた。
ヒロヤ:「どうしたんだお前らこんなところまで来て」
地面に膝をついて狐たちを指で「ちちち」と誘う。
すると狐たちは警戒することなく近寄ってくる。
ズボンをクンクンと嗅いだり、ポッケの端を齧ったりしてくる。
ヒロヤ:「あははは。可愛いなぁお前らはやっぱり――ってあいたた」
差し出していた指をあまがみされた。
ああ~、やっぱりこのもふもふの生き物はやっぱり良いなぁ。癒されるぅ。
ひなり:「ヒロ君はさっきから何をやっているの……ってきゃあ! き、狐⁉」
手に体をこすりつけてくる狐を堪能しているとリビングからひな姉がやってきた。
ヒロヤ:「なんだか山から下りてきちゃったみたいなんだ。どうしたんだろうってひな姉?」
ひな姉は少しだけ開けて顔をのぞかせている。
ヒロヤ:「そんなに狐のこと苦手だったっけ?」
ひなり:「駄目、駄目なの!」
泣きそうな顔で言い、顔をぶんぶんと左右に振った。
ひなり:「噛む生き物は全般的に駄目なのよ! ――きゃあ!」
窓からはみ出したひな姉の足を狐の一匹がくんくんと嗅いでいた。それに驚いたひな姉は思わず尻餅をついた。
ひなり:「ひ、ヒロ君ヒロ君っ! 助けてぇ……」
ああ。あれはもうマジ泣きしちゃうやつだ。
仕方ないなぁ。と腰を上げようとした時だった。
周りにいた狐たちが皆同じ方を向いて止まっていた。
その異様さにひな姉はもう一度「ひぃっ」とないた。
視線の先にはひな姉の叫び声を聴いてやってきた美金の姿があった。
美金:「どうなさったのですか? ってあら」
美金は狐の群れを見て驚いたような納得したような表情を見せた。
美金:「こんなところまで追いかけてきちゃったのですか」
美金は狐たちを見てつぶやくように言った。
ヒロヤ:「美金にはなにかわかるの?」
美金:「ええ。この子たちは私を追いかけてここまで来ちゃったみたいですね」
美金はそばまでやってきて狐たちを見下ろす。
狐たちは皆そろって美金を見上げている。
その光景はまるで主従関係を表しているようだった。
ひなり:「美金ちゃん。この子達に山へ帰るように言ってもらえないかしら」
ひな姉は美金の背中に隠れながら言った。
ヒロヤ:「そうだね。その方が良い」
美金:「わかりました。――皆さん帰りなさい」
指示というよりは命令に近い声色で美金は言った。
すると狐たちは回れ右をして走り去っていった。
俺はその群れの背中に向かって「もうこんなところまで来ちゃだめだぞ―」と声を投げた。
ひなり:「は、はぁぁぁぁぁぁ怖かったぁ」
ひな姉は今度こそその場にへたり込んでしまった。
ヒロヤ:「なんだったんだろうね」
美金:「きっと山にあった私の気配がなくなったから、こうしてここまで嗅ぎつけてきたのでしょう」
ヒロヤ:「あれは美金の配下か何かなの?」
美金:「ええ。ああいった獣の姿をした彼らは私のように神気にまで至った者に付き従うようになっているのです。私の場合は四足(すそく)の獣がそれに該当するのです」
ヒロヤ:「へえー。すごいねぇ」
美金:「いえ、それほどでもありませんよ」
ヒロヤ:「それじゃあさ。またあの子たちが町まで降りてきちゃってたらさ、駄目だよって言っといてあげてくれないかな? 町が狐であふれちゃったら、きっと人間に追いやられちゃうからさ」
美金:「ヒロヤ様はお優しいのですね……」
ヒロヤ:「ん? そんなことはないよ?」
美金:「うふふ。お優しいですよ。ひなりさま、大丈夫ですか?」
美金は微笑むとひな姉の具合を気遣った。
ひな姉はもう大丈夫と立ち上がると再び二人で料理を始めた。
ひな姉と美金が炊事に精を出している間、俺は一度自分の部屋に戻りすっかりと忘れていた携帯の充電をしてしばし眠ることにした。
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